79話 砦とネモと女騎士
「止まれ!」
門を守っていた衛兵が、槍を地面に打ち付けながら居丈高に声を張り上げる。
先頭を進んでいたカナンは、声を上げた門番ではなくその上に視線を向けた。
つられてブレスが顔を上げると、門の左右には塔が立っており、胸壁には弓を持った兵が少なくとも五人、待機していた。
きっと門番の一声で待機兵が合図を送り、塔で控えている兵がぞろぞろ出てくるのだろう。
なるほど、たしかに国境警備が厳しい。
まるで侵略を警戒しているかのようではないか。比較的平和な、このご時世に。
黒馬に化けたテンテラを止め、カナンは胸元から証のペンダントを持ち上げた。
「我々は旅の魔術師です。通過の許可を」
「……魔術師、だと?」
門番の男は何やら喧嘩腰だ。ブレスははらはらしながら彼らのやり取りを見守る。
うちの先生をあんまり刺激しないで頂きたい。
カナンは怒ると怖いのだ。
「魔術師がエトルリアに何用だ」
「海を渡りたいのです」
「なんだと?」
門番の警戒レベルが一気に上がった。
今のやりとりのどのあたりが気に食わなかったのだろうか、見当もつかない。
はて、と首を傾げている後ろ姿から察するに、カナンも少々不審に思っているようだ。
「ちょっとねえ、お兄さん。あたしたちはただ、通過したいだけなんだよ。そんなに怒らないで、通しておくれよ。お・ね・が・い」
カナンと馬を並べ、マリーが門番に向けてしなをつくる。甘い美人の誘惑に、門番が僅かにたじろいだ。
「いいぞマリー様、もっとやっちゃえ」
「あんたね……」
小声で最後尾から煽るブレスを振り返り、エチカが呆れ顔をした。
ブレスは肩をすくめる。
「男相手ならマリー様の方がいいだろ? 先生は男にしちゃ綺麗すぎるから、同性から不信感をもたれやすいんだよ。不自然だって」
「ああ、なるほど。その点、女が綺麗なぶんには問題ないってわけね」
「そう。逆に女の人が相手だったら、先生が出て行ったほうがいい」
「たらしこむのね。まあ、魔術師は無理だけど、普通の女だったらころっと騙されるでしょうよ」
「そういうこと。綺麗すぎても異性だったら問題ないんだよ。みんな心のどこかでは、異性に夢を見たがってるからさ」
『……お前、なんだか打算的になったわね』
声を顰めたやりとりを聞いたミシェリーが、じっとりとした目でブレスを見上げる。
そりゃあ何ヶ月もカナンと旅を共にしていれば、人波の渡り方も覚えるというものだ。
しっかりこちらの話を聞いていたらしいマリーが、蛇のように裂けた舌をぺろっと出して片目をつむった。
この美貌と屈託のない仕草に微塵も心が動かない男など、千人にひとりくらいではなかろうか。
同じく話を聞いていたらしいカナンが、すっと数歩、テンテラを下がらせた。
代わりにマリーが前に出て、門番とやりとりを始める。
門番はまんまとマリーに丸め込まれた様子で、顔だけはしかめっ面を保ったまま勿体ぶって頷いて見せた。
どうやら門前払いは避けられた様子である。
「みんな、二角獣から降りて。証のペンダントを調べるんだってさ」
マリーの一声に従い、ブレスは二角獣ルーチェから降りる。ミシェリーは鞍から背嚢へ移動して、そのままいつものようにだらんと伸びた。
顔を擦り寄せてくるルーチェを撫でてやりながら、ブレスは胸元からペンダントを引っ張り出した。
石を手のひらで弄びながら待っていると、ふと視線を感じた。
「……?」
顔を上げる。胸壁の淵に、黒いローブを纏った青白い顔の男が立ち、こちらを──否、カナンを見下ろしていた。
カナンは気づいていない。なぜだ。
不気味さが危機感にすり替わり、ブレスは警告の声を上げる。
「先生、上に……!?」
次の瞬間、男はローブをはためかせながら飛び降りた。
風を力を借り、門番とカナンを隔てる位置にふわりと着地したその魔術師は、長い前髪の奥からカナンを見つめ、そして。
「あー……あなた、人間ですかねぇ……?」
と、言った。
緩み始めていた場の空気に一瞬にして緊張が走る。
気を許しかけていた門番が、槍を握る手に再び力を込めた。
「ネモ様。それは、いかなる意味でありましょう」
門番が下がりつつ、黒ローブの魔術師に訊ねる。
ネモ。その呼び名の意味は〈何者でもない者〉。
その名の示す彼らの立ち場は、貴族などの特権階級に仕える魔術師である。
主人の手先、道具として動く彼らは固有の名前を持たない。
己を捨て主人の影に徹するという性質上、個人の象徴である名前など足枷でしかないからだ。
「いやねぇ、私にはどうにもこの方が人間とは思えないのですよ」
ネモは背後を振り返りもせずに、首を傾けてカナンの顔を覗き込む。
痩せ細った頬、下瞼の青ずんだ不健康そうな目。長く癖の強い黒髪が、だらんと肩にこぼれ落ちた。
カナンはいつもの無表情な笑みを浮かべたまま、男の視線を捉える。
ブレスは間近でジロジロ観察されるカナンを見つつ、舌打ちをこらえた。
国境の砦に、まさか〈何者でもない者〉がいたとは。
ネモは宮廷魔術師の次に厄介なのだ。
上級貴族のネモである場合は、宮廷魔術師と繋がっている可能性が高い。
「僕は〈古きもの〉故、そのような誤解をされたのでしょう。些か心外ですね」
「はぁん……?」
隣に並んだエチカが、ヒッと息を呑んで鳥肌を立てた。粘着質な視線が気色悪かったらしい。
(しかし、あの男。先生を見ても怖がらないのか)
警戒はしているように見える。
けれどそれ以上に、好奇心や探究心といったものが彼の目には映るのだ。
この男はカナンに興味津々なのである。
「古きもの……緑の宝石の目に白い髪の古きものね……はて、どこかで耳にしたような……?」
ぶつぶつと独り言を呟きながら、名のない男はニタリと笑う。
カナンは平然としているし、マリーも面白がるように眺めているが、ブレスを含めその他の者はニヤニヤと不気味に笑うネモを前に完全に引いていた。
なんなのだ、この男は。
指一本ぶんの距離で、絡みつくようにカナンを観察していた男は、不意に「あ」と呟いて僅かに目を見開いた。
表情が徐々に変わっていく。
恐れや畏怖──ではなく、子供のような満面の笑みに。
「わあ、すごい……私、はじめてですよ。お会いできて光栄です、麗しの翼の君よ」
「そうですか。それで、君は結局この門を通過させてくれるのかな」
「どうぞどうぞ、もちろんでございますとも。ああ、でもこのままお別れしてしまうなんてあまりにも口惜しい……そうだ!」
不健康な顔を喜色に染めて、男は突然ばっと背後の門番を振り返った。
門番はびくりと慄き、片足を下げる。兵士でなければ後退りしていたことだろう。
「シグリーを呼んでください。賓客ですよ。館へお出で頂き、おもてなししなくては」
ネモの言葉に門番がたじろぎつつも従い、途端にあたりが騒がしくなった。
何が何やらわからず途方に暮れるブレスとエチカを振り返り、カナンは唇に人差し指を当てた。
困惑しつつもブレスは頷く。なんだか妙なことになってしまったが、ひとまずは入国を許された様子である。
カナンが「黙っているように」と言うのなら、黙っていようではないか。
ネモの指示により、エトルリア王国の門は開かれた。正確に言えば、ここはエトルリアの端に位置するスティクス領の砦だそうだ。
「以前は正門だったのですがね。十年前に国王陛下が王都を移されて以来、人も物もすっかり途絶えまして。現在はご覧の通り、閑散とした形ばかりの砦でございます。まあそれでも、他の中央諸国と比べればマシですが」
ペラペラと事情を説明するのはネモである。一行はいま、ネモが呼びつけた「シグリー」という人物の到着を待ちながら、門の内側の軒下で立ち話をしている。
門番は「賓客であるのならばせめて塔の中へでも」と控えめに提案をしたが、「魔術師が石壁の中で快適に過ごせるわけがないでしょう」と一言で追い払ってしまった。
この男はスティクスを治める領主付きのネモだそうで、多忙なスティクス侯に代わりさまざまな雑事を片付けて回っているらしい。
〈何者でもない者〉があちこちに公然と顔を出すのは珍しいことだ。スティクス侯は風変わりなネモの使い方をしている。
「ほう。スティクス侯が多忙とは、何事か問題でも?」
低く静かにカナンが問うと、ネモは恍惚とした表情を浮かべた。
この男はどうやらサタナキアの第四子に対して並々ならぬ好意を抱いているらしいが、ブレスにしてみれば新手の変態にしか見えない。
「いえ……いいえ。ああぁもちろん西の帝国の動向が不穏、という懸念はありますけれども。我が国と彼の国は一応平和条約を結んでおりますので、あと二年は表立って攻めて来ることはないでしょう。主人が多忙である理由は別です。商売でございますよ」
うっとりとカナンを見つめながらネモは答える。
十年前、抜け殻となったこの土地を押しつけられた現スティクス侯は、領土の価値を上げるため貿易商売に邁進したのだそうだ。
「その甲斐あってスティクス領は富み、国王陛下も無碍には出来ぬ領土となりました。帝国が攻めて来れば切り捨てられるであろうとされていた主人も、首の皮一枚繋がって胸を撫で下ろし……それが良かったのか、悪かったのか」
ふう、と物憂げにため息を吐くネモ。
「エトルリアに流れる大河に〈金貨の川〉という異名が付き……主人も、その輝きに目が眩んでしまわれたのでしょうなぁ。
最近は領土の運営を私に任せ、商売にのめり込んでおられる。まあどちらにせよ、土地が富み物が動けば領民は豊かになる。
私はネモ、何者でもない主人の影ゆえ、主人にとっては内政放棄の内に入らぬのやも知れません」
この男がこんなに不健康そうな有様である理由がわかった。過労だ。
魔術師でなければとっくに疲労困憊で死んでいたに違いない。
ブレスは同情した。この男は魔術師であるのに、本来の仕事をさせてもらえていないのだ。
「さて……」
ネモが首をカナンに向けたまま、ちらりと横目で前方を見た。
艶やかな栗毛の馬に乗った軽装の騎士が、惚れ惚れするような手綱捌きでこちらへ向かって駆けてくる。
「シグリーも到着したことですし、館へご案内致しましょう。ここでは出来ぬ話も、あることですし」
意味深に目を細め、ネモは順々に一同を見回した。マリーを見てニマッと表情を崩したことから察するに、ネモは彼女の正体を看破したのだろう。
数名の兵を連れて到着した騎士は、スタッと地面に降り立って背筋を伸ばした。
ダークブロンドの髪をきっちりと纏め上げたその騎士は、凛々しい面立ちの女騎士だった。
彼女はきっちりと踵を揃えて敬礼する。
「シグルリーヴァと申します。ネモ様より要請を受け、館までの警護を」
「シグリーは接近戦においてとても頼りになる私の懐刀なのです。私は接近戦となると全くの役立たずですので……」
万が一にも御身に何かあってはいけませんからねぇと呟き、ネモはねっとりと笑った。
やはりこの男は、不気味だ。