9話 怪異
誰にも見咎められず無事に神殿を出るなり、カナンは木陰にブレスを引っ張りこんで唇に人差し指を当てた。
ブレスが黙り込んだまま怪訝にカナンを見つめると、カナンは口に当てた指をそのまま神殿の方へ向ける。
大柄な、裕福そうな身なりの男が従者をふたり引き連れて、神妙な顔で神殿へ入って行くところだった。
「嘘だろ。あれ、町長ですよ。火事になったサンジェルマン家の当主の、腹違いの兄。あんなひとがなんで神殿なんかに。なんか、あやしくないです?」
人気がなくなるなり気分が悪そうに呟くブレスに、カナンは僅かに首を傾けて答えた。
「さあ、今見たばかりの人物については何も言えない。一応は覚えておきましょう、頭の片隅にね。それと君、もう袖を放していいですよ。神殿の結界から出たのだから」
「あっ、すみません……」
ブレスはそろそろと手を外し、カナンの袖が手汗で湿っているのを見て申し訳なさそうに赤面した。
「その、目眩しの印も、もう消してしまっていいでしょうか」
「いや。これはもう少しこのままにしておこう。僕と君が話しているところを、あまり人に見られない方がいい。とくに神殿の近くでは」
「はあ」
カナンは神殿から離れゆっくりと歩きながら、思案げに細い顎を指先で撫でる。
「サンドラとメイリーン、ね。なかなか面白いものが見られそうだ。とはいえ、少し情報を整理する必要がある。ねえ君、ブレス君?」
「え、はい」
「明日にもう一度、君の所属する協会を訪ねるから、空が夕焼けに染まる頃合いになったら協会の扉のところで待っていてくれないか。もしかしたら、怪異がその姿を現す現場をおさえられるかもしれないよ」
ぽかんと立ち尽くすブレスを振り返り「印は協会に戻ってから人目のないところで消すのだよ」と言い残すと、カナンは黒髪をサラサラと風に揺らしながら何処へと去ってしまった。
そして翌日。
日暮れ間近の赤く染まった空を背に、黒髪の旅人は現れた。
彼、カナンはいつも通りの着古した外套を肩にかけ、顎のあたりで揃えた艶やかな黒髪を揺らしながら、ひとりの娘を連れてブレスの前まで歩いてくる。
ブレスは言葉をかけようとし、躊躇った。
カナンはいつもとなんら変わらない。
だというのに、まるでカナンの皮を被った怪物と対峙しているかのような気分になるのは、何故なのか。
「ブレス君、彼女はロナー嬢。例の事件のたったひとりの生き残りとされている娘だ」
おずおずと娘、ロナーがお辞儀をする。
「ああ、あなたがあの」
火事屋敷の使用人、と無遠慮に言いかけてブレスは言葉を飲む。
ブレスは不可解な状況に困惑し、「ちょっと」とカナンを手招いて耳打ちした。
「カナンさん、どういうことです? 怪異の原因はサンドラなんでしょう。なぜ今になって、もうひとりの容疑者を連れて来るんです」
「なにも疑って連れてきたのでは無いのだよ。彼女は言わば、証人だ」
カナンは底知れぬ光を瞳に浮かべ、薄い唇でそっと微笑む。
そして彼は、芝居がかった仕草で両腕を広げた。
「彼女にしか言えないことがある。──さて、時は黄昏、行手は神殿。僕がことの真相を暴いて見せよう」
「真相って……」
何が何やらわからず困惑しているブレスと、困り果てて呆然としている娘ロナー。
ふたりの手首をカナンが突然掴み上げると、三人は一瞬にして居場所を変え、あの占い師サンドラの居所、青きサタナキア神殿の一室に立っていた。
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突然強風が吹き荒れたかと思えば、自室にいきなり見知らぬ者が現れた。
サンドラはほとんど金切声を上げて取り乱した。
長い髪をとかしていた櫛を放り投げて叫ぶ。
「誰なの!?」
「これは失礼。女性の寝室に土足で踏み入ったことは謝罪する」
「な……」
サンドラは思わず目の前の男を爪先からつむじまでジロジロと眺めてしまった。
姿に見惚れて思わず不法侵入者であることを忘れてしまうくらい、相手のひとりの男が際立っていたからだ。
侵入者は三人、うちふたりはサンドラと同じく事情を飲み込めていないと見え、青い顔をして、見るからに狼狽している。
少なくともこちらのふたりは「神殿破り」が重罪であることを理解している様子だった。
ところがサンドラと対峙する美貌の男は、ふたりの様子を気にもかけない。
「僕はカナン。カナンという名で旅をしている魔術師です。魔術師の名についてご存知ですか? 我々は本名を決して明かさないのですよ。
名を明かすことは魔術的縛りを受けるリスクを上げることになるのでね。僕のこのカナンという名も、通称、通り名、呼び名──仮の名前に過ぎません。あなたと同じように」
「……何が言いたいの」
サンドラは無意識に後退りながら、目の前に立つ美しい男を慄然と見つめた。
首を傾げると肩で揃えた艶やかな黒髪がサラリと揺れる。
室内灯を取り込んだ両眼が、目の中で緑の炎が燃えているかのように妖しく輝いている。
その両眼で、男は食い入るように娘、サンドラを見つめている。
「あなたは、だれです」
カナンの指先がサンドラの細い顎にかかり、くっと上向かせた。
「あなたの本当の名前は。言いたくないのなら構わない。僕が当ててあげましょう。そう、サンドラ。それこそが本当のあなたの名前の在処」
娘はびくりと震え、驚き、己の顎に触れる指先から逃れようとまた後ずさる。
窓のさんが手のひらに触れた。
「ロバート・サンジェルマン」
その場にいたふたりの娘が同時に息を呑んだ。
「そして、その妻ドロテーア。サンジェルマン氏は奥方をドーラと呼んでいたそうですね。愛情を込めて」
「まさか、そんな」
カナンの背後でロナーがかぼそく怯えた声を上げた。
ブレスは青ざめて倒れそうな娘を支えながらも、カナン言葉にすとん、と色々なことが腑に落ちてしまった。
「そうか。家名から半分、母親の名前から半分。それでサンドラと……そして、ロナーを連れて来たのは」
「そうだよブレス君。あの火事の生き残りは、ひとりではなかったのだ。一家には年頃の娘がふたりいて、姉妹は双子だった。双子の結びつきは強い。
何しろそれは、ひとつの魂をわけあったものだからね。故に双子の片方が死に、片方が生きているこの状況でも、姉妹は通じ合うことができてしまった。
そして彼女は片割れを操り、怪異を起こす占い師となった。もうおわかりだね。
死をもたらす占い師サンドラ。家名から半分、母親から半分。彼女はサンジェルマン家の娘、死んだと思われていた双子の片割れだ」
しん、と静まり返る居室で、ひとりの娘の蒼白な顔が灯に照らし出されて揺れていた。
ロナーは震える脚で進み出ると、目の前の娘──かつて仕えていた一家の令嬢の顔を食い入るかのように見つめた。
「お嬢様……メイリーン様ではない。ヘロデー様、ヘロデーお嬢様です。どうして、生きていたのならどうして……!」
ぐっと両肩を掴まれ、ヘロデーと呼ばれた娘は顔を歪めた。
嫌悪の表情。
「痛い、離して」
不快も露わな目でロナーを睨み、ヘロデーはロナーの手を跳ね除けようと身を捩る。
しかし、ロナーは目を見開いてかつての主人の娘を見詰めながら、けして手を離そうとはしない。
「どうして生きていると教えてくださらなかったのです。お嬢様が……誰かひとりでもあの火事で生きていてくれていれば、旦那様はまだ生きていらしたかもしれないのに。
わたしがどんなに自分を責めたか、苦しんで苦しんで死んでしまいたかったかおわかりですか。ヘロデー様、私は使用人の義務として家の秘密を守り通しました。
皆様がお亡くなりになったあとにたったひとり、わたしが男のために職務を怠ったふしだらな女だとひどい扱いをされようと、忠義のためとその汚名を否定することもなかったのに。
ただお嬢様がたの過ちを諌めることが出来なかった自分を後悔しながら、いまままでずっと──わたしは──!」
「離せって言っているでしょう!」
何かに憑かれたような形相で言い募るロナーを、ヘロデーはとうとう突き飛ばして叫ぶ。
胸を突かれて流石によろめき後退ったロナーを、ブレスは慌てて抱きとめた。
「わかるはずがない」
若い顔を憎悪と絶望と怒りに歪め、娘は低くそう言った。
「おまえのような使用人おんなに、この高貴なわたくしの踏み躙られた屈辱の痛みがわかるものか!」
「そんな!」
その時、部屋中を渦巻くような風が突如として巻き起こり、皆々の目を眩ませて嵐のように荒れ狂った。
寝台の四隅、それどころか部屋の至る所に吊るされていた鈴が一斉に鳴り響き、異様な気配が増幅してヘロデーの背後に取り憑いた。
娘の亡霊。
来たか、とカナンは言った。
ヘロデーは追い詰められた蒼白な顔に、ほんの少し落ち着きを取り戻したかのように見えた。
彼女は安堵の微笑みを浮かべ、頭上に手を差し伸べる。
「メイリーン! メイリーン、お願いわたくしを助けて!」
「ここに、メイリーン様が居るというの。火事でお亡くなりになった、もうひとりのお嬢様が……?」
ロナーががたがたと震えながら目に涙を浮かべた。
ヘロデーとメイリーンはとても仲の良い双子で、なんでも分かち合い、ロナーにも優しかった。
それは主から使用人への優しさでしかなかったのかも知れない。
けれど屋敷での生活は満ち足りていたし、ロナーは一家に仕えることを誇りに思っていた。
一家皆殺しの事件が起こっただけでも、最悪の事態だと思っていた。
だと言うのに実は娘のひとりが生きていて、片割れの亡霊をつかって人を殺して金を稼いで生きてきただなんて。
ロナーは悲しくて堪らなかった。
「お願い! お願いメイリーン、あなたわたくしの妹でしょう!」
「メイリーン様は、人を殺めるような方ではなかったではありませんか……とてもお優しい、朗らかなお嬢様だったではありませんか」
「あれはもう、メイリーンではない。かつてはメイリーンであった、怪異だ」
カナンはロナーとブレスを背後に庇いながら、暴風が吹き飛ばす室内の小物類、ヘロデーのアクセサリーや手紙の数々から目を守って腕を掲げる。
「人が人らしくいられるのは、生きている間だけだよ」
「亡霊は、人格の保存ができないと聞いたことがあります」
ほとんど気を失いかけているロナーを腕に抱えながら、ブレスは呟く。
「あのメイリーンと呼ばれる亡霊は、もはや己で考えることも感じることもできない。ヘロデーの言いなりに動き、ヘロデーが感じるままに感じる。あれはもはや、ヘロデーの一部だ」
「その通りだよ、ブレス君」
「そんな! では死者には安らげる魂など無いとおっしゃるのですか! 奥様や旦那様は! 若君は!」
「そうではない、ロナー嬢。正しく導かれれば、魂は天の国へ、あるいは行いの悪しによっては根の国へ迎えられる。夜の国へ行くこともある。だがメイリーンの魂は、ヘロデーの呼びかけによって道を外れた」
メイリーンは知らなかった。
双子の片割れと通じ合えば、天への道から外れてしまうことを。
彼女にしてみれば、大好きな双子の姉の声に惹かれて、思わず引き寄せられてしまっただけなのだろう。
亡霊は人格の保存ができない。
死の直後の魂は、天に向かうまではその者の核である。
しかし、不幸にも魂から亡霊と化してしまった場合、核はその機能を失う。
最初こそ記憶や人格を持っていたとしても、それは徐々に薄れてやがて消えてしまうのだ。
「亡霊は哀れだ。なぜ己がここに存在しているのか、なぜひとりなのか、それさえもわからなくなってしまう。その深い孤独と混乱と悲嘆で、負のエネルギーの塊と化してしまうことが殆どだ。
しかし、メイリーンにはヘロデーがいた。自我を失う以前からヘロデーの手助けをしていたのなら、おそらく自我を失ってもヘロデーの傍を離れなかっただろう。
むしろヘロデーにとっては、妹が自我を失ってからの方がその力を御し易かったのでは無いかと思うよ。まさに、言いなりだっただろうさ」
少なくとも、これまでは。
「知ったようなことを言わないでよ!」
ヘロデーが叫び、部屋中のガラスが派手な音をたてて砕け散った。
ヘロデーの怒りに、メイリーンが同調しているのだ。
「なにも知らないくせに! メイリーンは、メイリーンはね、わたくしに償いをすべきなのよ!」
白い巫女服の裾がはためく。
「君には話を聞いてくれる人が必要です」
カナンは歩み寄りながら、ゆっくりと手を差し伸べる。
「こちらへおいで、サンドラ。あなたがその名前を使ったのは、誰かに気づいて欲しかったからではないのですか」
静かに煌めくエメラルドの目を、ヘロデーは無言で見つめ返した。
取り乱し、恐慌した様子がほんの少しだけ薄れ、彼女はつかのま正気を取り戻したように見えた。
「……そうね。そうだった、かつては。誰かが気づいてくれるのを、わたくしは待っていたわ。でもだめ」
ヘロデーは消え入りそうに呟く。
「わたくしは穢れすぎた」
「いったいなんの騒ぎですか!」
ほんの一瞬の出来事だった。
神殿住まいの下級神官たちが、ドアを破り部屋になだれ込んでくる。
カナンが背後のそれに気を取られた次の瞬間、ヘロデーは微笑み、ふっと彼女の後ろに口を開けていたガラスのない窓に身を投じた。
「あっ……!?」
ヘロデーは落ちなかった。
白い巫女服が彼女を取り巻く暴風にはためく。
長いプラチナブロンドの髪が、炎のようにメラメラと乱れて彼女の青ざめた顔を彩った。
魔女、と誰かが呟く。
「行ってはいけない」
カナンはなおも歩み寄り、夜に紛れて行こうとするヘロデーに指先を伸ばした。
割れたガラスを踏むザラザラとした音と、カナンの声の他、誰一人として音を立てる者もいない。
「だめ。妹と行かなきゃ。あの子が待ってるの」
ヘロデーは繰り返し、そのまま暗闇に吸い込まれるようにして遠ざかって行った。