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80話 スティクス侯の館へ

 

 馬で一時間の距離を駆けると、周囲の様子も随分と変わった。

 人もまばらな田舎から、徐々に活気の溢れる市場に移り変わり、さらにそこを抜けると、現れたのは城壁に囲われたひとつの都市。


 エトルリア王国スティクス領の中心、その都市の名はモシュネ。

 スティクス侯の住居をも内包する、スティクス領の心臓部である。


 大都市ともなれば、通常は入場料を取られる。しかしネモとシグリーの顔を見た衛兵は、敬礼をしてあっさりとカナンらを都市へ入れてくれた。


「ああ……私は三日に一度は出入りしておりますのでね。もはやどの衛兵とも顔見知りなのですよ」


 と、ネモはくまの濃い目を歪めて薄笑いを浮かべた。

 それは疲労も溜まるだろうし痩せこけもする。


 油断ならない男ではあるが、ブレスはこの男がすっかり気の毒になってしまっていた。


 二角獣に跨ったまま憐れみの目でその男の背を見つめると、ブレスの斜め前を駆けていた女騎士シグリーがふと振り向いてブレスを見た。


 彼女は凛々しい顔にふっと笑みを浮かべる。


「あのお方の姿は、忘れようにも忘れられませぬ」

「……たしかに、そうですよね」


 頻繁に出入りしていることが理由の全てではない。

 シグリーの言葉を聞き、ブレスは少し安心した。


 川が近いせいだろう、都市の内部には水路が幾つもひかれていた。雨が降れば水が溢れて水浸しになるそうで、建物の扉は道よりも高い位置に作られている。


 都市の空気は自由にする、と昔からよく言うが、このモシュネはまさにその言葉を体現したかのような場所だった。

 人が生き生きとしている。


 この空気を作り上げたのがスティクス侯であるならば、スティクス侯は有能な男だ。人使いの荒い人物ではあるようだが。

 ネモがふと馬を止め、カナンを振り向いて告げる。


「あー……長々と走らせてしまい、申しわけない。前方に見えますのが、スティクス侯アナクサゴラス様の屋敷でございます」


 ブレスは首を逸らしてその屋敷を見上げる。否、屋敷というよりこれはもはや城だ。

 石造りの巨大な建物に、ブレスもエチカも開いた口が塞がらない。


「主人は魔術師である私を慮って、魚の生簀やら家畜の飼育やら、菜園やらをすべて纏めて屋敷の敷地内でやらせております故、食制限の件はご安心ください。品質は保証しますよ。

 何か御用が有れば、私の手のものにお言い付けを。ご都合もありましょうから、むやみに引き止めはいたしません。

 旅の疲れを癒していただく間、ほんの少しばかり私めにお話をお聞かせいただければ、何よりの喜びでございます」


 骨張った両腕を広げ、ネモはそう前置きして門を抜け、屋敷を囲う壁の中へ。


「お帰りなさいませ、ネモ様」


 使用人が頭を下げるのを見もせずに、彼は馬を預け、まるで自分が屋敷の主人であるかのような足取りで開かれた扉をくぐり抜けた。




「あの男、随分と屋敷の使用人たちの信用を得ているようでしたね」


 通された客間。

 ブレスはドアを閉めるなり眉を顰めて呟く。

 女性陣は風呂場に直行したため、今はカナンとふたりだけだ。


 カナンは旅外套を脱ぎつつ、ブレスに苦笑を向ける。


「君は随分と彼を警戒しているように見える」

「だって先生、あの男が現れた時に全く反応していなかったじゃないですか」


 胸壁の弓兵の存在にはすぐに気づいたのに。

 カナンはふと首を傾け、ああ、と頷く。


「存在自体には気づいていた。敵意がなかったので放って置いただけです」

「……そうだったんですか?」

「なるほど、それで君は道中ずっと百面相をしていたのだね」


 指摘されてバツが悪くなった。たしかにブレスは口を閉じていろと命じられたぶん、色々と顔に出ていたと思う。


 感情が全部顔に出ているようでは、魔術師の仕事など務まらない。


「……でも、俺はやっぱり不審だと思います。〈何者でもない者〉だからってこともありますけど……」

「何を案じている?」


 うろうろと歩き回るブレスを、カナンはソファに腰掛けて見やる。

 静かな声と目を受けて、やや頭が冷えた。そうだ、ブレスは不安に襲われているのである。


「たぶん……意図が読めないから、信用できないのだと思います。先生やマリー様が何者であるかを見破って、それでいて全く恐れない所とか……おかしいですよ。

 だってあの人、先生を見て白い髪だと言ったんですよ? 髪紐で色を変えているのに」


「王侯貴族に仕える魔術師を、一般の枠で測ってはいけないだろう。たしかに彼の目は、少々特殊ではあるが……」


 指先で顎を撫で、カナンは思案気に呟く。


「彼が彼として行動している分には無害だろう。とはいえ、ネモである彼は主人の命に逆らえない。あれこれと疑うのは、主人であるスティクス侯と彼が接触してからにしなさい。僕はサタナキアの信徒を無碍(むげ)にはしない」


「……信徒、ですか」


 カチリと音をたて、ばらばらだった思考があるべき場所に納まった気がした。


「納得したようですね。では、君も湯を使っておいで。僕はこの屋敷を調べる」

「はい、先生」


 師がそう言うのならばブレスは従うだけだ。屋敷を調べたい気持ちはブレスだってあるが、カナンがやると言っている以上、ここに残っても足手纏いだろう。


 部屋を出、使用人や衛兵に場所を訊ねながら辿り着いた浴場は、広く清潔で趣味がよく、ぬるめの湯がはってある大きな浴槽があり、石鹸や香油はラベンダーの香りがした。


「はあぁ……これはすごい……」


 控えめに言って天国だ。長旅の果てに、まさかこんな大浴場を使える日が来ようとは。


 髪を洗うために髪紐を解くと、長さが誤魔化されていた長髪があらわになった。ヒョロ長く頼りなかったブレスの赤毛も、カナンが呪いを取り除いてくれたあの日から着実に質が良くなっている。


「……だいぶ伸びたな」


 先端が腰の辺りに届いていた。この調子ならば、そのうち人の目に晒しても恥ずかしくない毛量になりそうだ。


 機嫌良く髪を洗い、泡を流して顔を上げる。

 背後に人が立っていた。


「わあ!?」

「ひえぁっ!?」


 ブレスの悲鳴に驚いた背後の男が、裏返った声を上げてひっくり返った。

 その声を聞きつけた使用人が、何事かと血相を変えて浴場を覗き込む。


「ネモ様!? ネモ様、ご無事ですか!!」

「……あー、はい、大丈夫です。向こうに行っていなさい、ちょっと驚いただけなので……」

「左様で……?」


 疑わし気な目でブレスを見つつ、使用人はいなくなった。忠実だ。

 やれやれと起き上がり、ネモはブレスにニタッと笑いかけた。ブレスは顔を引き攣らせる。


「すみませんねぇ。なにぶん私も今日一日外を駆け回っていたものですから、湯を使わねば食卓につけませんもので。……あー、あのお方は居られないのですね? 神々は風呂など不要なのでしょうか」


「せ、先生はその、後で入りに来ると思いますよ。道中も普通に、水浴びとかしてましたし」


「水浴び……! そうでしたか、それはそれは……眼福でしょうなぁ、羨ましい」


 まさかこの男、カナンの入浴姿を見たくてやってきたのではあるまいな。


 あらぬ想像を巡らせるブレスをよそに、ネモは癖の強い黒髪に指先を突っ込んでのんびりと髪紐をほどいている。


 紐と共にずるずると出てくるその髪の量は半端ではなかった。

 腕を買われて貴族に引き抜かれた男。領主のネモである、というのも頷ける。


 思わず目を奪わるブレスに気づき、ネモは「これでも今年で百歳になりますのでね」と自嘲するように笑った。

 痩せこけてはいるが、外見はせいぜい三十歳程度にしか見えない。


「……ネモ様は、肉体の老化が止まっていますよね。魔術師の肉体の老化を止めるためには、何が必要なのでしょうか」

「あー……君はまだ、時を止めるには些か若すぎるように思えますが……?」

「ええ、今はまだ。ですがいずれは、と思っているので」


 〈古きもの〉を志すと決めた以上、成長期が終われば肉体の最盛期で時を止めなければならない。


 魔術師の資格を得た年齢にもよるが、大抵は魔術師として生きて五年後に、従事している師や協会からその方法を学ぶことになっている。


 ブレスは十二歳で魔道学問所へ入学し、四年学び資格を得て、一年弱をシルヴェストリの協会で過ごした。

 カナンと旅を始めて半年程度であるから、肉体の成長を止めるまでまだ三年以上猶予はある。


「……君はすでに、生きる道を決めているのですね」


 ネモは長い黒髪を解きながら、懐かしそうに目を細めて宙をみつめた。

 昔の自分を思い出すような目だった。


「先を見据えることは無論、大切でしょう。ですが、若さとは一度失えば二度と呼び戻すことの出来ない至上の宝です。

 君はまだ若い……将来を見据えて励むのも結構ですが、先ばかりではなく今に目を向けることも忘れてはなりませんよ」


「ええ。それは、もちろんです。この旅はきっと、俺の人生の中でも一番特別な時間になるでしょうから」


 冬に眠りにつくカナンが、目覚めたあとにどうなるのか。

 ウォルグランドの一件が片付くまで滞在してくれるのか、それとも春の乙女の言葉が下されて旅立ってしまうのか。


 ブレスには知る由がない。きっとカナンでさえわからないだろう。


「俺もいつまで先生のそばに置いてもらえるのかが分からない。時を止めるのは魔術師としての節目ですから、できることなら先生のそばに居るうちに、と……思ってしまったので」


「ああ……そうですね。お気持ち、お察しいたします。私も、似たようなことを考えたものです。しかし君は、その話題をふる相手を間違えている。私ではなく、あのお方にお話されてはいかがです?」


 髪を解き終わったネモが、下瞼の青ずんだ目をブレスに向けた。

 ネモの言うことはもっともだ。


 そうですね、とブレスは苦笑する。ネモはふっと目元を緩ませ、老いた笑みを浮かべた。


 ひととおり体を洗いすっきりしたブレスは、浴槽にゆっくりと浸かった。

 ネモは髪を解き終わるなり先程の使用人を呼び、髪を洗わせている。


 あれほど多毛で長ければ、頭を洗うのも一苦労だろう。


 そのうえ彼はスティクス侯のネモだけあって、この屋敷においては侯の次に位が高いのだ。

 貴人ともなれば、何事をするにも側近がつく。


「……ふう……」


 全身を清められたネモは、湯船に胸まで浸かってため息を吐いた。ほっと一息、というよりも、疲れてどうしようもないといった類のため息だった。


 ぼんやりと宙を眺める目を、ブレスは横目で盗み見る。

 カナンは、この男の目が少々特殊だと言っていたっけ。


 灰色の虹彩に青の線を所々に混ぜたような、やや複雑な色をしている。

 三白眼だ。白目が多い。顔が痩せているせいで目玉が浮き上がって見える。


 その目がぎょろりと動き、ブレスを捉えた。誤魔化しようもないほどはっきりと目が合ってしまい、ブレスは思わずたじろぐ。


「す、すみません。失礼しました」

「いえ……」


 気に障った様子ではなかった。なんとなく居た堪れなくて視線をうつむけ、ブレスは湯を見つめる。


「その、先生が、ネモ様の目が特殊だと言っていたものですから、少し興味があって」

「……あー……そうですね、おっしゃる通り……私の目は、細工がありまして……」

「細工ですか? どんな?」


 是非ともお聞かせ願いたい、とブレスが再び顔を上げると、先ほどまで隣にいたネモが消えていた。


 否、消えたのではない。

 沈んでいるのだ。ごぼごぼと泡沫を吐きながら、浴槽の底に。


「えっ、何、ネモ様? 嘘でしょ、ちょっと……誰か! 誰か来てください、ネモ様が風呂で溺れました!!」


 一瞬呆然としてしまったが、呆気に取られている場合ではない。腕を回し、どうにかネモを湯から引っ張り出したところで、先程の使用人が顔色を変えて飛び込んできた。


「た、大変だ。誰か癒者を呼べ、ネモ様がお倒れになったぞ!」


 蜂の巣を突いたような大騒ぎの中、浴室の床に伸びていたネモがゲホッと咳込み湯を吐き出し、うっすらと目を開けた。

 不健康そのものの顔をブレスに向け、彼はヘラッと笑う。


「お騒がせを……いつものことですので、お気になさらず……」

「いや、無理です」


 目の前でぶっ倒れられて気にしない人間などいない。


 わらわらと集まってきた使用人たちに運びだされていくネモを見送りながら、ブレスは「あの男とは二度とふたりきりにはなるまい」と固く心に誓った。


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