94話 四人目の魔術師
そこは人家も途絶えた、スティクス領の辺境だった。
薄闇のなかに、大木を背にした人影がひとつ。大柄なその男は、黒ローブをかぶり、ミシェリーを羽交い締めにしている。
彼女の首には金属の首輪がはめられていた。恐らく鉄製だ。妖精は鉄に縛られると力を失う。
「四人目の魔術師が、まさかあなただったとはね」
ブレスは慎重に距離をはかりながら、その男と対峙する。
男は笑い、被っていた黒ローブを脱ぎ捨てた。
アスラシオンが、そこにいた。
「なんだ。ばれていたのか。つまらぬ。お前の驚愕と絶望の顔を見るその時を、私は楽しみにしておったのだぞ」
「いいえ、とんでもない。驚いていますよ。帝国側に、四人目がいる可能性は大きいと思ってはいた。ですが、あなただとは露ほども思わなかった」
この体格の良いいかにも軍人らしい男が、魔術師であるなど誰が思おうか。
食制限の厳しい魔術師の生活を続けていれば、どう考えてもこんな体格には育たない。
「まぁ、なんだ。正確には私は魔術師ではないからなぁ。一時的にその力の一部を、譲り受けているに過ぎぬ」
「……へえ。それは興味深いですね。では、あなたの代わりに捕らえられたあの男は、誰だったんです?」
「ああ、あれは影武者だよ。魔術師は忘れがちだが、人間は魔術を使わずともいくらでも顔を変えられるのだ。そうだろう? なあ、イルダよ」
すとん、と軽やかに大木の枝からもうひとりの魔術師が降り立った。
イルダ。水蝕の魔術師レシャの、双子の兄弟。
やはりと思う一方で、なぜ、とも思う。
ウォルグランドの魔術師でありながら、なぜ故郷を滅ぼした帝国の軍人に手を貸すようなまねをしたのだろうか、と。
フードを脱ぎ、金髪をさらけ出したイルダは、ぞっとするほど憎しみに満ちた目でブレスを見ている。
「我が名はイルダ。水鏡の魔術師、イルダ・ウォルグリア」
ウォルグリア。その名前を、ブレスは知っている。
表情を変えたブレスを見、イルダはクッと唇を釣り上げて獰猛に笑った。
「聞き覚えがあるだろうな。水蝕の魔術師が壊し、潮騒の魔術師が殺したレイダ・ウォルグリアは、私の父親だ」
(──ああ、そうか……)
彼は憎んでいたのだ。
父を殺した、フェインとレシャを。
「ウォルグリア家は、代々王家に仕える宮廷魔術師の家系だった。帝国の侵略を受けたとき、殆どの貴族は殺されたが、ウォルグリア家には生かされた者も多かった。あのとき帝国は、優秀な魔術師を欲していたからな」
従えば生かすと帝国は約束した。
ウォルグリア家の使命は王家の人間を守ることだったから、レイダを筆頭とする一族はその場で帝国の要求を呑んだ。
すべては、残された王子と王女を守るための、苦渋の決断だった。
「そのまま従っていればよかったのだ。私は父上の叛意に気づいてから幾度もそう言った。滅びたものは戻らない。新たな国で生き直すことが最善の手なのは明白だ。それなのに、父は私の言葉を聞かなかった」
レイダはある任務に向かい、そのまま戻らなかった。
問題は死亡の確認がとれなかったことだ。
皇帝はレイダを裏切り者として指名手配し、レイダの痕跡を調べ回った。
イルダやレシャに与えられた部屋も踏み荒らされ、厳しい尋問と拷問を受けた。
父親の仕打ちに、レシャは傷つき、イルダは怒った。
レイダは息子ふたりを置き去りにしたのだから。
肉親の情よりも使命を優先した父親を、イルダは理解出来なかった。
イルダは、次第に軟禁されている王子と王女を疎ましく思うようになった。
王族が生きているから、自分たちは新たな人生を始めることが出来ない。
王族が生きている限り、帝国はイルダを認めてはくれない。
イルダはそう思ったが、レシャは違った。レシャは父親に置き去りにされてなお、ウォルグリア家の者であろうとした。
人目を忍んでフェインと接触をはかり、フェインを気遣うレシャ。
イルダはそんな兄弟すら、疎ましかった。
それでもレシャは、肉親だった。イルダはレシャを見捨てはしなかった。
しかし、その肉親の情もこの数ヶ月で絶えた。
父親であるレイダが捕らえられたことによって。
「あの日のことを忘れはしない。私たちは任務から戻り、皇帝に結果を奏上していた。その時、父が引きずられて現れた。拷問を受けてずたずただった。死にかけてなお、それでもなお父は口を割らなかった。すべてはそう、王族を生かすために」
皇帝はレイダを見て青ざめる彼らに向かって命じた。
水鏡の魔術師よ、その男の力を写し取れ。
水蝕の魔術師よ、その男の記憶を奪い取れ。
潮騒の魔術師よ、その男を連れ帰り、己の罪を思い知れ。
「……皇帝は、残酷なことをさせる」
苦い思いを噛みしめながら、ブレスは顔を歪める。
そうだとも、と両腕を掲げ、イルダは声を振り絞った。
「それでも私は生きていて欲しかったんだ! 愚かなあやまちを犯したとしても、記憶を奪われて人格を失っても、生きていて欲しかった! ところがどうだ、翌日には父は死んでいた! レシャは父の誇りを守るためだったと言い、あいつは、フェインは主君として責任を果たしたと言った! なにが責任だ! なにが誇りだ!? それは父の命よりも重いものなのか!!」
身を切るような叫びだった。悲痛で、傷跡も生々しく、毒を吹き込まれて腐ってしまったような痛みを感じた。
ブレスにはわからない。
王族の責任も、臣の誇りも、王族として育たなかったブレスには実感が出来なかった。
ただイルダの痛みだけが現実味を帯びて、針のように突き刺さってくる。
それでも、これだけは言える。
「憎む相手を間違えている。君の父親を追い込んだのはフェインじゃない。皇帝じゃないか……」
アスラシオンがにやりと口角を上げ、イルダの肩をつかんだ。
「そうだ。だからこそ、この男は私の友となったのだ。もう二度と理不尽な災難に見舞われぬために、従うことを選んだ。賢いとは思わぬか」
わからない。ブレスは力なく首をふる。
イルダはうめき声を上げ、金髪に爪を立てた。
頭をかきむしり、手傷を負った獣のように自失して、かと思うと勢いよく顔を上げてすさまじい顔でブレスを睨んだ。
「お前はひとつ間違えている。四人目の魔術師はこの男ではない」
出血して赤く染まった白目のなかで、色あせた青い目がぎらぎらと蠢いている。
「〈変貌〉の魔術は父の能力だ。あのとき私が写し取った、レシャもフェインも知らないレイダの力だ。あいつらは父の力に──父に、殺されるはずだったんだ。それを、お前が……お前が、ぶち壊したんだよおぉ!!」
次の瞬間、水鏡の魔術師が肉迫した。
炎の槍や水の弾丸を次々に放ちながら、イルダはその合間を縫ってブレスに殴りかかる。
ただの拳ではない。棘つきの、金属製のナックルダスターをはめた拳だ。
あんなもので殴られたら虎の爪で襲われるようなものだ。
風の力で速度を上げ、やっとのことで攻撃を避けるが、魔力を流すたびに身体が軋む音がする。
(くそっ、せめてこの魔力痛が治まっていれば!)
後退しながらなんとか刻印を発動しようと試みるが、風を纏ったままさらに魔力を使おうとしたとたんに腕に激痛が走った。筋が切れたような痛みだ。
「ッ、ぐぅ……!」
「はっはぁ! 今日はずいぶんと鈍いではないか、刻印の魔術師よ!」
痺れて動かない腕を庇いつつ横に転がると、真上からアスラシオンの長剣が振り下ろされた。
さらに身体をひねって避けるも剣先が上腕をえぐる。
傷を確かめる間もなくイルダの炎が飛んでくる。
風の盾で弾くが、すぐ横では再びアスラシオンが剣を振りかぶる。
きりがない。距離を測ろうにも飛べば攻撃魔術を使うことが出来ず、刻印を使うために風を手放せば敵の攻撃を避けることが出来ない。
あまりにも不利だ。いっそ屋敷まで飛んで逃げるべきか、とも思うがミシェリーが動けないままだ。
彼女を置いていくことなど出来ない。
炎が眼前に迫る。ローブを盾に熱から身を守る。
アスラシオンの剣が脚を切り裂く。出血のせいで頭がふらふらする。
とうとう脚がもつれ、ブレスは倒れ込んだ。残虐に笑いながら、アスラシオンがブレスの肩を長剣で大地に縫いつけた。骨が砕ける音がした。
「こうも容易い……所詮はただの子供だ。そうだろう、ウォルグランドの落とし子」
「……さ、あ……なん、の、ことだか……」
「とぼけるな!」
腹を何度も踏みつけられ、中身が潰れる感触がした。苦痛の叫びはもはや声にならなず、かわりに血ばかりが口から溢れ出た。
──死ぬ。
朦朧とする意識のなか、ぼんやりと考えている。
〈蘇生〉の刻印を刻むのは、どこがいちばん効果的だったか。
視界がかすみはじめる。
イルダが、アスラシオンが、ブレスを見下ろしている。
「放っておいても死ぬが、刻印師はしぶとい」
「そうであろうなぁ。であれば、首でもはねるか。それとも、心臓をつぶすか」
「いや? 良いものがある」
そうだ、脳と心臓だった。
体内に魔力をかき集め、最後の悪足掻きをする。
「なんだそれは。毒か? 回りくどいことを」
「閣下は蛇毒の恐ろしさをご存じでない。これは内側から肉体を壊す」
視界が暗い。音が遠のいていく。
(ああ……兄弟だと打ち明けなくて、よかった)
知ってしまっていたら、きっとフェインは苦しんだだろうから。
意識が黒く塗り替えられていくのを感じながら、ブレスは仄かに苦笑いを浮かべた。
それが、最後の記憶だった。
8 金貨の計略 終
四人目の魔術師の正体は、亡きレイダでした。
次章に続く。




