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83話 ネモの祈り

 

 カナンのお説教が済むと、ブレスはその日いちにちかけて集めた情報を報告した。


 門番たちは何も知らなかったが、痕跡を鑑みるにすでにスティクス領へ進入している可能性が高いということ。


「魔術師がいるだろうから、門番の記憶や認知を歪められるだろうってエチカと話していたんです」

「ふむ」


 カナンは思案気に顎を撫でる。報告内容に、なにか引っかかることでもあったのだろうか。


「とにかく、敵は身近に潜んでいると考えて置こう。この屋敷に居ればネモ殿に迷惑がかかるね。速やかに出立する予定であることは、僕から彼に話しておきます」

「はい、お願いします」


 あこがれのカナンと直にやりとりをして、会話の中身が彼の頭できちんと処理されるかは微妙なところだ。


 けれど、スティクス候の次にこの屋敷で高貴なひとを相手に、ブレスたち下っ端が気軽に話しかけるわけにもいかない。


「そういえばネモ様の身体は、その、大丈夫だったんですか?」

「ひとまず小康状態といったところですね。他言するのではないよ」


 カナンの静かな表情に、エチカの予想が当たっていたことを悟った。

 スティクス候はこの現状を知っているのだろうか。


 客間に戻ると、不機嫌な黒猫ミシェリーが机に座って待っていた。


 彼女の尻尾はびたんびたんと机を打ち、上目遣いにブレスを睨む金色の目は針のよう。

 耳も外向きに伏せられて、口元からは牙まで覗いている。


「えーと、ミッチェ?」

『よくも置いていってくれたわね』


 すさまじく怒っているということだけは解った。

 ここまで怒っているミシェリーはなかなかお目にかかれない。


「だって、あまりにも気持ちよさそうに寝てたから」

『守護妖精を置いて出かけたんじゃ、わたしがお前に宿っている意味がないわ。わたしは愛玩動物じゃないのよ』

「それは、そうだけど」


 できればミシェリーには、危険なめにあってほしくない。


 そう考えてしまったことが思念で伝わってしまったのか、ミシェリーはうなだれてため息をついた。

 怒っているし、呆れているし、困っている。


「もう二度とわたしを置いて行ったりしないで。ずっと一緒にいるって、約束したんだから」

「うん。わかったよ。ごめん、不安にさせて」


 フスンと鼻息を吐いて、ミシェリーは目をそらした。

 まだ苛立ちがくすぶっているけれど、喧嘩はお終いだ。


 ミシェリーと仲直りをして、ブレスは浴場へ足を向ける。あの天国のような空間とももうじきお別れかと思うと、なんとも無念である。


 今日くらいは長湯でもしようかと考えながら長い廊下を歩いていると、前方にネモを見つけた。


 彼はシグリーを伴い、相変わらず青白い顔で不健康そうに歩いていたが、ブレスに顔を向けて立ち止まる。


「あー……これはどうも」

「ネモ様」


 大丈夫なのだろうか。ベッドに横になっていたほうがいいのではないか。


 そんな思いに駆られてシグリーに視線を向けると、ネモは青ずんだ目元に疲れた笑みを浮かべた。


「どうやら、シグリーが余計なことを言ったようですね」

「申し訳ありません」


 責める口調ではなかったが、シグリーは目を伏せて謝罪をする。

 痛ましげな顔を見る限り、本当は彼女だってネモを部屋から出したくはないのだろう。


 ネモは仕方なさそうに笑って流し、ブレスに向けて肩を竦める。


「本当は湯を使いたいところなのですが、癒者に止められておりまして。少々早いですが、就寝前に祈りの間で神々に祈りを捧げようかと。あなたもどうです、一緒に」

「祈り、ですか」

「ええぇ。私の数少ない、自由な時間──というより、習慣なのです」


 その貴重な時間にブレスがお邪魔していいのだろうか。

 誘ってくれたのだから、いいのだろうか。


 ブレスは頷き、ネモについて歩く。


 もしまたこの男が倒れても、今度はシグリーが一緒だ。

 ふたりきりになるわけではない。


 祈りの間は屋敷の最上階にあった。

 階段を登るネモの足取りは不自然に軽い。


 本当は歩くのも大変なのだろう。

 ネモは風の力を纏って身体を動かしているのだ。


 階段を登り終えたネモは、壁に手をついて息を整えた。その間に、シグリーが重厚な造りの扉を開ける。


 祈りの間には、ほとんど物がなかった。

 それでも殺風景な印象を受けないのは、壁にはめ込まれたステンドグラスが、夜にも関わらず暖かな光を放ち、柔らかく輝いているせいだろうか。


 正面には雪花石膏の像。

 山羊角をはやした髪の長い男が、竜を背に、狐と虎と鹿と鳥を左右に侍らせてこちらを見下ろしている。


 サタナキアの御像だ。

 その像の美しさと威厳に、ブレスは立ち尽くした。


 ネモは像の前にゆっくりと歩み、片膝を立ててひざまずく。

 頭を垂れ、指を組み合わせるネモの後ろで、シグリーも同じように膝をついた。


 言葉はない。

 ブレスは神々に祈りを捧げる作法など知らない。


 それでも彼らと同じようにその場でひざまずき、ブレスはサタナキアとその子らに祈りを捧げた。


 どれほどそうしていたのか。


 気づけば前にはネモが立っていて、やせた手を差し伸べていた。

 さすがにその手を取るわけにもいかない。ブレスは苦笑して立ち上がる。


 祈りの間を出ると、ネモは大きく息を吐いて、壁に凭れるなり力つきたように座り込んだ。


 ブレスは驚いたが、シグリーは沈黙を守っている。祈りの後にこの男がこうなるのは、毎度の事なのかも知れない。


「ネモ様。大丈夫ですか」

「大丈夫に見えます?」

「ですよね」

「……ふふ」


 なにが面白かったのか、ネモは微かに肩をふるわせて笑った。

 彼は座り込み、脱力したまま、おもむろに話を始める。


「私ね、胃が悪いのですよ」

「胃ですか」

「そう。ものを食べると吐いてしまう。どうも出血しているらしい。おかげでいつも貧血なのです」


 それでこの男は、こんなに顔色が悪いのか。


「痛みは〈無痛〉の印や薬で何とでもなりますが、臓器の出血は厄介でね。抑えることができない。

 本当はもう引退でもして、田舎に引っ込んで静かに暮らしたいのですが、なにせ私はネモでしょう? 

 真名を主人に握られている以上、主人が働けというのならば働かざるを得ない」


「真名を?」


「おや、知りませんでしたか。ネモは皆、主人に名前を縛られるのですよ。契約によって名を奪われ、ネモの名を主人からさずかるのです。ちょうど、魔術師が魔物を使役と下すように」


 知らなかった。魔物は魔術師と契約することによって個を得るが、ネモはネモとなることによって個を失うのだ。


「ネモ様は──あなたは、恐ろしくはなかったのですか。そのような契約を、結ぶなんて」

「あー……若気の過ち、というものです。私は、出来がよかったので」


 有能であったがために気位も高く、ネモとなって高位の貴族と並ぶ地位に立つことを、当然のことだと受け入れてしまった。


「あの時に少しでも分別があれば、と今では思いますがね」


 ふふ、と再びネモは笑う。今度は自嘲気に。


「それで、ここからが本題なのですが──あなた、誘拐されてくれませんか?」

「……は?」


 何を言われたのか理解が出来なかった。


「誘拐、ですか」


 ブレスは言葉を飲み込むためにゆっくりと繰り返しながら、一歩、ネモから距離をとる。

 シグリーが驚愕の表情を浮かべているのを見る限り、どうやら冗談ではなさそうだ。


「それはまた、なぜ。誰からの指示で?」

「おや、思いの外真剣に受け止めてくださる。笑って流されるかと思いましたが」


 軽口で流そうとしているのはネモのほうだ。ブレスは眉を顰める。


「ネモ様。お答えを」

「あー……そうですねぇ。私の主人、アナクサゴラス様は、国王陛下に疎まれておいででして」


 富を得、足場を固めたスティクス候は、己の地位をさらに確固たるものにすべく、王との関係を修復しようと考えている。


「その主人から先ほど、遣いの者が送られてきましてね。そうやらこの屋敷に翼の君が滞在していることを、主人は何者かに吹き込まれたようです。国王にあの方を献上するのだと、それはそれは張り切っておられる」


「なるほど。では俺は、人質ということですか。先生を王都へ動かすための」


「ええぇ。まったくもって、その通り」


 座り込んでいるネモの顔は、長い髪に被われて見えない。しかし顔を見ずとも彼の心情はよくわかった。


 憤り、蔑み、自責、後悔、自嘲。

 そのすべてを詰め込んだような声を歪め、ネモは吐き捨てるように「愚かな私」と言った。


 ネモは悔いているのだ。アナクサゴラスに名を捧げた己を。

 その過去はもはや、取り返しが付かない。


 沈黙が流れる。


 ブレスはぼんやりと窓の夜空を見上げながら、考えていた。

 どうするのが正解なのか。正しいのか。


 客観的に考えれば、ネモの言葉を無視して明日にでも屋敷を出てしまうのが一番正しいことだとは思う。


 この男は憐れだけれど、他人だ。


 いざこざに巻き込まれているうちに、兄であるフェインや妹のエルシェマリアに何か起きれば、ブレスは後悔するだろう。


 だが、ここでネモを見捨てても、ブレスはきっと後悔する。

 どちらを選んでも後悔するのならば、とりあえず期限の近いほうに向き合ってみたい。


 どちらも助けられるのならば、それが一番いいに決まっている。


「いいですよ。誘拐されてあげます」


 シグリーが息を呑み、ネモがゆっくりと顔をあげてブレスを見上げた。


「ただし、俺は──いや。私は、あなたの主人の株をあげるために協力するのではありません。あなたの真名をスティクス候から取り戻すため、敵に近づく必要があるから誘拐されるんです。

 そのあたりのことをきちんと師に相談しなければいけないので、これから下に降りて皆で話し合いましょう。それが私からの条件です」


「……なるほど」


 しばしの沈黙のあと、ネモは短く呟いた。


 青混じりの灰色の目が、まっすぐにブレスを見上げていた。

 その目を正面から見つめ返し、ブレスは「やってみる価値はあると思います」と言った。


 ネモは微苦笑を浮かべ、やれやれ、と首を振る。


「そうですね。どのみちこのままでは、私の身体は保たないのだから……最後だと思って抗がってみるのも、一興かもしれません」


「そうですよ。スティクス候に、魔術師の本気をみせてやりましょう」


 ブレスの言葉に、ネモは苦笑を深めて頷いた。



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