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95話 根の国の縁で

 

 視界の片隅で、ぶらんこが揺れている。


 無邪気な笑い声と、いじめっ子にからかわれて怒る、女の子の甲高い声。おもちゃを取られて泣く、幼い子。


 シスターが裸で走り回る幼児を追いかけている。

 彼女は木陰に座り込んで絵本を読んでいる赤毛の子供を見て、手を腰にあてて「みんなと遊んでらっしゃい」と言う。


 赤毛の子供は冷めた目でそれを聞き流し、再び絵本のページをめくる。

 懐かしく、ほろ苦い思い出だ。


 ブレスは子供時代の己をぼんやりと眺めていた。

 なにも考えず、ただじっと、無感情に。


 昼が過ぎ、夜が過ぎ、朝が過ぎる。

 どれだけの時間が過ぎたのか、もはやわからない。


 石のように動かないまま、ブレスは移り変わる季節のなかに立っていた。


 成長に伴い孤立がきわだっていく過去の己は、紙のように乾いた目で同居している子供たちを横目で眺めながら、淡々と本のページをめくっている。


「ここにいてはいけない」


 誰かが隣で、そう呟いた。

 聞き覚えがあるような気がした。

 しかし、思い出せない。


「戻らなければ。永遠に戻れなくなってしまうよ」


 だからなんだというのだろうか。

 足下で何かが動く。


 緩慢に目をまたたき、ブレスは希薄な自我のまま視線を落とした。

 白い蛇が、大人しく蜷局をまいて菫色の目でブレスを見上げている。


 既視感。

 どこかで見たことがあるような気がした。


「それとも貴方は、ずっとここにいたいのですか」


 再び誰かが耳元で呟く。


 ずっと、ここに? 

 この孤児院に。

 閉鎖的で、なにもない世界に。

 それはいやだな、と思った。


「やらなければいけないことが、あるのでしょう?」


 そうだっただろうか。やらなければいけないこと?

 思い出せない。

 なにも覚えていない。考えられない。


「さあ、立って。ついておいでなさい。貴方が戻らなければ、あの方が悲しむ」


 悲しむ。誰のことだろうか。

 ついて行けば、思い出すことが出来るのだろうか。


 言われるがままに立ち上がり、声の方向へ振り返る。

 真珠色の毛並みの狼が、赤く、聡明な目でブレスを見つめ返している。


 くるりと背を向けた狼のあとを追って、ブレスは歩き始めた。


 白い砂の上に残された狼の足跡を辿る。

 果てのない道に思えた。

 どこに向かっているのだろうか、と朧気に考えながら、ただ歩き続ける。


 世界から色が褪せ、やがて霧に包まれたように無が訪れた。

 存在するものといえば、足下の白い砂と、狼と、己だけ。


 疲れを覚えて立ち止まる。

 頭上を見上げて、ふと首を傾けた。


 天はあんなに、殺風景だっただろうか。

 そう考えた瞬間、天が世界を取り戻した。


 瞬く間に青色が広がり、雲が風に流れる。

 命の陽が輝き、淡い月がやさしく見下ろしている。


 そうだ、これは空だ。


 目を見張るブレスの足下で、草花が芽吹く。

 広がりゆく草原。

 木々が枝を伸ばし、蛹より生まれ出た蝶が、翅を乾かして季節を喜ぶ。


 その中心に茫然と立ちつくすブレスを掠め、人影が現れては消えてゆく。


 跳ねっ毛頭の明るい目の青年がブレスの肩を叩いて笑う。

 ウォルフだ。


 若菜色の長い髪のシルヴェストリが、金髪に青灰色の目のエチカが、熊のように大柄なハオ・チェンが、紅葉色の優しい目のデイナベルが、ブレスを追い越して過ぎ去って行く。


 豪奢な赤い髪の魔女と、黒髪の魔女が微笑する。


(マリー様、母様……)


 これは記憶だ。覚えている。思い出した。

 どうして、忘れてしまっていたのだろうか。


 思わず手を伸ばしたブレスの指先を掠め、彼女たちは先に行く。


(待ってくれ。おいて行かないで。どうして)


 どうしてこんなに追いかけたいのに、脚が動かないのだろう。


 声にならない声で友を呼びながら、ブレスはもがく。

 自重で押しつぶされそうになりながら、腕を伸ばし、顎を上げて。


 はるか遠くに、黒髪を肩でそろえたカナンの後ろ姿が見える。

 並び立つ赤毛の男が、ブレスを振り返った。


(兄さん)


 兄。ウォルグランドの新たな王。

 ブレスのやらなければいけないこと。

 すべてを思い出した。

 そうだ。ブレスは戻らなければいけない。


(でも、どうやって?)


 脚が動かない。身体が潰れそうに重い。

 みんな先に行ってしまった。

 ブレスは追いつけそうにない。


 どれほどそうして、あらがっていたことだろうか。

 再び立ち上がろうとするブレスの頭上で、幾度も太陽と月が入れ替わる。


 流れて行く星々や雲の下でいつしか横たわりながら、削がれていく気力を振り絞って大地を掻く。


(先生……兄さん。ミシェリーは……)


 誰よりも、何よりも大切なあの子は、無事だろうか。


 悠久の時が流れる。

 降り積もる木の葉に埋もれ、雨が雪に変わり、冷たい風を押しのけて春が訪れる。


 数え切れないほど季節の循環を繰り返し、己が人であることを忘れ始めた頃、何かがブレスの前にやってきた。

 閉ざしていた瞼を持ち上げる。黒猫。


『やっとみつけた』


 光に満ちた金色の目が、ブレスを見つめている。

 慕わしげな優しい目。

 ああ、よかった、無事だったのか。


 わずかに微笑んだブレスの頭に、ミシェリーは額を押しつけた。

 何年か、何十年か、何百年ぶりかのぬくもりを感じた。


 ──ミシェリー、大好きだよ。


 額越しに思念を伝えると、動けないブレスに寄り添うようにしてミシェリーは丸くなった。

 安堵とともに眠りに落ちる。



 それから三日後にブレスは目を覚ました。

 海の上、船内の寝台で、黒髪の天使に見つめられながら。



 ⌘



「フィーが戻ってこれたってほんと?」


 船室のドアを開けるなり開口一番そう言ったマリーの言葉に、ネモはゆっくりと首肯した。

 お静かに、と人差し指を立てたネモの答えに、マリーは口を噤む。


 見るのも怖いといった様子で恐る恐る寝台に近づき、横たわるブレスをのぞきこむマリー。

 そんなマリーを見上げて、ブレスは目元を和ませた。


「フィー……よかった……っ」

「……そうですね。まだ目は離せませんが、意識が戻って何よりです」


 金色の目をたちまち潤ませるマリーの横で、ブレスを診察していたネモが頷く。

 予断を許さないが、魂が肉体を離れた状態からこれだけ時間が経過しているにも関わらず戻ってこられたのは、奇跡に等しい。


『なにがあったのか、知りたがっているわ』


 ブレスの枕元で丸くなっていた黒猫のミシェリーが呟く。

 それを聞いたマリーは「しゃべれないの?」と不安げにブレスを見つめる。

 ネモは吐息を細く逃がしながら、首を振った。


「消耗が激しいのです。ひとまず体力を回復させなければ。いいですか、青年。今の君はとても弱っています。ふつうの生活に戻るためにはリハビリが必要です。自力で起きあがれるようになるまで、その他のことは考えないように」


 話を聞き、疲れたように瞼をおろしたブレスに、マリーは堪えきれずに涙を落とした。

 意識が戻ってほっとしているけれど、いまにも死んでしまいそうに弱々しい。


「ねえネモ、フィーは大丈夫だよね? あしたもちゃんと、息してるよね?」

「……そうあることを、私も祈っております」


 ネモは目を伏せ、寝台に横たわるブレスを見つめる。

 この青年の生死が運命の分かれ目となる以上、死なせるわけにはいかない。


 いまでも目を閉じれば、まざまざと思い出すことが出来る。

 冬のカナリアが翼を失った、あの悪夢のような日を。


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