86話 最悪の未来
あの男はフェインになにを命じた?
ブレスを殺せと、そう言ったのか。
男が地下を出、扉が音を立てて閉じた後も、ブレスはしばらく動けなかった。
自分の命が惜しくて衝撃を受けているのではない。
フェインは兄だ。ブレスはフェインを助けたいと思っている。
兄を玉座につけ、妹を幸せにして、兄弟姉妹で笑い合う未来を思い描いている。
それを、あの男は粉々に打ち砕こうとしているのだ。
「帝国軍と接触してはいけないと、言っただろうに」
気づけばフェインの拘束はゆるんでいた。ブレスはよろめき、壁際に後ずさる。
兄さん、と呼んでしまいたかった。
いやだ。あんな男の命令で、兄がこれ以上同族の命を絶つ罪を負うだなんて。
そんなことはあってはならないだろう。理不尽だ。非道だ。なぜ、兄ばかりが。
「……こ……この部屋に、監視は」
「印は私が描いたものだ。私にしか見えないし、聞こえない。その印も、もう必要が無くなったから消してしまおう。ほら」
天井の四隅に描かれていた印が青い炎を上げて燃え上がる。
ブレスは動揺を抑えつけようと呼吸を数えた。
「では、話したいことを話せる」
「ああ」
ごくり、と唾を飲む。
ブレスは薄暗い地下室で、兄と向かい合った。
フェインの目に敵意はない。ただ、どうしようもない諦念と苦しみが、混ざり合って瞳を陰らせているだけ。
疲れた顔に疲れた笑みを浮かべて、フェインは反対側の壁に凭れた。
彼にはブレスが、怯えているように映ったのだろうか。
「殺せと命は受けたが、今ではない。私は君に、なにもしない」
「いまは、ですよね。その時が来たら、あなたは」
「いいや。おそらく冬の君の怒りを買って、私の方が死ぬだろう」
カナンはフェインを攻撃するだろうか。
ブレスはかぶりを振って、最悪の結末を頭の中から追い出した。
「フェインさん。もう限界でしょう。これ以上、帝国の駒となる必要など、無いはずです。生き延びるために、生かすために従ってきたのでしょう?」
「君が、なにを知っているというのだ。神の子らに愛されしまれびと」
「私は……っ」
言うべきか。言わざるべきか。
今、それを口に出して、フェインに負担が掛からないか。
兄の命が、危険に晒されないか。
多くのことが気がかりで、言葉にならない。
「君は、以前とは変わったな。大人になった」
フェインは静かに、ブレスの緑色の目を見つめる。
「君をあの川辺の森で見かけた時から、ずっと訊かなければと思っていたことがある。それを今、訊いてもいいだろうか」
なにを訊こうというのだろう。
気持ちの整理がつかないまま、ブレスは頷く。
「では問う。君の名前は、××××か?」
「……?」
フェインが口にした名前は、聞き取れなかった。
音は聞こえている。
けれど、どうしてもその響きが頭のなかに入ってこない。
フェインは困惑するブレスを見、どう思ったのか、音を立てずにため息を吐いた。
「違うようだ」と呟いた彼の水色の目には、かすかな安堵と、寂しげな色が浮かんでいた。
フェインは踵を返し、地上に続く扉へ向かう。
「君の処刑は三日後。冬の君が君を取り戻しに現れるのを、祈ると良い」
立ち尽くすブレスを残し、フェインは行ってしまった。
(違う。そんなわけない。先生は兄さんを殺したりなんかしない。違う。違う)
薄暗い地下室で、膝を抱えて一日。ブレスは焦燥に駆られている。
うずくまったまま体を揺する。
そうでもしなければ己を保って居られないのだ。
頭のなかに、ある想像がこびり付いて消えてくれない。
フェインがブレスに剣を振り下ろすその刹那、カナンが飛んできてフェインの首を冷気の風で刎ね飛ばすのだ。
(いっそこのドアをぶち破ってフェインを連れて逃げるか。いや、だめだ、シグリーはどうする。外に何人いるかもわからない)
魔術師は接近戦には弱い。集団で囲うように相手を追いつめることはあるが、多数の敵に囲まれた場合、魔術師ひとりでは勝負にもならない。
風の力を借りれば飛んで逃げることは出来るけれど、それでもシグリーは運べないし、フェインが同意してくれるとは思えない。
ただ待つことしか出来ないのか。
カナンが助けに来てくれるその日を?
役立たずだ。ひとりでは何も出来はしない。
言霊を訓練し、刻印を学び、呪いを解いてもらい、少しは成長したと思っていた。
実際、多少はマシになっただろう。それでも足りない。
大勢の敵を相手にやり合うだけの力がブレスにはない。
ひとりじゃないから厳しい旅でも大丈夫だと思っていた。
だが、どうだ。
こうしてひとりになってしまえば、仲間から引き離されてしまえば、ブレスは無力だ。
(……ミッチェ)
せめてミシェリーの声が聞ければ。
(ミッチェ、ミッチェ……ミッチェ!!)
「──やっと呼んでくれたのね」
懐かしい声。ブレスははっと顔を上げる。
目の前に、豊かな黒髪を額でわけた金色の目の少女が、淡い光を纏って佇んでいた。
「ミッチェ……? どうして……」
これは夢か、それとも幻覚でも見ているのだろうか。
ブレスは茫然と目の前の少女を見つめる。
ミシェリーはいつも通りのつんつんした顔で歩み寄り、ブレスの頬に触れた。
温もりがある。
「ひどい顔ね」
「……だって」
「泣いてもいいのよ」
「な、泣いてなんかない!」
むきになって、前のめりになるブレスの頬に、ミシェリーはもう一方の手のひらも当てる。
両手で頬を包み込み、彼女はブレスの目をのぞき込む。
こつんと額が触れた。
「ひとりで、こんな場所で。いままでずっと、よく頑張ったわね」
「……ミ、……ッ」
のどがひきつり、顔が歪んだ。涙が堰を切ったように溢れてくる。
ブレスは少女を抱きしめ、薄い肩に顔を押し当て、声を殺して泣いた。
泣き虫の子供を宥めるようなやさしい手のひらを背と頭に感じる。
己のなかの抑圧がすっと軽くなって、荒れ狂っていた感情が涙とともに流れ出て、心が静まっていく。
「……ミシェリーはやっぱり天使だ」
「なに言ってるのよ」
泣き顔を拭いながらブレスが笑うと、ミシェリーはあきれ顔で微笑した。
気持ちが落ち着いたところで、ブレスは改めて少女を見つめる。
薄暗い地下でふわりと光っているミシェリー。
妖精は暗闇で光るのか?
けれど、こんなミシェリーを見たのは今日が初めてである。
「ミッチェ、君……〈封じの鳥かご〉に閉じこめられて、眠っているって聞いたけど……」
「忘れたの。わたしは妖精、お前は宿主。わたしの核はお前の魂と絡み合っている。
宿主が強く強く念じれば、妖精は魂の繋がりを通じて宿主のなかの核を具現化できる。
要するに、どこにいようと、何に封じられていようと、お前が呼べばわたしはお前の前に現れることができるの」
「初耳だよ……!」
魔物や魔獣など、夜の生き物にはそんな能力はなかったはずだ。
ブレスがミシェリーを使役に下しているのではなく、ミシェリーがブレスを宿主に選んだ。
その違いの意味するところを、ようやくブレスは実感する。
「でも形だけよ。わたしの体は取り戻してもらわなきゃ困るわ」
「そっか。体がないから、魂がむきだしだから、発光しているんだ」
「ええ、そう……変かしら?」
「ううん。救われた」
ミシェリーはちょっと困ったように微笑み、ブレスの隣に座る。
「話はずっと聞いていたわ。お前の兄は苦境に立たされているようね」
なんてことだ。なにもかも筒抜けだったのか。
だが、そうであるのならば話は早い。
「……ああ。ミッチェ、外の状況はわかるか?」
「少しは。訓練された兵士が五十程度。指揮官らしい男がひとり。お前の兄を含めて魔術師は三人くらい。レーテという言葉が聞こえた」
「レーテ……たしかエトルリアの領土のひとつだ。ここはレーテ領のどこかなのかも」
「男が五十人以上集っているのだから、きっと村なり町なりを占拠しているはずよ。この事態が露見しないはずないわ」
「だとしたら王都はこの状況を無視できないはずだ。帝国が各地で問題を起こしている理由はなんだ? ああ、もう。頭がこんがらがる」
「……それかもね。王都を混乱させること自体が、目的ということはない?」
「──そうか。そもそも奴らは、帝国の旗をあげてエトルリアの要人と接触しているわけじゃないんだ。
素性を隠して、一見うまそうな話を持ちかけて、王都と接触できる人物を操ってエトルリアを混乱に陥れる。
待てよ、こんな状況で先生が──冬のカナリアがエトルリアに現れたら」
「王都にとってはまるで、どこかの、姿の見えない国の味方についたカナリアが、自国を攻め滅ぼしに来たように見えるでしょうね」
血の気が引いた。
フェインはカナンが来てくれることを祈れと言っていたが、いま一番動いてはいけない人物こそカナンだ。
いまカナンがエトルリア王国内に公然と姿を現せば、エトルリアは恐慌に陥ってカナンを攻撃してしまうかもしれない。
各領地には、あやしげな甘言に惑わされやましさを抱えた人間が幾人もいる。
彼らは王都の動向を、目を皿のようにして観察しているはず。
そんな張りつめた緊張のなかで、攻撃魔術や砲弾が放たれれば、どうなるか。
王都の攻撃対象が自領である、と錯覚しないだろうか。
「……内乱だ。帝国は、内乱を起こしてエトルリアを内部崩壊させようとしているんだ」
ブレスは己の頭のなかが恐ろしいほど冷え切っていくのを感じながら、愕然と唇を震わせた。
「王都に引き金を引かせ、恐慌を起こすきっかけとなれば、先生は悪役に仕立て上げられる。帝国の目的は、先生を糾弾する名分を得ることだったんだ。
帝国が呼び掛ければ、西大陸の国々は兵を出さざるを得ない。このままじゃ先生の身を巡って、世界戦争が起こりかねない。そして戦争に勝てば、帝国は合法的に冬のカナリアを手に入れる事ができる」
“帝国が冬のカナリアの敵に回る”。
フェインがカナンへ届けたあの書簡の文面の意味がいま、明らかになった。




