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85話 二重誘拐

 

「これはどういうことだ! 説明をしろ!!」


 部屋に入るなりその男は怒鳴り声をあげた。

 ダークブロンドの髪を整髪料で撫でつけた、身なりの良い大柄な男だ。


 十年前は軍人のように引き締まっていた肉体も、この数年でずいぶん腹のあたりが肥えた。


 見目で好感度の変わる取引商売だから、極端に体型が崩れるようなことはなかったが、それでも変わったな、と思う。


(私が痩せたぶんだけ、主人に肉が移動しているのではなかろうか)


 大声をそよ風のように聞き流しながら、ネモは詮方ないことを考えた。


「大体、貴様は何のつもりだ! この私を前に腰も上げぬ非礼者が!」

「ご主人様、ネモ様はご病気でいらっしゃいます。どうかご容赦を、ひっ!」

「だれが口を開くことを許した!」


 たまらずにすがりついて声を上げた使用人が、頬を打たれて床に倒れる。

 ネモは瞼をおろし、気取られぬようにかすかに息を吐いた。


「申し訳ありません、閣下。不摂生が祟りまして、起きあがることもままならぬのです」


 瞑目したまま頭を下げると、アナクサゴラスは忌々しげに寝台で羽枕にもたれ掛かるネモを睥睨した。


「役立たずめ」

「はい」


 罵りたければいくらでも罵ればいい。


 アナクサゴラスは顔を背けると、どさっと長椅子に腰を下ろした。

 そのまま顎をあげ、「盤を持ってこい」と使用人に命じる。


「残りはみな下がれ」

「し、しかし」

「二度も言わせるな!」


 使用人たちの目がちらちらとネモに向けられる。アナクサゴラスは不機嫌に怒鳴るだけで目下の者には目を向けない。


 ネモはかすかに笑んでみせ、ほんのわずかに顎を引いて頷く。使用人たちは不安げな顔で部屋から出て行った。


 扉が閉まる。


「聞き耳を立てている者はおらんな」

「はい。おりません」

「状況を説明しろ」


 先ほどとは打って変わって、低く押さえた声。

 淡々と命じるアナクサゴラスに、ネモは深く息を吸った。


「五日も眠っていたらしいので予測の域を出ませんが、それでもよろしければ」

「聞かせろ」

「はい。では──」


 ネモの静かな答えを無言で聞きながら、アナクサゴラスは不快気に目を光らせる。




 一方、その頃。


 王都へ向かう途中にシグリーもろとも拐かされたブレスは、エトルリアの辺境にいた。


 古い屋敷の地下室で縄でぐるぐるまきにされ転がっていると、なんとも微妙な気分になる。


 背中には同じく縛りあげられたシグリーがいる。彼女は襲われた際に果敢にもブレスを守ろうと戦い、手傷を負って敗北した。


 自分が怪我をしているというのに、シグリーは毎時間ごとに「ネモ様はご無事だろうか」「もしあのまま目が覚めなかったら」と繰り返している。


 帝国とカナンが敵対する構図を作りたいブレスは、襲われた際にほとんど抵抗すらしなかったため非常に心苦しい思いをしていた。自業自得である。


 しかし、まさか王都へ向かう途中で襲われようとは思わなかった。

 帝国は一体なにがしたいのだろうか。


「シグリーさん、ネモ様はきっと大丈夫ですよ。あちらには先生もいるのだし」

「君の先生がネモ様を庇う理由がない。それに、目覚めぬうちに襲われれば抵抗のしようもないではありませんか」


 ブレスはカナンを信頼しているが、シグリーはそうではない。

 信じるに値する理由がないのだから、無理もないが。


「シグリーさんにとって、ネモ様はとても大切なかたなんですね」


 ふとこぼれた言葉だった。特に含みがあるわけでもない、何気ない感想だ。

 しかしシグリーはその言葉を聞き、息を飲んで口を閉ざした。


 立ち入ったことを言ってしまっただろうか。


「ええと、すみません。余計なことを」

「いいえ。実際、その通りですから」


 背後のシグリーの声が変わった。

 先ほどまでの、焦燥に駆られた落ち着きのなさはなりを潜め、己を取り戻したかのように静まる。


「そうですね、君の言うとおり冷静にならなければ。有事の際に冷静を欠けば、大切なものを守ることも出来ません」


 彼女はそれっきり口を閉ざした。

 凛々しい女騎士シグリーに戻ったのだ。


(有事の際にこそ冷静に、か)


 自分の代わりに騒いでくれる人がいるとかえって冷静になれるものだが、シグリーが黙ってしまったのでブレスのなかには不安が首をもたげ始めている。


 王都へ向かう際に帝国人に襲われたのはブレスとシグリー、そして猫妖精ミシェリー。


 地下室に閉じこめられた時に引き離されて以来、彼女とは連絡が付かない。


 閉じこめられ、飲み水さえ絶たれて二日後。

 二日、といっても窓がないので体感である。


 魔術師であるブレスは体内の消費エネルギーを極限まで押さえることができるため、常人よりは体力の消耗も少ない。


 しかしシグリーはそうもいかない。


 彼女の渇きは深刻だ。人間は水さえあれば二週間から三週間程度は生きられる。

 しかし、水を一滴も飲まずにいれば五日も保たない。


 夏は過ぎ、季節は秋に向かっているとはいえ、まだ汗ばむこの季節に監禁されては──。


「シグリーさん。大丈夫ですか。しっかりしてください」

「……ああ……大丈夫だ、君こそ……」


 ブレスは内心舌打ちする。彼女は限界だ。


 言霊を使えば水を呼ぶことも出来るが、シグリーの口に運ぶには縄を解かねばならないし、縄に〈腐食〉を刻印して断ち切ればその痕跡を隠し通すことは出来ない。


(その場で殺さずにわざわさらっておきながら、閉じこめっぱなしということはないはずだ。それともまさか、不要になったのか……?)


 思考が悪い方へ、悪いへと傾いていく。


(待て。捨てられたんなら縄を切って水を呼んで、ここから逃げ出すことだって出来る)


 問題は、どちらか、だ。用無しなのか、否か。

 シグリーが譫言のように、ネモ様、と呟く。


「……迷っている場合じゃないな」


 ブレスは自嘲した。

 シグリーを巻き込んでおきながら、彼女の限界を知りながら、それを無視して打算なんて。


 目を閉じ、意識を集中し、ブレスは縄に魔力を流し込む。

 手首の周りで魔力が蠢き、縄全体に〈腐食〉の刻印が浮かび上がった。


 黒ずみ、もろくなった縄を引きちぎり、ブレスは地下室を探して器になりそうなものを拾った。

 言霊で水を呼び、器を清め、さらに水を呼んでシグリーの口元に運ぶ。


「……君、なぜ……縄は」


「すみません。ほどこうと思えばほどけたんですけど、相手の出方がわからなかったので動きませんでした」


「そうか……私の縄も、ほどいてください」


「いえ、シグリーさんはそのままでいてください。おとなしくしていれば、もしかしたら解放してもらえるかも」


 水を嚥下するシグリーの喉を見つめながら、ブレスはふと眉を寄せる。


 王都へカナンを動かす為に、帝国はアナクサゴラスを唆し、ブレスを誘拐するようにネモに命じさせた。


 しかし、シグリーがブレスを誘拐する風を装って馬で王都に向かうところを帝国人は襲い、シグリーもろともブレスを拐かし、閉じこめている。


 アナクサゴラスは恐らく、はめられたのだ。

 いったい何のために? なにが目的なのだろうか。


(届くはずの人質が届かなかったとしたら、どうなる?)


 王とスティクス候アナクサゴラスは不仲だと、ネモは言っていた。

 今回のことでアナクサゴラスはますます王の信用を失っただろう。


 国内に不和をもたらすことが目的だとすれば、なにが起こる? 


(考えろ、考えろ!)


 ブレスが眉間を寄せ、必死に答えを出そうと思考を巡らせていたその時、地下室と地上を隔てる扉が開いた。




 行動をおこしたとたんにドアが開いた。これを偶然と思うほど、ブレスはもう平和ぼけしてはいない。


 恐らく監視されていたのだろう。地下室のどこかに、〈目〉か〈耳〉が、もしくはその両方が刻印されていたに違いない。


 迂闊だった。

 聞かれて困ることを話しただろうか。


「妙な術を使う魔術師だ」


 逆光で知らない声が言う。面白がるような声音をしている。


 とにかく、今の時刻はわかった。外は明るい。

 浚われて三日目の朝、といったところか。


 そして、ドアから現れた人影はふたつ。


「いまの術はなんだ? おい、わかるか? 潮騒(しおさい)の魔術師よ」

「……申し訳ございません。なにぶん、遠目だったものですから」

「そうか。まあ良い」


 ブレスは人知れず息を飲んだ。逆光に目が慣れ、現れた人物の容貌が明らかになる。


 ひとつは知らない顔をした軍人。

 もうひとつは、赤毛をのばした疲れた顔の魔術師。


 兄、フェインだった。

 目が合うなりフェインはすっと顔を背ける。


 シグリーを観察しているふりをしているが、彼の目には落胆のほか、なにも映ってはいない。


 兄が生きていることを喜ぶべきだろうか。

 それとも、これからこの帝国人がどう動くかを、危惧するべきだろうか。


 どう考えても今は後者だ。


「なにを考えている? 小僧」


 帝国人の男が、三歩、そばに寄る。

 フェインが「閣下、危険です」と背後から警告をするが、男は聞き流した。


「逃げだそうと? それとも戦うか? よもや、恐ろしくて動けぬのではあるまいな」

「……そうかもしれませんね」


 挑発に乗るつもりはない。

 ブレスはシグリーを背に庇いながら、平静を装う。


「引き離された使役のことを考えていました。か弱い妖精ですから」

「あの忌々しい猫か。妙な守りがかかっておったせいで手間取ったわ。〈封じの鳥かご〉のなかで眠っておる。そうであろう、潮騒の魔術師」

「ええ……」


 ミシェリーはひとまず無事。送ったお守りが、きちんと仕事をしてくれたようだ。

 相手を刺激しないように床に座り込んだまま、ブレスは努めて静かに問う。


「目的はなんです? 王都の目と鼻の先から、我々を拉致した目的は」

「ほう。小僧、貴様。ずいぶんと余裕だな」

「まさか。とんでもない」

「いいや? 無力な子羊であるならば、このような状況において命乞いをせずにはおれまいよ」


 なるほど、たしかに。むやみに平静を装うものでもないな、とブレスは小さく嘆息する。

 判断を間違えたようだ。


 場数を踏んでいるエチカならばどう動くだろう。

 想像を巡らせつつ、答える。


「命乞いをして助けてもらえるのならば、いくらでもします。シグルリーヴァ様を解放してください。

 この方は、スティクス候付きネモの側近です。彼女が死ぬと厄介ですよ。王侯貴族の報復は、国境を跨いでも遂げられる。

 解放が難しければ、せめてもっとマシな部屋に閉じこめてください。私は魔術師ゆえ多少は頑丈ですが、シグルリーヴァ様は違います」


「ほう、言いよるわ。まあよかろう。今はまだ死なれては困る」


 今はまだ。その不穏な言葉に眉間がよる。

 まるで死に時が決まっているかのような台詞だ。


 男はシグリーを立たせ、たわらのように肩に担ぎあげる。彼女は抵抗をするが、脱水のために殆ど意味を成さなかった。


「心配するな。傷物にはせぬ」

「!」


 去り際に振り返った男の一言に、はらわたの煮えるような怒りを覚えた。

 とっさに立ち上がったブレスを、フェインが素早い動作で押さえ込む。


 動けない。関節を押さえられているのだ。

 耳元で、緊張に強ばった鋭い声が飛んだ。


「閣下! 危険だと申し上げたはず」

「ははは、小僧がようやく本性を見せおったわ!」


 愉快気に笑い、扉を開ける。


 男は扉を閉める間際、首をわずかに回してふたりを見た。

 笑みの名残さえも無い、冷え冷えとした酷薄な目をしていた。


「その小僧を殺すのは貴様の役目だ、潮騒の魔術師」

「……な……」


 なにを言っているんだ、この男は。


 茫然とするブレスの耳元で、フェインが奥歯を噛みしめる音が聞こえた。


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