81話 内情と晩餐
「──と、言うことがありました」
部屋に戻ったブレスは包み隠さずにカナンに報告をした。
入浴から疲れた顔で帰ってきたブレスを不思議に思っていたらしいカナンは、なんとも微妙な表情で「そうですか」と呟く。
「彼は苦労人ですね。有能であるのも楽ではない」
「そういえば、この時間になってもスティクス侯は帰って来ないんですね。屋敷の主人なのに」
「聞いたところによれば、スティクス侯は使われていない以前の王宮を改築して、そちらで過ごすことも多いそうです」
「……じゃあこの屋敷の運営も、ネモ様の仕事なんですか」
それはあんまりなのではないだろうか。
都市を見てまわり、ブレスは領土を繁栄させたスティクス侯は有能な人物だと思った。
しかしあのネモの様子やこの屋敷に仕える者たちの反応を見た後では、印象も変わる。
スティクス侯が有能であったのは、もはや過去の話なのかもしれない。
「では、僕も湯を使ってきます」
「……はい。お気をつけて。多分もうネモ様は、浴場にはいないとは思いますが」
「別に、彼がそれで満足するのならば、いくらでも見ればいいと思うけれどね」
苦笑を浮かべてカナンが出てゆく。
ブレスに言わせれば、カナンは危機感が足りないと思う。
バスローブの前をなおし、ブレスは開け放たれた窓から夜に染まり始めた空を見上げた。
「……ネモ様の屋敷に招かれたのも、春の君の画策なのかな……」
それとも単なる偶然なのか。
春の乙女プライラルムの画策に巻き込まれた者は、大抵いい思いをしない。
ネモがこれ以上苦労するのは、いくらなんでも気の毒だとブレスは思う。
「なんて、他人の心配をしている場合でもないか」
あの男にはあの男の人生があるし、ブレスにはブレスの旅がある。
ここは単なる通過点なのだ。
妙な哀れみをかけてそれを忘れてはいけない。
考え事をしているうちに、カナンが白い髪を下ろしたまま浴場から戻ってきた。
引きずるほど長い髪を使用人のひとりが捧げ持ち、もうひとりが着替えの入った籠を抱えている。
当然のように人を侍らせているカナンを見、ブレスが呆気に取られていると、着替えの籠を手渡しながら使用人の男が困り顔で耳打ちした。
「勝手をしまして申し訳ございません、ですがあまりにも無頓着に御髪を引きずって歩いておられるものですから」
「……うちの先生がご迷惑をお掛けしました」
「いいえ、とんでもありません。しかし、あのお姿、さぞ名高きお方なのでしょうね」
どうりでネモ様がはしゃいでおられるわけです、と言って去っていった使用人は微笑ましそうな顔をしていた。
ちなみにその名高きお方は今、褒められたばかりの白い髪を無造作にナイフでざくざくと切り捨てている。
「先生……」
「なんです。邪魔だろう。ああしていちいち、ついて回られては」
そっけないものだ。放り投げた髪はカナンの影の中に消えていく。
きっと使役たちの夕食になっているのだろう。先ほどからクルイークが悦んでいる鳴き声が聞こえる。
「せめて毛先を綺麗に揃えましょう……ネモ様が見たら嘆きますよ、それ」
「うん? 君は彼を警戒していたのではなかったのか」
「そうですけど、ショックのあまりまた倒れられたら面倒くさいじゃないですか」
あの人の心身に負担をかけるのはよろしくない気がする。
ふむ、と頷いたカナンは掴んでいた髪とナイフを手放し、ブレスに背中を向けた。
ブレスは道具箱からハサミと櫛を取り出し、白い髪をとかす。
毛をとかすのは慣れている。ミシェリーの綺麗な毛並みを整えるのはブレスの仕事だ。
魔術師の髪はいざという時に必要なものだから、ハサミを入れるのは最低限に留める。
くるぶしの上で長さを揃え、少しだけ毛先を透かし、軽くする。これでナイフでざく切りにされていた痕跡は消えた。
「夕食に招かれていますが、髪はおろしていきますよね?」
「ああ、そうだね」
普段は長髪を隠して旅をしているが、高貴な身分の相手の前や、公の席で魔術師が長髪を隠すのはマナー違反に当たる。
かといって下ろしっぱなしというのも味気ないので、輪郭の辺りから少しだけ髪をすくって三つ編みを左右に作り、後頭部で合わせて冠のように結んだ。
協会長のシルヴェストリが式典の際にこの髪型だったので、失礼には当たらないはずだ。
カナンがゆったりとした紫紺の衣を纏い、銀刺繍の帯を結ぶのを横目に、ブレスは自分の髪をひとつ結びにして用意された黒い衣服に着替える。
そうして支度を済ませたふたりは、タイミングを見計らったかのようにドアをノックした使用人に案内されて、晩餐の席についた。
絵画に描かれるような長大なテーブルが出てきたらどうしようかと思っていたが、通された部屋は招宴をするような大広間ではなく、私的な客人と食卓を共にする落ち着いた部屋だった。
席も比較的近い。カナンを間近で見つめていたいネモの心境がよく表れている。
マリーとエチカ、それから人型になったミシェリーは既に席についていた。
彼女たちは魔術師であることを理由に窮屈なドレスの拘束から逃げられたらしく、性別を問わずに着ることができる魔術師用のゆったりとした衣服を着て、守りの耳飾りや腕輪や髪飾りなどで着飾っていた。
足首まで丈のある衣をさばきつつ静かな足取りで現れたカナンを見、ネモはガタリと音を立てて立ち上がった。
目を見張り、口元を抑えて歓喜に震えている様子から察するに、お気に召したらしい。
「神が……神がおられる……」
そう呟いてふらりとよろめいたネモを、側仕えの男と女騎士シグリーがすかさず支ええる。
「ネモ様、お気を確かに」
「天の導きに身を委ねるには早すぎます!」
焦った様子の側仕えは的外れなことを言っている。
カナンはサタナキアの第四子なので、神がいるという彼の言葉はそのままの意味だ。
別に死を前にして幻覚を見ているわけではない。
カナンは苦笑し、優美な動作で使用人が引いた椅子に腰を下ろした。ブレスも続いて座る。
「ネモ殿。倒れられたと聞きましたが、身体は大丈夫なのですか」
「……翼の君が、私めを慮ってくださっている……?」
だめだ、会話にならない。呆れて目を逸らしたブレスは、正面に座る黒髪の天使にそっと囁いた。
「やっぱりミッチェは世界で一番綺麗だね」
「……お前は髪を下ろしていると、フェインとよく似ているわね」
「あら、ほんと。もう少し背が伸びたら、兄さんの影武者がやれるんじゃない?」
エチカの横槍を笑って誤魔化す。今日のエチカは青い石の耳飾りとつけていて、目の色とあってよく映えている。
「エチカも綺麗だよ。ウォルフが見たら惚れ直すと思う」
「見た目で好きになってもらっても、嬉しくないわよ。これだから男は」
「あたしのことは褒めてくれないの?」と口を尖らせるマリーは、深紅のドレスローブを纏い、まるで傾国の美姫のようだ。
「赤をマリー様以上に着こなせる女性はきっといませんね」
「ふふん、そうだろうとも」
機嫌をなおしたマリーが誇らしげに胸をはったところで、和やかに夕食は始まった。
「世界の創造主にして調停者たる父、ナーク神のお導きに、心より感謝と祈りを捧げます」
ネモはそう言って銀の杯を掲げた。一同もそれに倣い、杯を捧げ持つ。
カナンは杯を掲げたまま、ネモを見据えて答える。
「あなたの頭上に、父神サタナキアの祝福が降り注ぎますように」
「……ああ……ありがたき幸せ……」
うっとりと恍惚の表情を浮かべ、ネモはゆっくりと胸に手を当て一礼した。
幸福そうなネモの様子に、使用人たちが顔をほころばせる。
この男は本当に慕われているのだ。
ブレスは複雑な思いを噛みしめながら、切り分けられた羊にナイフを入れる。
もしも春女神の画策によってこの男が敵と回った時、自分は彼を攻撃できるのだろうか、と考えながら。
食事が済むと、一同はカナンとネモを残して退室した。
ネモは饒舌で皆に満遍なく話題をふったが、灰色の両目はしっかりとカナンに固定されていたあたり、ぶれがない。
彼の遠回しなおねだりに応え、カナンはもうしばらくネモと話をするそうだ。
彼はサタナキアの信徒だそうだから、カナンなりに甘やかしているのだろう。
「食器、ぜんぶ銀だったわね」
あてがわれた寝室へ向かう前に中庭を訪れた三人と一匹は、月光を浴びながら風に当たっている。
野宿の日々が続いていたので、立派な屋敷のなかにいるのが落ち着かないのだ。
「この領土の財政状況を考えたら、金製でもおかしくなかったと思うよ」
ブレスが冗談めかしてエチカの呟きに答えると、そうじゃないわよ、とエチカは言った。
「毒とか気にしないように、考えてくれてたって言いたいの」
「……うん。そうだよね。わかってる」
「あの男、あたしは結構好きだよ。カナンも気に入っているみたい」
壷ごと持ってきたぶどう酒を杯に注ぎながら、マリーが呟く。
「父上に毎日欠かさず祈ってる。いまどき珍しいよ、ああいう敬虔な人間は。魔術師ってさ、精霊にはよく祈るじゃない。力を借りることも多いしさ。でも、父上……サタナキアやあたしたち四柱に祈りを捧げる子って、あんまりいないんだよね」
言われてみればたしかにマリーの言うとおりだ。精霊は身近だが、神々はあまりにも遠い存在だからだろうか。
ブレスたちは身近になってしまったからこそ、祈る機会もなくしてしまったけれど。
「ああいう子を見るとさ、まだ忘れられてないんだなって思う。そう思わせてくれるんだから、可愛くないわけないだろ?」
「そう、ですよね……」
「だからさ。喧嘩したり傷つけあったりしないで、この国を出られたらいいね」
その言葉を聞いて胸が痛んだ。ネモと敵対する可能性について考え、葛藤を抱えていたのは、ブレスだけではなかったのだ。
「俺も心からそう思います、マリー様」
猫の姿に戻ったミシェリーを抱きしめながら答えると、マリーは横顔で寂しそうに笑った。