87話 暴れる赤
期日が訪れた。
フェインは暗澹とした思いで寝台から起きあがる。
地下室であの青年と言葉を交わしてから三日。
今日が彼の命日となるか、それとも己の命日となるか。
神の采配次第だろう。
水桶の底に印を描き、水を満たす。絞った布で体を拭いながら、心のなかで父神サタナキアへ祈りを捧げる。
死後に天上の楽園へいけるとは思っていない。
フェインはいまさら己のことなど祈らない。
心残りがあった。海を隔てた遠い国に、一人残してきた妹、エルシェマリア。
エルは脆い。フェインのように、己を殺して帝国の道具に徹することは、妹には出来ない。
最近は夢にも現れなくなってしまった妹の身を案じながら、こんなことになるのならば最後に一度会っておけばよかった、と後悔した。
黒い衣に腕を通し、腰帯を締める。
レーテ領の魔術師が纏う黒ローブを纏い、フェインは姿見の前に立つ。
姿を偽り、心を殺し、己を騙し、妹を傷つけ、己の民を守ることも出来ずに死にゆく男の姿が映っている。
自嘲に顔を歪め、俯き、フェインは黒ローブのフードをかぶって顔を隠した。
(さあ、行こう)
死刑台が待っている。
⌘
拉致監禁されてから恐らく一週間程度の時が流れた。
地上に引きずり出されたブレスは、日差しのまぶしさに目を細める。
ネズミのように地下に身を顰めていた身には、天上で一番輝く燃える星の光は、あまりにも明るすぎる。
「死の間際にしては、随分と落ち着いている」
揶揄するような声が横から響く。ブレスは横目を向けてその男の姿を見やった。
フェインとともに地下室へ降りてきた男。
言葉使いや立ち振る舞いから予想するに、恐らくこの男が指揮官なのだろう。
「騒いだところで、みっともないだけですからね」
「ほう」
男は暗褐色の目を疑わしげに細める。ブレスの心中を、見極めようとしている。
表情を変えないブレスを見、何を思ったのか。
男は不意に、脈絡のないことを言った。
「お前たちは本当によく似ている」
「……なんの話です?」
「潮騒の魔術師と、貴様だ。まるで兄弟のように、よく似ている」
「ばかばかしい。赤毛だからって、短絡的な」
「そう。赤毛だ。それが問題なのだ」
男は作り笑いを消し、ブレスの髪を掴む。
強引に顔を向けさせられて顔をしかめるブレスを、男はじろりと見下ろした。
「ある国では、精霊の祝福を受けし者は皆、赤毛で生まれる。あの潮騒の魔術師がそうだ。たしか、少し前に処分されたレイダという男もそうだった」
「……へえ。不思議な話もあるものですね」
そんな話は聞いたことがない。
ブレスが素で驚いて見せると、男は尚も疑わしげに目を細めたが、やがてふんと息を吐いて手を離した。
「まあ良いわ。貴様が何者であるかなど、頭に手を突っ込めばわかる話だ」
「……」
「おや、顔色が変わったな。頭のなかをかき回されるのは恐ろしいか?」
レイダ・ウォルグリアという男は、強引に記憶を奪われ、頭のなかを踏み荒らされて廃人になったと聞いた。
言われてみれば、この男がブレスをただで処分するはずがない。
フェインが始末させられるのは、レイダと同じように記憶を奪われ、なにも解らなくなったブレスなのだ。
「さあ、来い。水蝕の魔術師が、首を長くしてお前を待っている」
潮騒だの水蝕だの、ウォルグランドの魔術師の冠は水に関するものが多いのだろうか。
ブレスは深く息を吐き、顔を上げる。
肩を左右から兵士に押さえられ、それでもしっかりと己の足で歩きながら、ブレスはふたりの魔術師の佇む広間へと向かった。
魔術師の黒ローブは一種の魔術具である。
布自体に防火や防水などの護身の印が施されている上、フードを被ってしまえば顔の認識が出来なくなるのだ。
もちろん仲間の顔がわからなくては仕事に差し支えるので、〈無貌〉の印は同じ人間に刻印されたローブを纏う者には作用しない。
しかし、いまのブレスにはどの黒ローブが兄であるのかが見えている。
己の眼球の裏側に〈透視〉を刻印したためである。
体の内側に刻印するという発想は、思った以上に実用的だった。
何しろ外側からは見えないので、相手に気取られることがない。
一応、心臓と脳に〈蘇生〉と〈治癒〉も刻印したが、さすがに首を落とされたら助からないだろう。
あれは即死してしまっては意味がない。
効果的なのは〈呪い返し〉だが、ブレスに手を触れるのはウォルグランドの魔術師だから、今回は使えない。
出来ることは、せいぜい自分の身を守ることくらいだ。
あとはフェインの言ったように、神々に祈って待つのみである。
広場の中心には台が置かれ、その周囲には騒ぎを聞きつけた近隣住民たちが何事かと集まり始めていた。
男は壇上に立つと、長剣をドンと己の正面に立て、声を張り上げる。
「我が名はアスラシオン! レーテ候タレス閣下直轄の騎士団、騎士団長である! この者は国王陛下に反目せしめし罪人。我々は此度、この男を捕縛すべくこの地に遣わされた!」
よくもまあぺらぺらと、嘘に口が回るものだ。
人々の前に連れ出され、ブレスは茶番劇の舞台へ上がる。
アスラシオンと名乗ったその男の横に両腕を左右から拘束されたまま膝を付かされ、肩がぎしりと不穏な音を立てた。
「タレス閣下は罪人をお許しにならぬ。この男にはこの場をもって極刑を言い渡す!」
ざわり、とひとの波が騒ぐ。
両腕の拘束をそのままに、ブレスの横に黒ローブの男が立った。
水蝕の魔術師。
彼は明るい金髪の、青い目をした男だった。
まだ年若い。フェインと同じくらいだろうか。
横目でみる限り、アスラシオンが言っていた「首を長くして待っている」という言葉は虚言だったらしい。
水蝕の魔術師はこの世の終わりを前にしたような、悲憤と絶望の表情を浮かべている。
(やっぱり、この人を相手に〈呪い返し〉なんて使えないな)
ブレスは俯き、かすかに苦笑いを浮かべる。
カナンやエチカが聞いたら、甘い、と言われるかもしれないけれど。
集った民衆に、ブレスの罪を滔々と語らっていたアスラシオンは、大仰な動作で片腕を上げ、水蝕の魔術師を示した。
「これより我が騎士団の上級魔術師によって罪人の記憶を改め、これをもって罪の告白とする!」
(ああ、レイダはこんな口実で頭のなかをぐちゃぐちゃに壊されたのか……)
こみ上げる怒りの激しさを押し殺そうと、ブレスは瞼を下ろした。
〈透視〉の刻印のおかげで瞼を閉じていても人々の様子が見える。
アスラシオンには、ブレスが諦めたように見えたのだろうか。
彼は残虐な笑みで唇を歪め、いたぶるような声で低く命じる。
「──やれ。水蝕の魔術師」
横に立つ青年が唇を引き結び、固く目を閉じる。
背後に立つフェインが、深く息を吐く音が聞こえた。
水蝕の魔術師が皮手袋をはずし、ブレスの額に手のひらを翳す。
彼の手のひらに魔力の渦を感じた。
その時だった。
女のけたたましい悲鳴が響き、緊迫した空気を切り裂いた。悲鳴は止まず、数を増し、やがて狂乱となって広場にまで広がった。
人の波が割れる。
巨大な赤い熊が、逃げ遅れた人々を蹴散らしながら猛然と広場に向かって走ってくる。
「なんだあれは!!」
アスラシオンが目を剥いて怒鳴った。
その声で我に返った水蝕の魔術師は手のひらの魔力を散らし、警戒の姿勢をとってフェインを庇うように立つ。
ブレスは笑んだ。
良かった、フェインにはちゃんと味方がいる。
目を閉じ、きつく捕まれている己の両腕に〈忌避〉を刻印した。左右の兵氏がもんどり打って弾き飛ばされ、驚愕の表情のアスラシオンの額にすっと触れて〈失神〉を刻印する。
白目を剥いて意識を失い、ぐらりと壇上から落ちる男を背に、ブレスは魔術師たちと向き合う。
「フェイン様、お下がりください!」
水蝕の魔術師が必死の声をあげて手のひらに魔力を集めるのを横目にとらえながら、ブレスはフェインの目を見つめ返した。
「フェインさん。私はあなたの味方です。でも今はまだ、行動を共にすべき時ではない」
「黙れ! フェイン様、耳を貸してはなりません!」
「レシャ、静かに」
制止された水蝕の魔術師は瞠目し、青い目を背後のフェインに向ける。
どうして、と呟いたその隙を付き、ブレスは彼の指先を撫でるように触れた。
息を飲む間もなく、水蝕の魔術師は倒れ込む。
「レシャ」
「大丈夫。気を失っているだけです。それから、ほんの少しだけ忘却を」
「そうか。それで、君の目的は何だ? 刻印の魔術師」
「あなたに、ウォルグランドの玉座を取り戻させることです」
「──……」
水色の目がかすかに見開かれ、次いで強い光を宿した。
気を抜けば気圧されてしまいそうな王者の目だ。
ブレスはその双眸を見つめ返す。
ここで引いては、フェインはブレスを絶対に信用しない。
背後の騒ぎを遠くに聞きながら睨み合うこと十数秒、やがてフェインはその目元に微苦笑を浮かべた。
「……いいだろう。話の続きをしよう。今はまだ、と言ったね」
「こちらには計画があります。それが済み次第、共に海を渡って帝国へ向かいましょう」
「帝国には民がいる。私が帝国を裏切れば民に害が及ぶ」
「それはどうかな。エトルリアから帝国の駒がひとつも戻らなければ、あちらの皇帝はあなたの裏切りなど知りようがない」
「なるほど、たしかに無策ではなさそうだ。それで私は、どうすればいい」
「時が来るまで、もう暫しこの男を見張っていてください。表向きは逆らわず、これまで通りに」
今は詳しいことを話している時間がない。
兵の目は広場で暴れ狂う赤い熊に向いているが、フェインとブレスが言葉を交わしているのを見られれば余計な疑いを招く。
ブレスが背後を気にしながら早口に告げると、フェインはそれを察してブレスに指先を向けた。
「今から君を攻撃する。それを受け流し、私をレシャと同じように」
「ええ、わかりました」
フェインの指先に白い魔力が集まり、星のように圧縮されて輝く。
すさまじい力だ。白い星が熱風を呼び、黒ローブがばたばたと音をたててはためく。
(ええ、これを受け流せって?)
無茶を言ってくれる。
ひきつった笑いを浮かべながら、ブレスは己の全身に〈霧散〉を刻印した。
ありったけの魔力をこめてさらに〈強化〉を上書きし、フェインが放った白い星を真正面から受けとめる。
「──ッ!!」
吹き飛ばされた。白い光はブレスに打ち込まれるなり爆散した。
(しまった、〈霧散〉では散らすだけだ。ここは〈消失〉が正解だったか)
宙を吹き飛びながらそんなことを考えつつ、ブレスはフェインの放った魔力の残滓に己の魔力を乗せた。
フェインの魔力を糸のように伝い、ブレスの魔力がその指先に届く。
指先に浮き上がる〈失神〉の刻印。
遠目にそれを確認するのと同時に、赤い熊がブレスの襟首を加えて背中に放り投げる。
「うわっ!?」
危うく落ちかけた所を、青い顔で熊にしがみついていたシグリーがブレスの腕を掴んだ。
彼女の背中には黒猫のミシェリーが全力で爪を立てて張り付いている。
『捕まって!』
「はい、マリー様!」
赤い熊は最後の脅しとばかりに激しく咆哮し、その衝撃波で槍や剣を人間ごとすべて弾き飛ばす。
帝国人たちがなすすべもなく武装解除されたそのなかを突っ切って、赤い熊は転がる兵をはね飛ばしながら怒濤の如く走り去った。