89話 レーテの戦い 前編
夜が明ける。
アナクサゴラスは甲冑に暗赤色のマントを纏い、百五十の精鋭を引き連れて、丘からレーテ領を見下ろしていた。
並び立つはスティクス候付きネモをはじめとする、黒ローブを被った魔術師が十名。
カナンとマリー、ブレス、エチカ、そしてネモの門弟が数名である。
魔術師に周囲を見張らせ、背後を護らせながら、アナクサゴラスは厳しい目で己の兵を振り返った。
彼は馬上、宣言する。
「これより無法の輩に占拠されしレーテ領都リーディアを奪還する。我らが使命は罪人の処分および捕縛、そして捕らわれているレーテ候一族の救出。これは王命である!」
昨晩王都に放った虹鳩は、国王の署名付きの指令書を携えて戻ってきた。
国王はレーテと隣り合うスティクスに、此度の騒動を鎮圧せよと命じたのだ。
アナクサゴラスは迅速に行動を起こした。昨晩のうちに兵舎へ使いを出し、実践経験のある百五十人を集め、夜明けとともに出立。
カナンが関心するほどの行動力を発揮し、一日とかからずにいまこの場に立っている。
ブレスは領主の、腹の底から響くような声を聞きながら、ローブの下で密かに感嘆する。
有事の際に才覚を発揮する人物であるというネモの見立ては、たしかに的を射ていた。
(きっと、平和な世だと腐ってしまう人もいるんだろうな)
戦いを前に立つアナクサゴラスは、明らかに顔つきが変わった。まるで己が虎であったことを思い出したかのようだった。
この男は乱世でこそ力量を発揮する男だ。
「エミスフィリオ」
「はい。すみません、集中します」
横から呼ばれ、ブレスは居住まいを正す。
思考が明後日の方向へ転りゆくのが、カナンにばれてしまったようだ。
呼びかけられたついでとばかりに、ブレスはカナンに呟く。
「先生、皆さんに防御系の印を刻印した方がいいのではないでしょうか。その、我々のせいで人死にが出るのは……」
「それは君の心配することではありませんよ、青年」
黒ローブのなかから、ネモがうっそりと呟く。
ブレスを相手に話してはいるが、相変わらず視線はカナンに固定されている。
「出立前に私が護りの石を配っておきました。滅多なことでは死にません。即死や即効性の毒物でも喰らわない限りはね」
「そうでしたか。失礼しました、ネモ様」
普段の変態的な振る舞いを見慣れているせいで忘れがちだが、ネモは有能な魔術師である。
ブレスが口を出すまでもなく、やることはきちんとやっているのだ。
「夜を徹して石を作っていたので、一睡も出来ませんでしたけどね、ふふ」
「……そういうところですよ、本当にもう……」
ネモは有能な魔術師だが、自重しない。この男は絶望的に自愛の精神が足りていない。
もっと自分を大切にしてほしいものである。
ブレスはため息を堪えつつ懐から小粒の水晶を取りだし、無言でネモに差し出した。
首を傾げながら受け取ったネモは、しげしげとそれを眺めると、そのまま口に放りこむ。
ごくん、と喉が動いた。
「えっ」
まさか飲み込まれるとは思わなかった。
黙ってやりとりを見守っていたネモの門弟がぎょっとした様子で凍り付いている。
そんな弟子たちをよそに、ネモは骨ばった手をブレスに伸ばした。
「青年、もっとください。私の後継たちこそ死なれては困りますので」
「……いいですけど」
ひとを思いやる言葉を発しているはずなのに、強請られているような気分になるのはなぜだろうか。
釈然としない気持ちでブレスは追加の水晶の粒を取りだし、手のひらで転がして纏めて〈蘇生〉を刻印する。
一瞬の間に全ての石に模様が浮かび上がるのを見たネモが、ほう、と息を吐いた。
「なるほど。私の命の恩人はあなたでしたか」
「はい?」
「なんでもありません。ほら、あなたたち。さっさと受け取って飲みこんんでしまいなさい。命綱ですよ」
手渡された水晶を配り、何がなんだかわからないという顔の門弟に背を向けたネモは、そのまま何事も無かったかのようにアナクサゴラスの背後にひっそりと佇んだ。
この男が影に徹していると、驚くほど気配が希薄になる。
「ねえ、わたしにもちょうだい」
黒ローブの袖を引かれて振り向けば、エチカが手のひらを差し出していた。
ブレスは苦笑する。
「君には昨日、お守りの腕輪をあげたじゃないか。しかもたくさん」
「腕を切り落とされたらどうするのよ」
「う、腕を……?」
エチカは平然と怖いことを言う。
マリーがくすりと笑い、「エチカが正しい」と同意した。
「なにせ相手は長剣だからね。強いのがいたら腕や脚がばっさりなくなるなんてこともあり得るよ」
「それは……こ、怖いですね……」
「大丈夫さぁ。落ちた肉をすぐに拾って両方の断面に〈治癒〉を刻印してくっつけて、添え木でもしておけばそのうちまた動くようになる。
ま、三日くらいは動かせないし、血が滞って肉が腐ったりすると駄目だけどね。あとは虫がわいたりとか──」
「マ、マリー様、もういいです。やめてください。お願いします」
想像してすっかり血の気が引いてしまったブレスを見、マリーはきょとんと首を傾げる。
「フィーって変な子だよね。肝が据わってんだか怖がりなんだかわかんない」
「どちらにせよ、戦いの前に脅すような話はよせ。エミスフィリオは剣と甲冑を相手に戦った経験がないのだから」
カナンの言葉に、マリーはこくんと頷く。ブレスは水晶の粒をエチカに渡し、揺らいだ気持ちを深呼吸で落ち着かせた。
(大丈夫だ。何が起ころうと、やることは決まっている。俺は兄さんと共にこの国を出る。そのためだったら、なんだってやってやる)
何かを得るには対価が要る。魔術師にとって、それは揺るがない掟だ。
望みを叶えるために何かを捧げなければならないのならば、ブレスはその選択を迫られたとき、きっと迷いはしないだろう。
アナクサゴラスが演説を終え、ネモを振り返った。ネモは恭しく一礼し、カナンとマリーに「お願いします」と告げた。
「では行こう、マリー」
「おうとも」
魔術師の黒ローブを被り、顔を隠したふたりは、風の力を借りて舞い上がる。
ローブの裾をなびかせながら都市リーディアの城壁を見下ろし、ふたりはゆっくりと両腕を広げて暴風を作り出した。
それを見届け、ブレスは目を閉じる。大地に膝を突き、両手で土を感じる。
この大地はあの城壁に繋がっている。
イメージを明確な形に起こし、開眼とともに魔力を流す。
魔力は一直線に大地を走り、都市を守る城壁へと駆け上る。
刻印が次々に浮かび上がり、赤い光を放って存在を示した。
カナンとマリーが浮かび上がった赤い印に向けて暴風を放つ。
暴風は渦を巻いて地上に落ち、そして、瓦礫を巻き上げながら障壁の一部を粉々に粉砕した。
アナクサゴラスの号令により、騎馬はいっせいに丘を駆け下りた。
ネモとその門弟が彼らの頭上を舞い、城壁から飛んでくる矢を阻み、たたき落とす。
リーディアはたちまち蜂の巣をつついたかのような大騒ぎになった。アナクサゴラスが「誰ひとりとして門から逃がすな!」と怒鳴り声を上げる。
エチカがコンパクトを取りだし、〈不滅の人形〉を召喚した。
あふれ出した砂が次々と少女の形を得、砂塵をまき散らしながら遁走する者を幻惑する。
少女の砂嵐に取り込まれた人間はその場で膝を折って倒れた。
エチカが砂に付着させた眠り粉の幻覚作用は強烈だ。
ブレスはその合間を通り抜けながらすれ違いざまに叫ぶ。
「門は任せる!」
「ええ、あんたはさっさと兄さんを探しなさい!」
「ああ!」
さらに風を呼び、ブレスは高々と空へ舞い上がって恐慌に陥る都市を上空から見下ろした。
アナクサゴラスはレーテ候の一家が帝国人に監禁されていると言っていた。
籠城戦となった以上、指揮官のアスラシオンはおそらくレーテの屋敷にいるはず。
アスラシオンがフェインから目を離すとは思えない。
ならばフェインの居場所は、レーテ候の屋敷だろうか。
遠目に見えるカナンとマリーは、上空から全体を見下ろし、地上付近で自軍を護るネモたちの補佐をしている。
予測通り、戦力は足りている。
黒ローブの下で髪をほどく。風を含んだ赤い髪が宙に揺れる。
カナンは言っていた。魔力にはそれぞれ匂いがあると。
ブレスは己を取り巻く風に、そっと囁きかけた。
「……風よ、教えておくれ。魔力の糸を、運んでおくれ」
水蝕の魔術師が額に翳した魔力の匂い。
潮騒の魔術師が指先に集めた白い星の魔力の匂い。
言葉に答えた風が、ささめきあいながらブレスの周りを回る。
赤い髪に纏わりつく風を見、ブレスは目を細めて一房の髪を断ち切り、風に放った。
風に隠れていた微生霊が姿を現し、うれしげに身を翻して飛びつくようにブレスの髪を取り込む。
『対価は支払われた』
不思議な風音が耳元で囁く。言葉ではない。音だ。それでも、意味はわかった。
風が意志をもってブレスに道を示した。微生霊が運んできたあちこちの空気に、見知った魔力の匂いが混じっている。
カナンのもの。マリーのもの。エチカのもの。ネモのもの。
そして、あの白い星の魔力の匂い。
「……いた。見つけた」
魔力の匂いが届いたということは、フェインは魔術を使っている。
ブレスは微生霊が繋げてくれた風の道をめがけて、上空から急降下した。
魔力の糸は石造りの美しい館に繋がっていた。屋敷の最上階の窓の隙間から、細い煙のように魔力の匂いが流れている。
ブレスは〈姿隠し〉を刻印し、バルコニーの手すりに降り立つ。窓には薄いカーテンがかけられているが、そんなものは在って無いようなものだ。
己の眼球を瞼のうえからひと撫でし、〈透視〉を刻印すると部屋の中には縛り上げられた使用人たちとレーテの兵士たち、そして三人の黒ローブを被った魔術師がいた。
──おかしい。情報によれば魔術師は全部で三人のはず。
(外で戦いが始まっているというのに、ここに全ての魔術師が集まっているだなんて有り得ない)
ブレスは目をこらす。黒ローブの下の顔を透視すると、ひとりはたしかにフェインだった。
しかし残りのふたりは知らない顔だ。
フェインの味方である水蝕の魔術師レシャは、この場にはいない。
残るもうひとりの魔術師はブレスも見たことがないため、判断がつかないい。
フェインは縛り上げられた人々の額に手を翳している。
記憶を消しているのか、意識を操作しているのか、暗示の類か。
どうもいやな予感がした。屈み込むフェインの背後に立った黒ローブの男が、懐から刃物を取り出す。
フェインは目の前の虜囚に集中しているのか気づくそぶりを見せない。
背後の黒ローブが手慣れた様子で短剣の柄を持ち、振りかぶるのが見えた。
ブレスは確信する。あれは魔術師ではない。
(馬鹿にしてくれる)
頭のなかで、怒りがマグマのように溢れ出した。
「爆ぜろ」
荒れ狂う激怒のままにブレスは言霊を放つ。
窓が粉々に砕け散り、先ほどブレスを導いてくれた風の微生霊が呼応し、暴風となって黒ローブの男を吹き飛ばす。
壁に叩きつけられたその男は一瞬の間に失神し、フェインが目を見張ってブレスを見た。
「フェインさん。もう片方の黒ローブは、本物ですか?」
淡々と問うブレスの声に、フェインは顔をこわばらせた。
黒ローブを纏う相手の顔は、通常〈無貌〉の刻印によって仲間同士でなければ認識できない。
ブレスが容赦なく黒ローブの男を吹き飛ばし、もう片方の正体を問ったのは、〈無貌〉を無効化していると宣言をしたようなもの。
そのうえでフェインは問う。
「彼はレシャではないのか?」
「ここに水蝕の魔術師はいません」
「では、偽物だ」
「そうですか」
フェインの答えを聞いたブレスが、わずかに首を回して偽物に目を向ける。
黒ローブの男は気圧されたように一歩後ずさった。ブレスはゆらりと手を上げる。
「魔術師の称号は、無責任に騙って許されるような気安いものではないのですよ」
指先にこもる緑の光を見た男は、ローブの裾に脚を取られてもつれるように転んだ。
なにか喚いているが、怒りの充満した頭では聞き取れなかった。
「この程度の覚悟も無いのに、そのローブを纏ったのか?」
否、聞く気もなかった、と言うべきか。
指先の魔力が密度を増す。
男は死を想像して恐怖に身を縮こませる。
「──そのあたりで止めておきなさい、エミスフィリオ。感情に任せて力を振るってはなりません。闇に落ち、己を滅ぼしたいのですか」
その時、背後にカナンの気配が降り立ち、ブレスの瞼を覆った。