92話 アナクサゴラスの勝算
レーテ領より帰還し、天蓋つきベッドで迎える幾度目かの朝。
この屋敷にはじめて来たときは、まさかこんなにエトルリアに長居をすることになろうとは、思ってもいなかった。
ブレスは寝返りを打ち、全身に走った痛みに顔をしかめる。カナンの言うことには、立て続けに魔力を使った後遺症だそうだ。
魔力痛。魔力切れとはまた違う、筋肉痛のようなものらしい。
これまで少量の魔力しか使ってこなかったブレスが、突然一日で大量に魔力を流し続けたことによって、肉体が炎症を起こしているのだとか。
こればかりは仕方がない、とネモも言っていた。
実践経験を積んで肉体が魔力の負担に慣れるのを待つほかない、と聞かされてブレスは少々落ち込んでいる。
これから帝国とやり合おうというときに、戦いのたびに寝込むと聞かされたようなものだ。
カナンたちがシグリーと共に王都へ向かったのが一昨日のこと。フェインの件で王都より招集を受けたのだ。
この魔力痛のせいで、ブレスは置いてけぼりを食らっている。
ぎしぎしと軋む腕をベッドに付き、なんとか起きあがってブレスはため息を付いた。
隣で伸び伸びと寝そべっている猫のミシェリーをひとしきり撫で、そのまま寝台を抜け出す。
向かったのは文机。ぎこちなく椅子に座り、ペンを取る。
机に広げられた紙の束には、シルヴェストリへの報告書と、纏まらないブレスの頭のなかの思考が、そのまま書き散らかされている。
「顔を変えらる者は、誰か……」
紙に走り書きをし、ペンを止める。顎に羽先を当て、ブレスは思考を巡らせる。
都市リーディアを逃げ出すアスラシオンに、なぜレシャとイルダが従っていたのか。
彼らが王都へ連行されるまえに聞いた話によると、なんとレシャは「フェイン様の指示だった」と語った。
彼らはアスラシオンの指示ではなく、フェインの指示に従っていたのだ。
主君が直に命じたのならば、それはどこの誰とも解らぬ魔術師が「味方だ」と訴えても簡単には耳をかしてはくれないだろう。
しかし、当然ながらフェインはそんな指示を下してはいなかった。
フェインはフェインで、レシャやイルダとともにあの部屋に監禁されていた屋敷の住人たちの記憶からアスラシオンの顔を消去していたつもりだった。
実際はそのどちらも偽物だった、ということだ。
誰かが裏で彼らを操っていた。
それも顔を変えて成りすますという、魔術師でなければできない方法で。
「ほかに魔術師がいた、ということか?」
ブレスの〈透視〉の刻印で見破れる程度の力しか持たないならば、ウォルグランドの魔術師たちではないはずだ。
少なくともフェインやレシャではない。
フェインには動機がないし、レシャは数回顔を合わせただけでもわかるほどのお人好しだ。自作自演ができるほど器用な男ではない。
イルダはどうか。
彼の印象は、正直言って良くはない。あの男は人を攻撃することを躊躇わない。ブレスを敵と決めて襲いかかってきた。
だが、イルダが顔を変えたのだとすれば、ブレスはそれを見破れるはずがない。
「……それにイルダがそんな能力を持っているのならば、レシャが知らないはずもないし……変装の話が出たときに誰もイルダを疑わなかった。やっぱり四人目がいるとしか思えない、よなぁ……」
どこにいたのだろう。レーテ候に仕えていた魔術師が、協力していたのだろうか。
でも、だとしたらなぜ? 脅されたのか?
「いや、違う」
顔を変える魔術師は、帝国側にいたはずだ。
そうでなければ、あの土壇場で、あれほど巧みにフェインたちを騙せるはずがない。
能力を使い慣れているのだ。まるで盤上の駒を動かすように、顔を使ってウォルグランドの魔術師たちを意のままに動かしている。
誰だ。眉間を寄せ、紙とにらみ合う。
にらみ合ったところで、そもそも顔を合わせていない相手だとしたら、なんの意味もないが──。
不意にドアがノックされ、ブレスは顔を上げた。
思考の断片を書き散らした紙を適当に片付けて返事をすると、ドアを開けて現れたのはネモだった。
「朝から失礼……おや、もう起きあがれるようになったのですか」
「おはようございます、ネモ様。その、妖精の加護だそうです。私についてくれている猫妖精が、癒してくれているようで」
水差しから注いだ水を飲みつつ、ブレスは仄かに眉を下げる。
ミシェリーはそのせいで、ここ数日ずっと眠っている。
話を聞いたネモは、ぽんと手を打って頷いた。
「あー……なるほど。でしたらずっと触れていると良いですよ。膝に抱いておくとか、人型になってもらって睦み合うとか」
ネモがとんでもないことを言い放った。
盛大に咽せ、水が気管に入ってげほげほと咳込み苦しむブレスを見、ネモは面食らってわたわたと歩み寄りブレスの喉に手を当てた。
気管に入り込んだ水を動かして吐かせてもらい、ようやくブレスは息をつく。
全身筋肉痛状態で咳をするのは本当にきつい。
「はあ、はあ……ネ、ネモ様、私たちはそういった関係ではありませんので……だいたいまだ禁欲の縛りがあるのに、そんなこと出来ませんよ」
「それは失敬。ですが、もったいないですねぇ。せっかく宿主なのに」
「もうその話はいいですから、ここに来たご用件をお話下さい。王都でなにか進展があったのでしょう? フェインさんたちの処遇はどうなりました」
「あー……それについてなのですが。あなた、フェイン殿が十二年前に帝国に滅ぼされた国の王家の生き残りだということを、知っていたのですね?」
ここで嘘をついても仕方あるまい。
おとなしく頷いたブレスを見、ネモはふう、と嘆息した。
「王都でそれを聞かされた宮廷魔道官が、これは大事だと大騒ぎしたそうですよ。とにかく、彼が──いや君たちがなにを企んでいるのかは大体想像がつきました。
鳩便には書かれてしませんでしたが、恐らく王都では今、その件についてエトルリア各地の諸侯が召集され朝から晩まで会議が行われていることでしょう。そう、要するに……どちらに着くか」
「それって……エトルリアが私たちに協力してくれる可能性もあるということですか?」
ウォルグランドの魔術師と、カナンの力技で帝国とやり合おうとしていたブレスは呆然とする。
ネモは端によせてあった椅子を文机の前に引きずって、「どっこらしょ」と言いつつ腰を下ろす。
その動作に、見た目は三十路だが中身は百歳だということをなんとなしに思い出した。
ネモは気怠気に椅子に凭れる。
「それはそうでしょう。むしろフェイン殿はそれを狙って王都へ出頭したのでは? まぁ、私も本人に聞いた訳ではありませんが」
「……言われてみれば、そうですね」
あの時フェインが言っていた「王に話を聞いて頂く」という言葉には、そういう意図があったのだ。
さすがフェインである。
敵国に捕らわれながら、長年生き延びてきた彼の世渡りの能力はだてではない。
「しかしながら、未だ結論が通達されてこないということは、会議は紛糾しているのでしょう。
平和条約を結んでいるにも関わらず帝国に侵略を受けていたことを知り、危機感を覚えた者はこの機に乗じようと言う。
しかし、相手が西の大国であることを鑑みれば、負けた時に巻き添えで報復をくうことになる。それを危惧する者は、今回の出来事を無かったことにしようと言う」
「無かったことに? そんな、隠蔽するなんて無理でしょう。リーディアがあんなことになったのに」
「それはほら、いくらでも情報操作できますから。あの集団は現王政に不満を持つどこそこの何某が起こしたクーデターだった、とかですね。で、ここからが本題なのですけれども」
癖の強い黒髪を骨ばった手で邪魔そうにかきあげて、ネモは身を乗り出す。
ローブの内側から取り出した地図を机に広げ、ネモは転々といくつかの駒を並べた。
「私の主人は、この状況を非常に不快に思っておいでです。ここ数日の主人の動向を見るに、恐らくアナクサゴラス様は中央の国々に帝国の侵略を受けたことを漏洩していらっしゃる。しかも中央三大王国、シーラとカルパントさえも巻き込んで。考えてごらんなさい。この意図が解りますか?」
シーラ王国とカルパント王国は、エトルリア王国と並ぶ中央の三大国である。エトルリアの権威の序列は、第二位だったはずだ。
「……つまり、諸国の危機感を煽りつつ、エトルリアより権力の強い国から圧力をかけさせようとしているということですか? 帝国に向けて出兵せよ、と」
「そう。そしてあわよくばシーラやカルパントも戦に巻き込んでしまえば、例え相手が帝国だったとしても、十分に勝算はある、ということです」
地図上の駒をコン、と帝国に向けて動かしながらネモは目を眇める。
「ふふ、昨晩アナクサゴラス様がこう駒を動かしているのを見て、私、鳥肌が立ちましたよ。私の主人は本当に恐ろしいお方だ」
そう言ってはいるが、ネモの顔は愉悦に浸っているかのようにニヤニヤと笑んでいる。
まったく、主人が主人ならば、ネモもネモだ。
顔をひきつらせながら、ブレスは机上の地図を見下ろした。
エトルリア、シーラ、カルパント。
そしてウォルグランドの魔術師たち。
その上こちらには、冬の翼と秋の娘までついている。
「……勝てる……」
これで負けたら、とんだお笑い種だ。
「しかし、心配ですね……スティクス候が他国に情報漏洩していたことがばれたら、王はお怒りになるでしょう?」
下手をすればアナクサゴラスの首が飛ぶのではないだろうか。
主人が処分されたらネモはどうなるのだろう。
そんなことを考えつつちらりとネモを見上げるが、ネモは平然とした顔で「そのためのシグリーだったのでしょう」と言った。
「先ほど申し上げた通り、王都では各地の諸侯たちによる会議が行われています。スティクスの領主であるアナクサゴラス様も当然召集をかけられました。
しかし、アナクサゴラス様はあえてシグリーを代行させました。シグリーは、国王陛下の想い人であった私の主人の亡き奥様の、若かりし頃のお姿に生き写しですからね」
「シグリーさんはスティクス候のご息女だったんですか!? ええと、じゃあスティクス候が国王に疎まれている理由ってのは……」
「略奪愛です。シグリーは知りませんけれどもね。ちなみにシグリーを王に取られては困るので、今は私の養女です。領主の娘として育てば、公の場に出席しないわけにはいきませんから。……ふふ、今頃国王陛下は隠しだまのシグリーを見てさぞかし驚き、お心を掻き乱されておられるでしょうなぁ」
心底愉しそうに言ってのけたネモの言葉に、ブレスは頭を抱えた。
世の中はいったいどうなっているのだ。
「……スティクス候は本当に、恐ろしい人ですね。その娘さえも使って、王の弱みを突こうとは……」
「でしょう?」と同意したネモは、やはりとても愉快そうな顔をしている。
この男を敵に回すようなことにならなくて本当に良かった、とブレスは改めて実感した。
エトルリアは魑魅魍魎の巣窟に違いない。
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シグリーは「父親に見捨てられた自分をネモが引き取って育ててくれた」と思い込んでいます。
故に彼女はネモを大切に思っているのです。
実際アナクサゴラスは、道具として使うほか娘に興味がなかったので、百パーセント嘘、というわけでもありません。