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90話 レーテの戦い 中編

 

 引き寄せられ、後頭部に胸があたった。

 冷たい手のひらと低い声。屋敷で使っているラベンダーの石鹸が、ふわりと香る。


 慣れた気配を感じ、日常を思い出した。

 忘れていた肉体の感覚と判断力が血流とともに戻ってくる。


 脚が震えた。

 今、自分は何をしようとしていた?


「落ち着きましたか」

「は……はい。すみません、先生……私は、いや俺は……」

「もうよい」


 急速に冷えていく熱を感じていると、カナンの手のひらが離れた。

 眼球の〈透視〉の刻印が消えている。


 力が抜けた。立て続けに魔力を使った反動だった。

 カナンが後ろにいなければ座り込んでいたかもしれない。


 深く呼吸をして気を鎮め、ブレスはなんとか自立した。情けなくてカナンの顔が見られなかった。


「冬の君」


 フェインがカナンを見てひざまずいた。黒ローブの〈無貌〉は顔を認識できなくなるだけだから、声や気配で察したのだろう。


「やあ、フェイン。僕の弟子が失礼しました」

「いいえ。彼は私を助けてくれたのです」

「ああ、エミスフィリオはそのために来たのだからね。立ちなさい。人目がある」


 後半の言葉を囁くように告げ、カナンはブレスの肩を叩いた。

 そうだ、フェインを助けにきたのだ。いまこんなところでへたれている場合ではない。


 ブレスは床に転がっている偽物の黒ローブを剥いだ。金髪に青い目の、見覚えのある顔が現れる。


 フェインが「レシャではないのか」と問った理由が解った。

 この男はなにかしらの術で外見を変えられている。


「〈透視〉の刻印は変装も見破るのか……」

「君の力はこの術をかけた魔術師の力を上回っているのでしょう。必ずしも見破れるものではない」

「なるほど。作用は相対的なものなのですね」


 ブレスに脅され、カナンの異様に輝くエメラルドに凝視された男は、いまにも叫びだしそうな顔で硬直している。


 フェインもさすがに味方ではないと実感したのだろう、水蝕の魔術師と同じ顔をした男を前に眉を潜めた。


「本物のレシャはどこにいる」

「ア、アスラシオン様と共に……」


 答えを聞いたフェインの眉間がますます寄った。動くな、と呟いた彼は、そのまま男の額に〈忘却〉と〈失神〉の印を描く。

 目覚めた時には、この男はなにも覚えてはいまい。


「レシャを探しに行かなければ」


 立ち上がったフェインはそう言って、ブレスを振り向いた。

 ブレスはローブの下で、くしゃりと表情をくずして微笑む。


「私でよければ、お供しますとも」


 フェインが信頼を向けてくれることが嬉しかった。くすぶっていた怒りの残り火が完全に消え失せる。

 カナンがふっと息を吐いて続けた。


「都市内での小競り合いはおおかた収束しました。残るはレーテ候一族の解放と指揮官の身柄の拘束ですが」


 カナンはちらりと縛り上げられている人々を振り返った。ここにいる人々は使用人や衛兵ばかりだ。


「レーテ候一族の居場所に見当はつきますか、フェイン」

「数十分前までこの部屋にいたので、屋敷にいることは間違いないと思いますが……」


 物憂げな表情でフェインが考えを巡らせる。


「もしかしたら、地下や隠し部屋に閉じこめられているのかもしれません。こういう王侯貴族の館には、たいてい秘密の部屋が在りますから」


「フェインさん。魔術師の数は三人であっていますか? 姿を変える魔術を施されているとなると、裸眼で味方を見分けるのは難しいでしょう。三人目の顔立ちや特徴を、教えてくれませんか?」


 先程のことを考慮すると、黒ローブを着ているからといって魔術師であると決めてかかるのは危険だ。

 偽物を保護して背後から襲われては目も当てられない。


「たしかに同郷の魔術師は私とレシャを含めて三人だ。もうひとりの名はイルダ。レシャの双子の兄弟だ。外見はレシャとよく似ているから、見ればわかるだろう」


「それはよかった」


 知っている顔ならば見分けやすい。ブレスは再び瞼を撫でて眼球に〈透視〉を刻印する。


「先生、人探しは得意ですよね」

「それなりにね」

「でしたら、魔術師ふたりを伴って移動している男を探してみてください。アスラシオンが隠し部屋や隠し通路をつかって屋敷から脱出を試みている可能性があります」


 あの男はこの部屋でフェインを処分しようとしていた。ならば、敵兵に踏み入られるのも時間の問題であるこの屋敷に残る理由は、もう無いと思っていいはずだ。


 カナンが面白そうに目を細め、いいだろう、と頷く。

 フェインはブレスが当然のようにカナンの力を借りているのを目の当たりにし、しばし茫然とした。


「冬の君を使うなんて……君はいったい、何者なんだ?」


 問われ、ブレスは答えに窮した。

 あなたの弟だとここで明かしてしまおうか。


 一瞬浮かんだその考えを、ブレスは捨てた。いまではない、と思った。


 記憶を奪われているブレスは、フェインが兄であったことをなにひとつとして覚えていない。


 事の真偽の証明を求められても、それを証明する事が出来ない。

 ブレスは答えの代わりに苦く笑い、ゆるゆると首をふった。


「使うなんてとんでもない。私はただの、弟子ですよ。それに先生は、フェインさんが思っているほど怖いひとではありませんから。きちんと話せば、解ってくれます」


 縛られている人々の縄を断ち切りながら、ブレスは続ける。


「本当は、フェインさんとも話したいことがたくさんあるんです。このごたごたが片づいたら、船旅になるでしょう? その時にでも、聞いてください」


「……そうだな。私も、君に訊ねたいことがたくさんある。必ずこの国を、生きて出よう。共に」


「はい」


 必ず、あなたに玉座を。

 心のなかで呟いたブレスの決意を知らないまま、フェインはブレスと共に監禁されている人々の縄を解き始める。


 全ての手足の縄をほどき終わると、ブレスは「まだ危険なので部屋からけして出ないように」「スティクス候の私兵はあなた方を助けにきた味方です」と言い含めて部屋を出た。


 ひとりアスラシオンを探していたカナンは、黒ローブの下で額の目を開き何者かの動きを追っている。


「恐らく、この男だろう。攻撃的な怒りの赤と人々の怨嗟の黒を纏って大股に歩いている。後ろに魔術師がふたり。地下道ですね。この者は地下道を通って城壁に向かっている」


「城壁に? 屋敷から城壁の外まで地下通路が通っているだなんて・・この屋敷を立てたレーテ候は逃げ出す算段にぬかりない人だったんだな」


「呑気に考えていないで、行きますよ。城壁の外に逃げるつもりならば、先回りをしよう」


 たしかに今からアスラシオンと同じ道を走るより、空中から地下道の出口を待ち伏せする方がはやい。

 問題は相手にそれを気取られはしないか、ということだが──。


「エミスフィリオ。フェインに〈遮断の腕輪〉を差し上げなさい」


 魔術具を作るという能力は本当に便利だ。己の腕輪から無印のものを外し、ブレスはその場で〈遮断〉を刻印する。

 ついでにフェインの黒ローブの内側には〈無貌〉を描いた。


 スティクス領の魔術師が纏う黒ローブの印はブレスが刻んだものなので、これでお互いに顔が判別出来るようになった、ということだ。


 顔が見える以上、フェインがスティクスの魔術師から攻撃を受けることもない。


「顔が見えていないと、わからないこともありますから」

「君は本当に腕のいい刻印師だな」


 腕輪をはめながらしみじみとフェインが呟く。

 刻印が上達したのは魔女たちからもらったお守りと、教え上手なマリーのおかげだが、兄に褒められるのは素直に嬉しかった。


 カナンが窓枠を乗り越えてバルコニーの手すりに立つ。

 そのままふっと飛び降りて風を呼び、舞い上がった。


「我々も行こう」

「はい」


 黒ローブをはためかせながら、魔術師たちはカラスのように空を飛ぶ。




 空を舞いながら都市を見下ろすと、遠目にネモたちが捕虜に緊縛の魔術をかけているのが見えた。


 リーディアは既に鎮圧されている。包囲された帝国人たちは戦意を喪失し、アナクサゴラスは暗赤色のマントをはためかせながら堂々と指示を下していた。


 屋敷のどこかに監禁されているレーテ候らも、まもなくスティクス兵が見つけてくれることだろう。


 城壁の上のカナンと並び立ち、ブレスは眼下に目をこらした。壁の内側には厩舎と並んで馬具を収納する倉庫がある。


 外側はただ壁があるだけに見えるが、カナンのエメラルドの双眸が油断なく城壁に注がれているのを見るに、実際はそうではないのだろう。


「あれは……結界と幻覚の魔術だろうか」

「そう。在るものを消して、無いものを見せる」


 フェインの独り言にカナンが答える。シャムス聖王国でカナンが作り上げた氷の塔と同じものが、壁の一部に施されているらしい。


「ほら、ご覧。いまにも現れる」


 低く静かな声が風と混ざりあって流れる。ブレスが目を細めると、城壁に両開きの扉が現れた。


 馬二頭が並んで通れるだけの幅はある。

 隠し扉にしては随分大きい。


 黒ローブを着た人物が外に出て、周囲を警戒し始めた。金色のつむじが黒ローブの向こう側に透けて見えた。


「すごいですね。ああいう幻を作り上げる魔術って、どうもうまく出来ないんですよ……」


「適性が無いのだろう。魔術師だからといって、あらゆる魔術を扱えるわけではない。それは何百年生きても変わらない。出来ないことは出来ないものだ」


「先生はなんだって出来るじゃないですか」


「……いや、君ね。僕と比べては……」


 あきれ声のカナンとブレスのやりとりを聞いたフェインが、くすりと笑った。

 呆気にとられたブレスが振り向くと、気まずそうに口元を隠して「失礼」と呟く。


 カナンは興味深そうに身を乗り出し、愉しげに口角を上げる。


「ああ、出てきた。エミスフィリオ、指揮官は彼では?」


 その一声にはっとして、ブレスは身を乗り出す。甲冑を身につけた大柄な男が、鹿毛の馬に乗って扉を抜けて現れた。


 目をこらすが、遠すぎてよくわからない。


「でもあの甲冑には見覚えがある。フェインさん、どう思われますか」

「私にはあの男に見える。恐らくアスラシオンだろう。それに、あれはレシャとイルダだ。それは間違いない」


 魔術師がふたりついているのならば、本物と思っていいはずだ。

 ブレスはカナンを振り返り、ひとつ、息を吸った。


「行ってきます」

「……気をつけて」


 カナンは目を細め、頷く。

 この弟子も大人びた顔をするようになったものだ、と出会った頃を懐かしく思いながら。


 城壁から飛び立ったブレスを、フェインが追った。レシャとイルダがあちらにいる以上、彼らを説得するのはフェインの役目だ。


 雛鳥の巣立ちを見届けるべく、カナンは静かに城壁の上で佇む。


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