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88話 生還とその後

 

 スティクス領、大都市モシュネ。

 城壁に囲まれたその都市は、いまや全門を衛兵に固められ、人の出入りが固く禁じられていた。


 警備の強化は都市モシュネのみにとどまらず、領内にはスティクス候アナクサゴラスの命令によって全門が封鎖され、衛兵が絶えず周回して見回っている。


「閣下。王都より鳩が戻りました」

「寄越せ」


 厳しい目で館の最上階から己の収める領地を見下ろしながら、アナクサゴラスは端的に命じる。


 ネモは虹鳩の運んできた小さな筒を差し出す。アナクサゴラスはそれをつまみ上げ、きつく丸められていた紙をくるくると開いた。


 書簡に目を通したアナクサゴラスは鷹揚に頷く。


「王は現状を把握した。すでに国中の門を封鎖したそうだ。魔術師に上空を見張らせ、怪しげな者があれば打ち落とす──だと?」


「甘いですね。魔術師にとって姿を消すことなど造作もございません。見えてから打ち落とすのでは、監視の目をかいくぐる者もおりましょう」


「貴様ならばどうする」


「そうですねぇ……やや人数を増やす必要はありますが、結界を展開するのがよろしいかと」


「では、そのように返信を書いて鳩を飛ばせ」


「かしこまりました」


 ネモが黒ローブの裾を翻し、退出しようとしたその時、使役のミミズクがネモの影よりさっと羽ばたいて部屋を舞った。


 肩に止まった鳥の思念を読みとったネモは、アナクサゴラスを振り返って薄笑いを浮かべる。


「閣下。行方知れずであったご息女と、例の赤毛の青年が屋敷に戻りました」

「貴様が迎えろ。それからあの──」

「翼のお方の名であれば、カナン様でございます」

「……そのカナン殿にも知らせるがよかろう」

「はい。そのように」


 カナンを話題に登らせる際のアナクサゴラスは、やや居心地が悪そうだ。


 ネモは左手を胸に当て、右手で黒ローブの裾をカラスのように広げてみせる魔術師特有のお辞儀をし、場を下がった。


「ネモ様!!」


 階段を降りるネモの姿を目にするなり、シグリーは声をあげて立ち尽くした。

 ネモは微苦笑を浮かべ、労わるようにシグリーの肩に触れる。


「シグリー、よく無事で戻って来てくれました」

「ネモ様こそ……お目覚めになって、お元気そうで……本当に……っ」

「……ああ。あなたは私が眠っている間に屋敷を出たのでしたね。ええ、ご覧の通り、私は元気ですよ」


 目を潤ませるシグリーを宥めつつ、ネモは扉の付近でカナンと言葉を交わしている赤毛の青年を見る。

 また顔つきが変わったようだ。


(若者の成長は早い)


 感慨に耽るネモの前で、神々しい微笑を浮かべていた翼の君がおもむろに赤毛の青年の額を指で弾く。


 額を押さえる青年のうしろでにまにまと笑っていた秋の娘の頭にも、翼の君はすとんと手刀を落とした。


 なんとも羨ましい光景だ。

 ネモは人知れず羨望のため息を吐いた。


 この地を去る前に一度でよいから、ああして翼の君におしかりを受けてみたいものである。


(おっと、いけない)


 いまは己の欲望など横に置いておこう。

 シグリーを背に、ネモは二柱とひとりのもとへ歩み寄る。


「無事に戻ってなによりです、青年よ」

「ネモ様」


 ブレスはいくぶん顔色のマシになったネモを見上げた。

 しばし視線を交わした後、ブレスは深々と頭を下げる。


「ネモ様が策を講じてくださったおかげです。マリー様に聞きました。居場所を突き止めて、マリー様の使役を使うよう提案してくださったのはネモ様だったとか」


「あー……まあ、それも仕事のうちですのでね」


 自分はそんな崇敬の目で見つめられるような人間ではない。

 苦笑を浮かべつつはぐらかすが、カナンが「見事でしたよ」と言葉を重ねる。


「僕が出て行かずに済んだのは、ネモ殿の現状把握能力の高さ故です。スティクス候があなたを手放さないわけですね」


「いえいえいえ、そんな……うひ」


 滅相もございません、と礼をしつつネモは口元がにやけるのを抑えきれなかった。

 ブレスの生温かい視線に気づき、ネモはゴホンと咳払いをして、皆を広間へと促す。


「お疲れでしょうが、取り急ぎ今後について確認を」

「はい。これからが正念場ですからね」


 真剣そのものの緑の目を受け止めて、ネモは頷く。

 最初の一山は越えたが、エトルリアは危機から脱したわけではない。


「それではまず、現状の確認からいたしましょう」




 時は、二日前に遡る。


 地下室でミシェリーと共にあれこれと考えを巡らせ、頭を抱えていたブレスの前に、一匹のネズミが現れた。


 古い建物なのでそんなこともあろう、と無視を決め込もうとしたブレスであったが、そのネズミが甲高い声で「おい。小僧」と喋り始めたのを見てしまったとなれば、そうもいかない。


「返事くらいしたらどうだ、小僧」

「お……おう……」


 お喋りネズミ。小生意気な口をきく。

 ブレスはこれを見たことがある。


 マリーの家で、ドアのはめ窓が粉砕される度に床を駆けていた、小動物型の悪魔だ。


「マリー様の使役、だよな? この場所を捜し当ててくれたのか!」

「おいしそうなネズミね」


 顔色を明るくするブレスの横で、ミシェリーが不穏なことを言った。

 中身は妖精と悪魔であっても関係性は似たようなものなのだろうか。


「ミッチェ、駄目だよ、食べたら困る」

「食べられないわよ。体がないんだもの」

「それもそうか」


 味方の登場で気分が和らぎ、久々に気の抜けた会話をしていると、ネズミが小さな足をバタバタした。地団駄を踏んだらしい。


「話を聞け、小僧。事態は急を要する」


 そしてネズミは話を始めた。おおむねブレスとミシェリーが予想を立てていた通りのことがエトルリアでは起こっていた。


「ネモがそう予想を立て、我々が調べに走った結果、裏がとれた。帝国の干渉を知ったスティクス候は、即座に王へ知らせた。今頃は王の拙攻が事実確認をしている頃だろう」


「そうか、良かった! だったらもう、先生が動くことはないと思っていいんだな?」


 ネズミがチュッとひと鳴きし、ブレスは安堵のため息を吐く。


「じゃあ急ぎ解決しなきゃいけないのはここからの脱出と、ミッチェたちの救出か」


「それについても計画はすでに動き出している。カナリアが動けない以上、我が女主人が動く。女と猫の居所は突き止めている。おんなどもを救出し次第、我が女主人がこの屋敷を襲撃する」


「わかった。じゃあ、マリー様にこう伝えてくれ。俺は二日後にフェインに処刑されることになっている。その時を狙って来てくれたら助かります、って」


 逃げ出すならば、最後にフェインと話をしなければいけない。


 そうでなければフェインはこれから起こるかもしれない騒動に巻き込まれた時、落とさずとも良い命を落としてしまうかもしれない。


 フェインには、何があっても生きていてもらわなければ。


 ネズミはチュッと短く鳴き、物陰に消えた。


 そしてついに今日、その計画を実行する日がやってきたというわけである。


 結果は大成功、救出も脱出もフェインの説得もすべて成し遂げ、あの傲岸なアスラシオンにも一矢報いることが出来た。


 すべてはネモの頭脳と、マリーの力のおかげだ。


 どちらかが欠けていればブレスは死んでいただろうし、エトルリアはカナンに攻撃を向けて大惨事になっていただろう。


「王都と鳩便のやりとりをしていますが、あちらも我々を信じる気になったようです。全ての門を閉ざし、帝国人は国内から出さずに不法入国者として捕らえるとのこと」


「無許可で他国の軍が侵入していたのだから、ことが露見すれば確実にあちらに責任を問えますよね」


 ブレスの言葉にネモは頷く。カナンを悪神に仕立て上げ、正義の鉄槌を下す立ち位置を得るという帝国の計略はこれで砕かれた。


「だが、油断は出来ない。エトルリアに閉じこめられた彼らがどんな行動に出るか、今のところ予想が付かないからね」


 思案気に顎を撫でるカナンをうっとりと見つめつつ、「まったくですねぇ」とネモが同意した。


「おとなしく捕まるなり自死するなりすればいいですが、自棄を起こして攻撃的になられては傷つくのは民でしょうから」


「では我々は今後、そういった事態が起こらないようにエトルリアの人々を守りましょう」


 真剣に意見を述べたブレスを見、カナンは苦笑し、マリーは「お人好しだなぁ」と笑み崩れ、ネモは目を瞬いた。


「あー……しかし、君は顔が割れているでしょう。それにここまでくれば、もはやエトルリアと帝国の問題です。あなた方は、旅の途中なのでは?」


「顔ならば魔術師の黒ローブでも被っていれば認識されません。それに……」


 事が終わったら、フェインを連れてこの国を出る、という目的がある。


 言葉を飲み込んだブレスにネモは何を思ったのか。

 深く追求しないで見逃してくれたが、事情有りと判断されたのがありありとわかった。


「あ、そういえばネモ様。私が王都に向かったのは、ネモ様の真名を取り戻すためでしたが、結局、王都へは行けませんでした……すみません」


 魔術師の本気を見せてやろうだなんて大見得を切っておきながら、帝国に横槍を入れられてしまった。


 その上こんな結果になってしまったので、「カナンが帝国とやり合うためにブレスがぼこられる作戦(命名・マリー)」も不発である。


 情けない思いでネモを見上げると、ネモはいま思い出した、という顔でぽんと手を打った。


「ああ、そんな話もございましたね。私、なにせその後五日も熟睡していたものですから、すっかり忘れておりましたよ」


(熟睡って……)


 まるで寝不足が解消されてすっきりした、とでも言い出しそうな顔をしているが、あれは熟睡ではなく昏睡である。


 死にかけていたというのに、なんと呑気な。


 ネモはふと苦笑を浮かべ、目を伏せて首を振った。


「その件については忘れてくださって結構です。私の主人はどうやら有事の際に才覚を発揮するお方だったようで、いまでは十年前の面影を取り戻しておいでです。

 わたしももう少しくらいは、アナクサゴラス様に仕えても良いかと思いましてね。エトルリアは今後、いろいろと大変でしょうから」


 この男はこういう性格だから苦労をするのだ。

 ブレスはそう思いつつも、それはそれでいいのだろう、と思った。


「今度は胃壁が剥がれて大出血を起こす前に、体を休めてくださいね」

「あー……そうですなぁ。そうしましょう」


 ややばつの悪そうな顔で目をそらすネモに、釘をさすブレス。シグリーが背後に立ち、「今度こそ私が止めてみせます」と頼もしい事を言う。




 夕刻、斥候に出ていたエチカが戻り、一同は夕食を共にした。


 ブレスがはじめてみたスティクス候アナクサゴラスは、シグリーと同じダークブロンドの髪の、厳めしく油断のない目をした男だった。


 十年前、金策は必要なことだった。資金はあればあるほど有事の際に土地の寿命が延びる。


 ここ数年のネモの扱いはひどいものだったが、いざ危機に瀕してみると、アナクサゴラスの商売への傾倒もあながち間違いでは無かった気もする。


 物事は表と裏だけではない。多面なのだ。


 ブレスは、皆の会話に耳を済ませながら黙々と食事をとるスティクス候を見、そう思った。




 ──これは余談であるが、食事の後、カナンと共に浴場を使っているとネモが現れた。


 ネモは念願の「神々の湯浴み」を目に焼き付けるかのようにじっくりと鑑賞したのち、ふたたびごぽごぽと泡を吐きながら浴槽の底に沈んだ。


「ネモ様!! いい加減にしてくださいネモ様!!」

「我、今生に一片の悔いなし……」


 のぼせて目眩を起こしたネモは、心底幸せそうな顔でそのまま失神した。

 この時ばかりは「もうそのまま逝ってしまえ!」と思ったブレスだった。


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