97話 現実
ミシェリーの癒しによる強制的な眠りのなかで、ブレスは夢を見ていた。
とりとめのない夢だ。
のどかな風景。協会長との会話。カナンとの旅の記憶。
時折悪夢も混じった。それはブレスが恐れにかられた時に、悪い想像を巡らせて思い描いた映像だったり、妹のエルがフェインに見せていた悪夢だったりした。
悪夢のなかには、最後の記憶も現れた。
水鏡の魔術師イルダと帝国の将アスラシオンに追いつめられ、夢のなかでブレスは死ぬ。
実際に死んだはずだ。夢から覚めるたびに、ブレスはそれを確信した。
あれは現実。助かるはずもなかったのに、どうして自分はまだ生きているのか。
朧気な意識で幾度か目が覚めるたびに、目の前にはネモとミシェリーがいた。ミシェリーは黒猫のすがたのまま、ブレスの傍らで片時も離れずに丸くなっている。
ネモは癒術に加えて医学も嗜んでいたらしく、ブレスの健康状態を日々観察しているようだ。
時折ブレスの腕や脚を持ち上げ、曲げ伸ばしして、関節が固まらないよう気を配ってくれている。
ようやく会話するだけの気力が戻り、人が変わったように無口になったネモに「申し訳ありません」と伝えると、彼は安堵と同時に深い悲しみの色を滲ませた。
血管に栄養や水分をじかに投与していた時期を過ぎ、水や食事を徐々に経口摂取するようになると、ブレスはよく調子を崩すようになった。
ネモが言うには、体内に入り込んだ毒物の影響らしい。内臓の損傷が回復していないのだそうだ。
自分がなぜまだ生きていられるのか、つくづく不思議である。
「ネモ様……そろそろ、なにが起こったのかを、教えて頂けないでしょうか」
「……そうですね」
ネモは目を伏せ、深いため息を吐く。このひとも人の世話をやけるほど健康ではないというのに、毎日ほとんど付きっきりで看病してもらって心苦しいことこの上ない。
「それでは……秋の君を呼んで参りますので、お待ちを」
マリーを連れて戻ったネモは、沈鬱な面もちでゆっくりと語り始めた。
言葉を選びながら、しかし、けして嘘やごまかしを混ぜずに。残酷な真実を、淡々と語った。
ブレスは話を聞き終えると、寝台に横たわったまま片腕で顔を覆った。
カナンは行ってしまった。たったひとりで、傷ついた身体で。
出来の悪い弟子の命を救うために自己犠牲を払ったカナンを思い、目の前が真っ暗になった。
四人目の存在に感づいていながら、戦えない体調で迂闊に外に出たブレスが悪かったのに。
「あのね、フィー……」
後悔に暮れるブレスに、マリーが慰める声音で呟く。
「カナンは知ってた。死者を蘇らせることが、サタナキアが定めた禁忌に触れるってことは、カナンはちゃんとわかってた。
禁忌を破って、カナンはいま父上から罰を受けている。翼をもがれて、神格を剥奪されてる。
でも、ずっとじゃない。カナンが正しい行いをすれば、父上は許してくださる。あたしみたいに」
マリーはそっと微笑み、過去を語る。
マリーが影の魔女に変貌した時、サタナキアはマリーの神格を剥奪したのだそうだ。
それでも魔女会を作り、魔女たちをまとめ上げ、己の行動の責任をとったマリーを、サタナキアは最後には許した。
「だから、大丈夫だよ。フィーに死んで欲しくなかったのは、あいつの意思だったんだ。フィーが気に病まなくていいんだよ。
フィーは長生きして、〈古きもの〉を目指すんでしょ? だったら、カナンが許されるその時を、あいつと一緒に待ってあげてよ」
「……はい。はい、マリー様……」
声を押し殺して涙を袖に押し付けるブレスを、マリーは優しく見下ろした。
ネモも僅かに表情を和らげる。希望はまだ失われてはいないのだ。
ブレスの呼吸が落ち着いた頃を見計らい、彼は話の続きを語り始める。
「その後、あなたの肉体が安定するまで、我々は数日屋敷にとどまる事になりました。その間に把握した情報によると、侵入者の指揮官であったアスラシオンは死亡。
水鏡の魔術師イルダは戦いのさなかフェイン殿に攻撃を放ち、〈証〉のペンダントの制裁を受けて魔力を失いました。主君を裏切った魔術師を、古代王アリエスは許さなかったようです。
イルダはこちらの内情を知り過ぎているため処刑も検討されましたが、フェイン殿が庇いだてしたため監禁されています。
そして我々は、国王陛下の命により帝国へ向かう第一陣として、現在船旅の真っ最中というわけです」
イルダはアリエスの石に罰せられ、魔術師としての力を失った。
所有者を裁いた石はその後、粉々に砕け散ってしまったそうだ。
イルダはもう、魔術を使えない。
「フェインとレシャは、どうなりました」
話に出てこない兄とレイダの息子の身をあんじて、ブレスはネモを見上げて訊ねる。
ネモは肩をすくめて、ご心配なく、と言う。
「彼らは別の船に乗船しております。身内から裏切り者が出ようとも、フェイン殿の存在は此度の戦において必要不可欠ですから」
「大丈夫。ちゃんと賓客として扱われてるよ。あたし、たまに見に行くんだけど、フィーの目が覚めたと知って安心してた」
それならば良かった。ブレスは安堵の息を吐く。安心した反動で、どっと疲れが押し寄せてきた。
眠りに落ちかけた朧気な意識で、ブレスは呟く。
「……イルダは、父親を殺した彼らを憎んでいたんです。フェインもレシャも、殺したくて殺したわけじゃなかった……ふたりはその出来事を乗り越えることが出来たけれど、イルダは出来なかった。誰も悪くなんてなかったんです。ただ、どうしようもなくて、ああなってしまっただけで……」
彼だって帝国の被害者には違いない。
イルダはこれからどうなってしまうのだろうか。
彼にはもう、救いの道は残されてはいないのだろうか。
心を痛めるブレスに、ミシェリーが宥めるように額を擦り付ける。
『あの男がこの先どう生きるのかは、あの男次第よ』
たしかにそれも間違いではない。けれど。
傷ついたときに泣くことを許され、助けてほしいときにちゃんと手を差し伸べてくれる人がいる。
そんなひとの優しさに包まれてきたからこそ、人は、自分たちは、闇に落ちずに生きて来られたのではないのだろうか。
「フィー、あのね。もうひとつ、伝えなくちゃいけないことがあるんだ」
睡魔に呑まれる意識の端で、マリーが覚悟を決めたような堅い口調で告げる。
「まだ可能性の話なんだけど……もしかしたらフィー、不老不死になっちゃったかもしれない」
その言葉になにかを思う間も無く、ブレスは深い眠りに落ちていった。
⌘
最後になにか、とんでもないことを言われた気がする。
夢の世界に立ちながら、ブレスは頭を抱えて唸った。だめだ。理解できない。
「ミシェリー? いまのどういう意味?」
名前を呼べば、暗闇の中から黒猫がとことこ歩いて現れた。金色の目でブレスを見上げながら、ミシェリーは後ろ足で立ち上がって前足をブレスに差し伸べる。
起きているときはろくに身体を動かせないが、夢のなかでは違う。
ブレスはミシェリーを抱き上げ、きれいな毛並みに頬をすり寄せた。
孤独に蝕まれずに済んでいるのは、ミシェリーのおかげだ。この黒猫と出会わなければ、ブレスはとっくに折れてしまっていただろう。
『本当に聞きたい?』
なにやら意味ありげな事を言うミシェリーに、ブレスは頷く。
次に目覚めるのがいつになるのかわからない以上、ブレスだって状況を把握して少しでも頭のなかを整理しておきたい。
『じゃあ、話すけれど……あのね、サタナキアの子らに流れる血には、それぞれ力があるの。プライラルムは護りの力。ヘリオエッタは浄化の力。サハナドールは強化の力。そしてカナリアの血には、不滅の力が宿っている。
不滅の力がもたらすものは、復活と再生。お前は生き返るときに大量にカナリアの血を吸収したでしょう。その作用で、死ねない身体になってしまったかもしれない、とサハナドールは言ったのよ』
「……わお」
なんということだ。予想外すぎて頭がついていかない。
思考停止状態のブレスの頬に、ミシェリーは猫パンチを食らわせる。
尖った爪がちょっとだけブレスの頬を引っかいて、我に返った。
「ええと……その血の力って、ナーク神と四柱以外に知っている人間はいるのか?」
『昔はたくさんいたわ。カナリアの身柄を巡って起きた戦争の半分は、魔術師の長寿をうらやんだ王たちが不老不死を求めた結果起こったものなのよ』
「……そうだったのか」
人間の欲は罪深い。王の願いを叶える為に、幾万の兵が命を落としたのだろう。
『でも、現代でカナリアの血の力について知っている人間は、たぶんお前たちだけだわ。戦いの火種になるから、サタナキアは人間からその記憶を奪ったの。サハナドールが闇に落ちた頃と同じ時期だったかしら』
「それって……」
知ってはいけないことを、ブレスは知ってしまったということだ。
それはどう考えてもまずい。
このままではいつかそのうち、ブレスはナーク神に「なかったこと」にされてしまうのではないだろうか。
悪い想像を巡らせて青ざめる宿主の思念を読み、ミシェリーは呆れた様子でフスンと鼻を鳴らした。
『馬鹿ね。だからカナリアは、サタナキアから罰を受けているんじゃないの』
「あ、そういうことなのか……?」
『そうよ。血をもってお前を蘇らせた。せっかく消去したカナリアの血の秘密を、人間の前で暴露するような真似をした』
「ナーク神はそれで怒っているのか。先生がこの世界を再び戦乱の世に変えかねない行いをしたから」
『ええ。サタナキアはお前じゃなくて、カナリアを罰した。だからお前は、ただ黙っていればいいのよ。それに……』
たとえ肉体が不死となったとしても、精神はいつか必ず壊れる。
ミシェリーの拗ねたようなその言葉を聞いて、ブレスはほっとした。
自分でも不思議だったけれど、果てのない時を永遠に過ごすよりも終わりが訪れるほうが良いと、自然と思えたのだ。
あの死後の世界での長い長い季節の循環を、身をもって体験したためだろうか。
「……そっか。じゃあ、それまではずっとミッチェと一緒に居られるってことだ。それでその時が来たら、先生の眠りの森に入れてもらおう。うん、それがいいや」
すとんと納得したブレスを、ミシェリーは呆気にとられて見上げる。
そんな黒猫を見つめ返し、ブレスはふと眉を下げた。
「あ、もしかして嫌だったとか……? そうだよな、そんなに長い時間を俺なんかと過ごすなんて……いいんだミッチェ、嫌になったら言ってくれ。俺は君の意思を尊重す、痛い!?」
『それ以上くだらないこと言ったら蹴っ飛ばすわよ!』
「もう蹴ったじゃないか!」
猫の脚力は侮れない。思い切り蹴りを食らった頬を押さえながら、ブレスは涙目になった。
ふん、と鼻息荒くブレスの腕から飛び降りたミシェリーは、不機嫌に二本のしっぽを膨らませつつ暗闇に向かう。
「待ってよミッチェ、どうして怒ってるんだ?」
『うるさいわね! しばらく大人しく眠ってなさい!』
「……わかったよ」
守護妖精の言うことは絶対だ。ややしょげかえりつつも大人しく頷いたブレスをちらりと振り返り、ミシェリーは小さな声で呟く。
『その時は、わたしもカナリアの森に一緒に行ってあげるわよ』
驚きに目を見張るブレスに背を向けて、黒猫は居なくなった。