84話 治癒と蘇生
一通りの話を聞き終えたカナンは、長いすに座りなんとも頭の痛そうな様子でこめかみに指を当てた。
足下にひざまずいているシグリーとネモは顔を上げない。この男はどれほど身体がつらくても、カナンが許すまで姿勢を崩しはしないだろう。
「エミスフィリオ」
「はい」
指先でちょいちょいと招かれ、ブレスはそばに寄る。
招いていたその指をカナンが床に向け、言われるがままにその片場に膝をついた。
直後、おもいっきり額を指で弾かれてしまった。
ぐあぁ、と声を上げ額をおさえて仰け反るブレスには目もくれず、カナンは嘆息してネモに声をかけた。
「ネモ殿、ひとまず横になってください。長い話になるでしょうから。皆も座るように」
遠巻きにことの流れを見ていたマリーとエチカに顔を向け、カナンはくつろぐための大部屋を見回した。
部屋の隅には使用人が控えている。
「ネモ殿、人払いを」
「は……仰せのままに」
シグリーに支えられて立ち上がり、青白いを通り越して蒼白な顔でどうにか長いすに腰を下ろしたネモは、使用人にむけて軽く手を振った。
心配そうに振り返りながらも彼らが部屋から出て行くと、ネモは「シグリーも下げましょうか」と掠れた声で訊ねる。
「いや。彼女には、君が動けないぶん動いてもらおう。彼女は君に、忠実なのだろう?」
「あー……はい。そうですね」
答えるまでに微かな躊躇いがあった。
ネモは、シグリーを今回の計画に巻き込みたくないのかもしれない。
カナンからお許しが出、ブレスもエチカの横に座る。
膝に乗ったミシェリーが、伸び上がってブレスの頬に猫パンチを食らわせた。
方々に怒られて散々である。
気分が悪そうに口元を押さえるネモの背に、羽毛の詰まったクッションを当てると、シグリーはネモの横たわる長いすの隣で直立した。
このひとはいついかなる時も騎士だ。
懐刀だとネモは言っていたけれど、それ以上の信頼がこのふたりの間にはあるように見える。
マリーがふとももが露わになるのにも構わずに脚を組み、つまらなそうに言った。
「ま、しょうがないんじゃない。こうなるかも知れないって、わかってたじゃん、カナン」
「敵対する可能性は考慮していた。しかしそれを逆手にとって、弟子を敵地へ送り込む羽目になるとは」
「まあ、そうね。たしかにそれは想定外だったけど」
まったくこの子は、とでも言いたげな視線が先生方から向けられる。
大変居心地の悪い思いをしつつも、ブレスはなけなしの反論を述べた。
「あの、敵地と決めつけるのは早計だと思います。スティクス候が俺を人質に取るのは、先生を王都へ動かしたいからでしょう? 王都の人たちが敵に回るとは限らないのでは?」
「君はネモ殿の話を聞いていなかったのですか」
カナンが無表情な笑みを張り付けてブレスを睨んだ。器用だ。
隣に座っていたエチカがブレスを尻目に、小さく挙手して話し出す。
「何者かがアナクサゴラスに、先生の正体と居場所を吹き込んだ。要するに、帝──あの連中がここまでの道中で襲ってこなかったのは、この国で根回ししてたからよ。
連中はスティクス候アナクサゴラスを丸め込んでる。王都の貴族とやりとりをしていてもおかしくはないわ」
「いや、おかしいだろ。だって連中は先生が欲しいはずだ。それなのに他国にわざわざ誘導するだなんて、どういうつもりで?」
「あー……よろしいでしょうか」
ぐったりと長いすに身を横たえ、ネモが口を開いた。
ブレスとエチカは押し黙る。
「その連中、とやらがどこの帝国の者かは存じませんが、翼の君を手中に収めることが目的ならば、自国の領土で戦を仕掛けるなどという愚かな真似はしないと思います」
ネモの言い回しにマリーが吹き出した。
言葉をぼかしたエチカの配慮が水の泡だ。
「私がもし、かの皇帝であるとしたら……まず自国に被害の及ばない近隣の他国と翼の君をぶつけます。
その上で二方が消耗したところを狙い、侵略するでしょうなぁ。
あの国は強欲ですから……エトルリアの国土と翼の君、両方を手中に出来るのなら、その機会を逃しはしないかと、──うっ……」
口を押さえたネモが、長いすから落ちてうずくまる。カナンが険しい顔で立ち上がり、ネモの横に素早く膝をついた。
尋常ではない様子にブレスも立ち上がった。動揺して動けないシグリーの代わりに、テーブルの上の大きな深皿を取って駆け戻る。
差し出すなり、ネモは鮮血を大量に吐いた。
そのまま横倒れになったネモの腹にカナンが手を当て、顔をしかめてそのまま指をずぶりと差し込んだ。
解呪のときにブレスもやられたアレである。
シグリーが悲鳴を上げ、「おのれ!」と抜刀しかけたところを、マリーが後ろから殴って黙らせる。
エチカは布と水差しを持って戻り、ドアに〈封〉の印を描く。
使用人たちはシグリーの悲鳴を聞いてドアの向こうで騒いでいるが、いまは彼らに事情を説明をしている場合ではない。
「出血性ショックを起こしている。ひとまず血は止めたが」
「まずいな。とりあえず足あげてみたら。心臓と頭に血が回れば少しは落ち着くだろう。顔は横向きにしてやって」
「ああ」
カナンとマリーが手早くネモの体位を変えて、ブレスはエチカが持ってきた布をネモの口元に敷きつめた。
布は口から溢れる血に染まってじわじわと色を変えていく。
蒼白な顔に冷や汗をびっしりと浮かべるネモは、意識が無く呼吸も弱い。
このまま死んでしまうのではないか、と恐怖にかられるブレスとエチカの前で、カナンが少しの逡巡のあと、己の袖をまくり上げて手首に刃物を当てた。
「カナン!」
マリーがぎょっとして目を見開く。カナンは迷いを振り払うように目を瞑り、しかたがない、と呟いた。
「僕はエッタのようには治せない。いまはこうするほか、彼を助ける方法はないだろう」
「それは……そうだけど、でもお前……っ」
いつになくせっぱ詰まった悲壮な顔のマリーを見ていられずに、ブレスは強い口調で割り込んだ。
「先生。〈蘇生〉と〈治癒〉をネモ様の身体に刻印して時間を稼ぎますから、先生はその間にあの薬を作ってください」
ブレスの傷の治りを早め、エチカの魂の欠損まで修復した薬だ。
ネモの病は身体のものだから、効かないはずがない。
「それでなんとかなりますよね?」
「……ああ、そうだね。わかった」
刻印を学んできて本当に良かった。ブレスはネモの衣のボタンを外し、胃のあたりに手を当てる。
胃が悪いのだから、〈治癒〉は胃に刻印しておけば間違いあるまい。
目を閉じ、魔力を流し込むと、ネモの身体のなかでブレスの魔力がうごめくのがわかった。
様子を観察していたマリーが目を見張る。
「マリー様、万が一の為に〈蘇生〉を刻印します。どこに刻印するのが効果的ですか」
「あ、ええと、そうだな。胸と、それから頭……いや、脳と心臓だ。中身に刻印出来るんだったら、肌に刻むより脳と心臓に直に刻印したほうがいい」
「わかりました」
「本当に大丈夫なの? もし、失敗したら」
淡々と答えるブレスに、エチカが心配そうに声をかける。
ブレスは目を閉じたまま、「大丈夫だよ」と答える。
「もう自分の力の使い方は、わかるようになったから」
⌘
ずいぶんと長い間、眠っていたような気がする。
ネモはぼんやりと目を開け、そこが自室の寝台の上であることに気づいた。
記憶が曖昧だ。
そう、たしか、赤毛の青年に誘拐の話を持ちかけて、神の子らと話をしていたはずだが……。
(どうせまた、貧血でも起こして倒れたのだろう)
いつものことだ。ネモにとっては慣れきった、些事である。
ここのところ頻度が増えて、執務に差し支えてはいるが。
目が覚めたからには仕事をせねばなるまい。
ネモはシグリーを呼ぼうと口を開いた。
どうしたことか声がうまく出てこなかった。
「……、ぁ、あ゛、あー……。……?」
咳払いを幾度かくりかえしてようやく喉が通るが、頼りなく掠れてまともに話が出来るかどうかすら微妙だった。
このあたりで、ネモは異変に気づいた。
(もしや、ただの貧血ではなかったのでは?)
寝起きでぼんやりしていた頭がようやく動き出した。
自分はなにかとんでもない失態を、醜態を、翼の君にさらしてしまったのではなかろうか。
そう思えばいてもたっても居られなくなり、ネモはやけに重い腕をあげて寝台横のベルを取った。
音を聞いてやってきた使用人たちが、ネモを見て泣き出しそうな顔で寝台の横に膝をつく。
「お目覚めになられて本当に良かった……!」
「えー……状況の説明をし、っ……」
「ネモ様!」
「……大丈夫。喉が痛いだけです」
口の中で妙な味がする。苦みやえぐみとも似た、それでいて形容しがたいにおいの。
毒でも盛られたのだろうか。しかし、誰に?
その妙な味のおかげでいつもの胃酸の味は感じないが、喉がだめになりかけている気がする。
使用人が運んできた水を飲もうにも身体が重く、上体すら起こせない有様だった。
介助されてようやく寝台の背もたれにクッションをあてて身体を起こし、グラスの水を口に運ぶ。
塩がまじっていた。
ネモは首を傾げる。
「……お前たち。私が倒れた後になにがあったのか、順を追って説明してください」
使用人たちは心配そうに顔を見合わせ、やがて年かさの執事が「落ち着いてお聞きくださいませ」と前置きをして口を開いた。
「ネモ様はあの晩、大量に吐血なさり意識を失いました。一時は大変危険な状態でしたが、お客様がたが延命の術に詳しかったため一命を取り留め、本日まで昏睡しておられたのです」
執事の話によれば、なんと五日も眠っていたらしい。しばし唖然とするネモであったが、執事の話は序の口だった。
「ネモ様が眠っておられる間に、お客様がたによって話し合いが行われ、シグルリーヴァ様は赤毛の青年を伴って王都へ向かいました。ですが」
執事の口が重くなる。三白眼をじろりと向け、ネモは先を促すが、執事は口ごもるばかりだ。
ネモはため息を吐く。
「口止めでもされているのですか」
「い……いいえ。しかし、ネモ様のお体が心配なのです。はたして話をしてよいのやら」
「ああ、聞けば無茶をしかねないほど状況が悪いということですか」
ふう、と息を逃がし、ネモは手のひらのなかのグラスを見下ろした。
体もろくに起こせず、腕をあげているのも億劫だというのに、無茶のしようもない。
「どうせ、私は動けません。話しなさい」
「は……では、申し上げます」
執事は目を伏せ、白手袋をした手を堅く握りしめて告げた。
「王都に向かわれたお二人が、何者かによって襲撃され、行方知れずとなっております。国王陛下はアナクサゴラス様に責任を問い、アナクサゴラス様はお怒りのご様子で昨晩、この屋敷にお戻りになられました」
「…………なるほど」
「スティクス領のみならず、各地で問題が頻発しているそうです。いったいエトルリアで何が起こっているのでしょう」
なんとも気の重くなるような話だ。
ネモは深々と嘆息し、寝台に身を沈め、神よ、と呟く。
祈りの間に閉じこもって頭を整理したいところだが、いまは現実と向き合うほうが先だろう。
「着替えと水桶と布を用意してください。動けぬとはいえ、主人と夜着のまま話しをするわけにはいきませんからね」
使用人たちに体を清められ、もつれた髪を櫛けずられ、どうにか着替えを終えてましな姿に戻ると、ネモは自室にアナクサゴラスを招き入れた。