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96話 翼を失った日

 

 あの日、王都から戻ったカナンらを館で迎えたネモは上機嫌だった。


 なにもかもうまく話が纏まり、主人の思い通りに事が決まったとなれば、〈何者でもない者(ネモ)〉として冥利につきる、というものだ。


 国王の側近から、王との個人的な茶会を申し込まれて断るのが大変だった、というシグリーの困惑混じりの報告を聞いていると、ふとカナンが首を巡らせて「いない」と呟いた。


「ネモ殿。エミスフィリオを知りませんか」

「はい。彼であれば、刻印済みの装飾具を売りに出かけると言って、数刻前に出かけていきましたが」


 言われてみれば、帰りが遅い。

 ブレスが向かった店は都市モシュネの中にある。

 二角獣に乗って行けば、店に長居しても往復で二時間もかからないはずだ。


 カナンはそれを聞くと、やや眉をよせてブレスの寝室へ向かった。

 文机の上の散乱した紙の走り書きを見たカナンの顔は、みるみるうちに強ばっていった。


「翼の君」

「四人目の魔術師がいる。それが野放しになっている」


 ネモが瞠目するのと、館の下の階で騒ぎが起こるのは同時だった。

 カナンは素早く身を翻し、階段を一息に飛んで降りて人だかりの中心に降り立つ。


 レシャがイルダの黒ローブを剥ぎ取り、フェインが驚愕の表情で凍り付いていた。


「フェイン様、この男はイルダではありません!」


 その叫びを聞くなり、カナンが暴風とともに飛びだしていく。

 ネモは「その偽物を地下牢へ」と言いつけると、すでに空の彼方にいるカナンの姿を追った。


 カナンが降り立ったのは、人里離れた辺境だった。

 ネモが追いついた時、カナンはじっと足下のなにかを見つめていた。

 微動だにせず、旅外套だけが風をはらんで揺らめいていた。


 ネモは動けなかった。立ち上る怒気に気圧され、ただ立ち尽くした。

 不意に周囲の気温が下がり始める。

 カナンの黒髪がざわめき、やがて膨大な力に耐えかねた魔術師の髪紐が弾け飛んだ。


 露わになった引きずるほど長い白髪を吹雪にまかれ、カナンはつ、と顔を上げる。ネモはその横顔の額に、第三の目が開眼しているのを見た。


 外套を突き破り、一対の広い翼が生じる。

 表情の抜け落ちた顔でカナンは一度大きく羽ばたき、そして吹雪とともにすさまじい勢いでその場から飛び立ってしまった。


 忘れていた呼吸を取り戻し、ネモはよろめきながら歩み寄った。

 大地に誰かが倒れている。


 肩からちぎれた腕。血にまみれた身体。赤黒く塗れた赤毛が、頬にはりついている。

 うつろな目は、もはやなにも映してはいない。


「……青年。ああ、そんな……」


 膝を折り、ネモはそっと倒れ伏すブレスの口に手をかざし、首筋に指をあてる。

 胸の音を聞き、開かれたままの目をのぞき込む。

 息はない。脈もふれない。心臓も止まっている。瞳孔も散大していた。


 ネモの後を追ってきたマリーとエチカが息を呑んで立ち尽くし、フェインが蒼白な顔で動かないブレスのそばに膝を着いた。


「触らないでください。これがイルダの仕業ならば、貴方が潔白である証はない」


 血濡れの頬に手を伸ばすフェインの手を、ネモは払いのける。暗い絶望に染まった剣呑なネモの目を、フェインは怯むことなく睨んだ。


「私は諦めない。彼は優秀な刻印師だ。刻印の魔術師は、そう簡単に死にはしない」

「いくら刻印師でも、死体から蘇ることは出来ません。遅すぎたのです。彼は死んでしまった」

「そんなことは……!!」


「どけ。その子の前でくだらない喧嘩をする気なら、あたしがお前たちを黙らせるよ」


 ネモとフェインを押しのけて、マリーが低い声で命令した。

 怒りに満ちた秋の娘の覇気に、ふたりは圧倒されて押し黙る。


 間近でブレスを見たマリーの顔が悲痛に歪む。それでもマリーはそれを押し殺し、壊れ物を扱うようにそっとブレスの身体を調べ始めた。


 ひどいものだ。斬りつけられた傷が多数、肩の骨は粉々で、腕がちぎれ、腹の中は内蔵が破裂してぐちゃぐちゃ。

 惨殺だった。どれほど苦しんだだろう。


「でも、脳と心臓はきれいに保存されてる。フィー、あたしの言ったこと、ちゃんと覚えていてくれたんだね……」


 痛ましげに苦笑しながら、マリーは顔を上げてフェインを見る。


「この子を助ける方法がひとつだけある。でもそのためにはカナンの力が必要だ。いい、フェイン。カナンはきっと怒りで我を忘れている。お前はそのカナンを説得して、ここにつれて戻らなくちゃいけない」


 フェインは躊躇なく頷いた。マリーは苦笑を深め、次いでネモに命じた。


「この子の体内はあちこちが不自然に出血している。たぶん毒が細胞を破壊しているんだ。お前はその解毒の用意をしておいて。ネモなんだから、毒物の類には詳しいだろう?」


 爵位ある主人を毒殺から守ることも〈何者でもない者〉の重要な役目である。ネモは首肯し、懐を探って解毒薬を並べ始めた。


 最後にマリーはエチカを振り向いた。目を真っ赤にして泣き声を押し殺しているエチカに、マリーは弱々しく微笑む。


「エチカは、ミシェリーを探して。フィーの魂を根の国から連れ戻すために、どうしても必要なんだ。身体だけ生き返ってもしかたないからさ。頼める?」

「……わかったわ」

「よし、いい子だ。じゃあフェイン、行くよ」


 フェインは立ち上がりながら、最後にもう一度だけブレスを見た。

 己の目にその姿を焼き付けるかのように見つめた後、フェインは顔をあげてマリーと共に去っていく。


 それからしばらく後、エチカは木の後ろで倒れているミシェリーをみつけた。

 ネモはブレスの身体を調べながら毒の種類に見当をつけて用意する。


 死んだ肉体に抗毒血清を投与したところで、血が巡っていないのだから無駄である。

 しかしマリーは「用意をしておいて」と言っただけで、投与せよとは言わなかった。


 その言葉を従順に守りながら、せめて肉体の腐敗が進まないようにブレスの身体を冷やしつつ、ネモは彼女の帰りを待つ。


 満月が高く上り、西へ沈み始めたころ、マリーはカナンとフェインを伴って戻ってきた。

 フェインは疲弊していた。怒れるカナリアと相対して生還するとは、なかなか気骨のある青年だ、とネモは思った。


 カナンは長い髪と翼を引きずりながらネモの前に、ブレスの上に、立つ。

 月のもとでカナンのエメラルドの双眸が冷たく燃えていた。


「いまさらだけど、本当にいいのか」


 様々な葛藤を抑圧したマリーの静かな声が、問う。

 カナンは無表情にブレスを見下ろしたまま、ああ、と答えた。


「この人の子には望む未来があった。それを僕が作り出した〈死〉のために、失うことなどあってはならない」


 淡々とそう述べたカナンは、刃物を取り出して手首を切った。

 使役に餌として与えるような量とは比べものにならないほどの血液が、ブレスの身体に降り注ぐ。


 ネモは息を呑んだ。カナンの血を浴びたとたん、ちぎれた肩と腕の肉が骨でつながり、筋肉が盛り上がって皮膚がなめらかに再生した。

 カナンの血はブレスを汚さなかった。雨が大地にしみこむように、ブレスの肉体に吸収されて消えてゆく。


 やがて完全に肉体の傷が癒えると、カナンはナイフの背で己の手首をなぞって傷を閉じた。

 ブレスの胸がかすかに上下を始めた。呼吸を取り戻したのだ。


「ネモ。解毒を」


 マリーの声に我に返り、ネモは言われるがまま血清を投与する。

 毒が回りきって組織が壊れ、壊死してからでは遅いけれど、細胞が再生した今ならば体内の毒を中和する意味はある。


 この青年は助かるかもしれない。


 信じがたい思いでカナンを見つめる。

 なんという力だ。サタナキアの子らは、生物の生死の(ことわり)をも覆すことが出来るというのか。


 畏敬に震えるネモの頭上で、カナンはふと顔を歪めた。

 苦痛の表情に驚くまもないうちに、純白の翼から羽が抜け落ち始めた。


 カナンは膝をついた。うつむき、肩に爪を立てて崩れおちる翼の痛みに耐え、うめき声を押し殺す。

 マリーは血が滲むほど唇を噛んでその姿を見つめていた。彼女は、こうなることを知っていたのだろうか。


 やがてカナンの翼は根本から折れた。

 あまりの衝撃に動けずにいるネモの目の前で、カナンは身体を庇いながらゆっくりと立ち上がる。


 青ざめた横顔。カナンの双眸はエメラルドの輝きを失っていた。

 それを見、ネモはなにが起こったかを理解した。

 堕天だ。


 立ち上がったカナンは、「テンテラ」と呟いて使役を呼び出した。

 カナンの影から漆黒の竜が現れ、傷ついた主人を気遣うように低くごろごろと唸る。


 もたれ掛かるようにして竜の背に乗ったカナンを見上げ、マリーが「どこにいくつもり」と悲しげに訊いた。

 カナンは短く、「帝国へ」と答えた。


「僕はあの国を赦しはしない」


 そういい残し、カナンは竜とともにエトルリアを去った。

 それが、二十日前のことである。


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