78話 白馬と証
夏の終わりが近い。
のどかなものである。
フェインと別れ、川沿いを移動し続けて1週間ほど経つが、未だに敵襲はない。
作戦上、帝国軍に襲われておかなければいけない立場のブレスとしては複雑な気分である。
痛い思いはしたくはないが、襲ってきてくれないことには、フェインを救うための戦争にカナンが加担出来ない。
国家の争いには力を貸さないと公言しているカナンの協力を得るためには、弟子を襲われて怒っている、という建前が必要なのだ。
(しかし、何度考えてもしょっぱい計画だよな……)
二角獣のブランに揺られながら、ブレスは苦笑いを浮かべる。
ブレスの前、馬鞍の上でだらんと伸びている妖精猫ミシェリーは、そんな宿主を見上げつつため息が止まらない。
宿主を護るミシェリーにしてみれば、自分から危険に突っ込んでいくなど理解不能な行動でしかないのだ。
『……はあ』
これ見よがしに大きくため息を吐くミシェリーを、ブレスは甘やかすように撫でる。
喉の辺りをくすぐると、二又の黒猫はごろごろと音を立てる。
撫でられるのが気持ちいいのだろうけれど、最近はブレスの方がこの音に癒されている。
ミシェリーと契約した当初は散々噛みつかれていたのに、それが今やこうだ。
なんとも感慨深いものである。
「ああ、ミッチェの音は最高だなぁ」
『ふん、聞きたかったらもっと鳴らさせてみなさいよ』
「はいはい、わかってるよ」
そんな一対の心の交流に、穏やかならぬ思いを抱いているものがいた。
バイコーンのブランである。
ブランは耐えていた。
感情を殺し、カナンの命令に従い、ブレスを乗せ、何日も何日も。
しかし我慢にも限界というものがある。
ミシェリーの女王のような我儘な振る舞いは許されているのに、なぜ、ブランばかりが耐え忍び沈黙を守らねばならないのか。
その考えに至った時、ブランの我慢は限界を突破した。
それは、ブランの堪忍袋が歴史的大爆発を起こした瞬間であった。
ブランとミシェリーとエチカを乗せたまま、ブランは突然さお立ちになり、いななき、首を振って暴れ、背中のものを振り落とした。
「うわ!?」「キャア!!」
『ニャッ!?』
三者三様の悲鳴を上げ、墜落する三名。声を聞いたカナンとマリーが、馬上で何事かと振り返る。
鼻息荒くブレスに迫ったブランは、大きな目を怒りに染め、そして。
「ブ、ブラン?」
落ちた時に擦りむいたブレスの腕を、長い舌でベロリと舐めた。
「……ああ。君がいつまでも認めてくれないから、剛を煮やしたようですね」
カナンが呆れ顔で呟き、マリーがケタケタと笑う。
ブランはカナンへ首を向け、心持ち申し訳なさそうな目で見つめた。
思念を伝えているのだろうか。
「かまわないよ。……我が名をもって二角獣ブランとの契約を破棄する」
目の前でカナンとブランの繋がりがほどかれていくのを、ブレスはただただ呆然と見つめる。
地面に尻餅をついたままのブレスを、名を失った芦毛のバイコーンが問うように見下ろした。
使役に下すために必要なものは、主人の血と、主人から授かる名前。
血は強引に手に入れた。バイコーンは名前を求めているのだ。
「……じゃあ、光。君の名は、ルーチェだ」
日の光を浴びて輝いている白いたてがみに手を伸ばしながら、ブレスは呟いた。
契約が締結され、ブレスと二角獣の間に絆が結ばれる。
立ち上がって首を撫でると、ルーチェは満足げに目を閉じた。
どうやら気が済んだようだ。もう暴れるつもりはないらしい。
「もう、とばっちりじゃない」
砂埃を旅外套から払い落としながら、エチカは文句を言いつつ仕方なさそうに笑う。
「夜の生き物に光って名付けちゃうとか、ほんとフィーらしいよ。しかしその子、まるで押しかけ女房だねぇ」
マリーがおかしそうに囃し立て、カナンは横顔でふと苦笑した。
この二角獣は雌馬だったらしい。
「……なんで下る気になってくれたのか解らないけど、嬉しいよ、ルーチェ。これからもよろしくな」
光の名を与えられ、より一層白さを増して輝くバイコーンに、ブレスは額を押し付ける。
かくしてカナンの使役であったブランは、ブレスの使役に下りルーチェとなった。
ひとつ難があったとすれば、ブレスが白い毛を褒めたことによって、ミシェリーが「白い方が好きなのね」とちょっと拗ねていたことくらいだろう。
それ以降はおおむね仲良くしているようなので、よしとしよう。
契約したてのルーチェは気位が高く、エチカが相乗りすることを拒んだ。
カナンが言うには、ルーチェはしばらく主人を独占したいと思っている、とのこと。
旅人は四人、バイコーンは三頭。
困っていると、カナンは己の影からテンテラを呼び、なんとバイコーンに変化させてしまった。
「これで数は足りるでしょう」
「ですが、その……いいんですか? 竜の子をそんなふうに使って」
『テンテラに異論はない。主人が乗る限りは』
長く波打つたてがみの黒馬に化けたテンテラは、嬉しげでさえあった。
テンテラはカナンが好きでたまらないらしい。
「じゃ、あたしがノワに乗ろうかな。で、エチカがルナ。それでいいか、お前たち」
マリーは二角獣たちを見回して確認する。
ブレスには彼らの言葉は解らないが、頷くマリーの様子から察するに異論はなかったのだろう。
首をふりふりやってきたルナを、エチカが愛しそうに撫でる。
赤い髪を靡かせてノワに騎乗するマリーは、惚れ惚れするほど様になっていた。
ブレスがルーチェに騎乗し、カナンは進行を再開する。
海を目指す一行が進む方角にある国の名は、エトルリア王国。
大河を利用し、輸送船を用いた貿易で栄えた国。
シーラ王国やカルパント王国と並ぶ、中央三大王国のひとつである。
「エトルリアって、十年くらい前まで海沿いに王宮があったんだよ。見晴らしがよくて綺麗なところでさ、あたしも結構気に入ってたんだけど」
昼休憩をとりながら、マリーが棒で、地面に簡単な地図を描く。
現在地と川と王都、それから海岸。
「ここから川沿いに進むとエトルリアに入る。エトルリアには港があるからそこから海を渡れる。王都は川を挟んだ反対側の、内陸地。だいぶ離れてるから、王族に見つかるってことはまず無いと思う」
「……あ、そうか。王宮には宮廷魔術師が常在しているから、先生が見つかるとまずいってことですね」
なんの脈絡もなく王都の話を始めたので、理解に時間がかかってしまった。
宮廷魔術師は国王に仕えている、王直属の魔術師である。
宮廷魔術師といえば魔術師の中でももっとも権力のある立場で、中には何世代にも渡って複数の王を支え続けた〈古きもの〉もいるとか。
王につくことによって引き継がれた知識や経験は膨大なものであり、油断ならない相手だ。
敵に回せばただでは済まないだろうし、旅の足が遅くなるので鉢合わせも避けたい。
王都が内地へ移動しているのならば、宮廷魔術師と接触する可能性は低いだろう。
宮廷魔術師は王の側を離れない。
その手先が寄越される可能性はあるかもしれないが。
「しかし、警戒はするべきだ。今回は密入国をするというわけにもいかない。関所で何かしらは調べられるだろう。エトルリア王国は国境警備が厳重だからね」
いつものように木にもたれていたカナンが、目を閉じたまま述べる。
国境警備、か。ブレスはふと不安を覚えて訊ねた。
「国境を越えるなら、旅券が必要ですよね。俺、持ってないんですけど」
旅券とは、いわゆる身分証明書だ。旅人は国境を越える際、それを提示することによって身元を証明し、関所にて審査を通過してはじめて入国を許される。
これまでは密入国が罷り通る小国や、そもそも審査の無い開放された都市や、人里離れた山道ばかりだったので、なんとかなっていた。
しかしエトルリアは大国。今回はそうもいかない。
「心配することはない。魔術師であるならば、証のペンダントが有れば事足ります」
カナンはそう言って、自分の胸元から複雑な色の石を引っ張り出して見せた。
資格を得た魔術師ならば、誰しもが肌身離さず首に掛けている、魔術師の証である。
「これを持っていれば、〈掟の書〉に誓いを立てた者であることが証明される。入国程度ならば認めて貰えますよ」
「あー……」
なるほど、と納得したブレスに対し、エチカは眉根を寄せた。
どういうことよ、と顔に書いてある。
エチカはきっと知らないのだろう。
この証のペンダントに刻まれた模様に込められた言葉の魔力を。
「エチカ、俺も前に先生に教えてもらったことなんだけど。この石は、シギル魔術で〈裏切り者を罰せよ〉って言葉が込められている魔術具なんだ」
カナンに伴って旅を始めたばかりの頃、ブレスは魔術具についてカナンより教えを受けている。
当時のことを思い出しながら、ブレスは説明を続ける。
数千年前、魔術師協会の創設者であった古代の王アリエスは、魔術が悪用されることを危ぶんでいた。
そこでアリエスは力持つ魔術師を管理するため、この証のペンダントを身につけることを法としたのである。
以来、無登録者による魔術の使用は禁じられ、資格を得た魔術師たちは〈掟の書〉に則った振る舞いをすることを儀式で誓わされることが慣習となった。
儀式で誓いを立てることによって、魔術師は証のペンダントに行動を縛られるのだ。
誓いを破り〈掟の書〉を踏み躙るようなふるまいをすれば、この証のペンダントが魔術師に対して罰を下す。
要するに、問題行動を起こせば証のペンダントが勝手に罰を下してくれるのである。
警備兵はそれを知っているので、誓いを立てた魔術師であるからには面倒ごとを起こすまいと入国を許可してくれるのだろう。
話を聞き終えたエチカは、複雑げな顔で胸元のペンダントを見下ろした。
「儀式って、〈宵の火の宴〉のこと? 古株の魔術師とその年の合格者が集って、火を囲んで、書の掟に従いますって復唱させられた、あれ?」
「そう、それ。この証で身分証明できるってのは、その誓いがあるからですよね、先生? 〈掟の書〉にはたしか、自らの意思で法を犯すなとか、私利私欲のために魔術を悪用するなとか、そういったことが書かれていましたから」
カナンは「よく覚えていましたね」と頷き、微かに笑みを浮かべた。
お褒めの言葉を頂き、弟子として嬉しくなってしまうブレスである。
一方エチカは、不可解、という目で石に刻まれた模様を見つめている。
「首輪だったのね、これ。その割には、わたしがエルシオンで罪を犯していた時、全然反応しなかったけれど」
「あー、それはねえ、たぶん罪の大きさがさほどのものじゃなかったからだと思うよ。その石自体もさ、アリエスが中央に君臨してた時代と比べると、だいぶ劣化してるし」
「へえ。そうなんですか、マリー様」
それは初耳だ。ブレスは首を傾げる。
マリーはノワにブラシをかけながら、胸元からペンダントを引っ張り出して、ぽんとブレスに向かって放り投げた。慌てて受け止める。
「それが最初の、アリエス自身が刻印した石。フィーのと比べてごらんよ、微妙に違うから」
マリーはなんて貴重なものを投げて寄越すのだ。
ブレスは顔を引き攣らせつつ、自分の石とマリーの石を並べて見比べてみた。
横から覗き込んだエチカが「同じに見えるけど」と眉を寄せる。
けれど、刻印について散々学んだブレスには判った。
たしかに違う。
繋がるべき線が掠れたように途切れているし、線が近すぎて模様が一部潰れている。
線の色も違う。どちらも金色ではあるが、マリーの石の線のほうが明らかに輝いている。
劣化。たしかに、マリーの言う通りだ。
いつから模様が正確に刻まれなくなったのかは定かでは無いが、ブレスの代の石は、間違いなく劣化している。
「この石、ちゃんと発動するんですか?」
「するっちゃあ、する。効果は弱くなってるけど。たとえば……そうだな、掟に反するとっても悪いことをしてしまったとして。
アリエスの石だったら心臓がぐちゃって潰れて死ぬけど、フィーの石だったら、うーん……心臓をぎゅって絞られてめちゃくちゃ痛む程度?」
「……心臓を、絞られる、程度……」
充分効いている、と思うのはブレスが小心者だからだろうか。
ミシェリーを抱きしめて口を閉ざしたブレスを見、マリーは「死にゃあしないよ」と言ってアハハと笑った。
他人事だと思って、と言い返そうとマリーを見つめたところで、疑問がひとつ。
「たしか魔術師って、闇に落ちた時点で石が割れて資格を剥奪されますよね? マリー様はどうして、魔女でありながら証のペンダントを持っているんです?」
ブレスの問いかけに、マリーはきょとんとした。
カナンがため息をつきつつ、ブレスを見やる。
「エミスフィリオ。それは所詮、人間が作った魔術具ですよ。我々は如何様にも、込められた魔力を弾けます」
そういえばこの人たちは人間ではなかった。
最近はすっかり感覚が麻痺してしまっていけない。
マリーは昔を懐かしむような表情を浮かべて、つらつらと語る。
「そうそう。持っていたら便利だしね。それに、せっかく友達がくれたものだから」
カナンも頷く。
このふたりは、古代王アリエスと友人だったということか。
「アリエスはさ、人間のくせに世界の均衡のことを考えて悩むような、健気で生真面目な子だったのよ。
そんな子が罪悪感たっぷりの顔で、心苦しいのですがどうかあなた方に枷を、だなんて馬鹿正直にお願いしてくるんだもん。
もうそんなの、断れないし、ちゃんと効いてるってことにしといてあげないと不憫じゃない? ね、カナン」
「そうですね。アリエスはよく出来た王だった。この石はいわば、形見の品だ」
「うん、それだ。人間の友達の形見だから、魔女に落ちようと手放そうだなんて思わなかった。あの子はいいこだったなぁ……ちょっとフィーに似てるかもね」
悪戯っぽく片目をつむるマリーの話を聞きながら、ブレスは黙ってアリエスの石を見つめた。
古代の王と友であったという話を、マリーはほんの十年前の出来事のように語っていた。
いつかブレスも、数千年後の未来、ふたりの話題に上ることがあるのだろうか。
それから幾日か進み、やがて一行は灰色の石壁に守られた砦に辿り着いた。
「国境だ」
カナンが呟く。
エトルリア王国へ到着した。




