76話 刻印の闘い
そこは水の中ではなかった。
当然だ。あんなに浅い川なのだから、頭まで沈み込んでなお下に引っ張られるなんてあり得ない。
何者かの術中にある、ということは理解していた。
呼吸も出来る。苦しみはない。
下を見るも、足を掴んで離さない者の姿はわからなかった。
手の細さや白さから、なんとなく女のものであるような気はする。
その空間は底なしに見える。深すぎて、下にあるのは闇のみだった。
このままどこまで沈んでいって、その結果どうなるのか。
知りたいような気もしたけれど、そう他人の思惑に流されてばかり、というわけにもいかない。
(抵抗をしてみるか)
ため息をつくと、こぽりと口から水泡がうまれた。
溺れない水。言霊は使えない。ならば、出来ることはひとつだ。
ブレスは目を閉じる。集中をする。
思い浮かべる印は〈忌避〉と〈遮断〉と〈呪い返し〉。
印は覚えてある。
刻印する素材は、己自身だ。
魔力を込める。掴まれている足首には〈忌避〉を。
じんわりと熱が通い、次の瞬間、意思を得たかのように魔力がうごめいた。
一瞬で両脚に刻印が浮かび上がり、足を掴んでいた何者かは弾かれたようにその手を離す。
それで諦めてくれれば、と思っていたが、かえって相手を怒らせてしまったらしい。
これまで姿の見えなかった襲撃者が、暗い水の底でとうとう姿を現した。
水藻のように揺れる赤い髪。淀んだ水色の目。
悪夢に現れる、あの少女だった。
少女は凄まじい形相でブレスに迫り、再び引きずり込もうと細い腕を伸ばす。
ブレスは己の手のひらに〈呪い返し〉を刻印する。
迫り来る少女にその印をさっとかざすと、少女は印の効果を知っていたのだろう、警戒して後ずさった。
(……よかった。無駄に傷つけずに済む)
こぽ、と息を吐き、ブレスは最後の刻印を行う。
己の全身に〈遮断〉を印し、少女の術を完全に弾き飛ばす。
ふ、と体が軽くなった。
もう沈まない。
ブレスは水面に向かって水を蹴る。
──……たす……けて……。
か弱く小さな音に一度だけ下に顔を向けると、赤い髪の少女が力無く暗闇の水底に沈んで行くところだった。
泣いている、と思ったのは、思い違いか、はたまた、自身がそう思いたかっただけなのか。
目を開けると、人型のミシェリーがブレスを覗きこんでいた。
心配そうに、綺麗な黒髪が水に濡れるのにも構わず。
「やあ、ミッチェ」
「大丈夫なの……?」
「うん。ちょっと変なのに、絡まれただけ」
「なんなのよ、今朝の夢といい……」
どうやら川に引きずり込まれたと感じた瞬間に意識を失って、倒れていたようだ。
ずぶ濡れだが怪我はない。
ブレスは立ち上がって、岩に引っかかっていたランタンを回収する。
濡れてしまったが、光はまだ閉じ込められたままだった。
「戻りましょう。カナリアとサハナドールに話した方がいいわ」
「そうだった。フェインのことで頭いっぱいですっかり忘れてたけど、話すって約束してたんだよ」
話していればこうはならなかったかもしれない。
反省をしつつ、ミシェリーと夜道を歩く。
「ミッチェがいつもそばにいてくれるお陰で、川で倒れても溺れなかった。ありがとう」
「……わたしは、怖かったわ」
普段は平坦でツンツンしているミシェリーの、気弱げな声。
ブレスの濡れた服の裾を、彼女は控えめな動作で掴む。
「お前は物怖じしない。異変が起こっても平然としていて、危機感知能力が欠けているみたい。あの小娘に刺された時も、今回もそうよ。
いつか、お前がそんなふうに平然とかまえている間に、あっけなく死んでしまいそうで、わたしは怖くてたまらないわ」
「ミッチェ……」
別に平然としているわけではないのだ。普通に恐怖も感じるし、緊張もする。
ただ、いつも、考えが纏まらないうちに相手のペースに流されてしまうだけ。
けれど、今回はそうではなかった。
ブレスは立ち止まり、ミシェリーの肩に触れた。
今にも泣き出しそうな顔が一瞬だけブレスを見て、すぐに俯いた。
「昨日、先生に呪いを取ってもらっただろ?」
「……ええ」
「魔術の使い方を忘れる呪い。エチカの時はこの呪いのせいで動けなかったんだ。今回は違った。ちゃんと、自分の能力の使い方がわかった。
いま持っている力をどんなふうに使えばいいのか、どうするべきなのか……それがちゃんとわかるようになったんだ」
解呪されて理解した。魔術の使い方を忘れる、というその意味を。
ブレスは感覚を封じられていたのだ。
視覚や聴覚などの五感に加えて、魔術師であるならば誰もが持っている六番目の感覚を。
「今までは理屈で発動する魔術しか使えなかった。だから、理屈を教わる学校ではそれなりだったけど、外の世界ではだめだったんだ。実戦には感覚が必要だから。
いまはもうそれを取り戻した。だからエチカの時のようにはもう、ならないよ」
ミシェリーを見つめてブレスは告げる。
確信があった。自分はもう大丈夫なのだと。
「……いなくならない?」
俯けていた顔を僅かに上げて、ミシェリーが金色の目でブレスを見上げる。
「ならない。ずっと一緒にいるよ」
断言をすると、彼女は柔らかな安堵の表情を浮かべた。
ミシェリーはやっぱり天使だ。
ずぶ濡れで戻ってきたブレスとミシェリーを見、まず真っ先にマリーが「なにごと?」と声を上げた。
エチカは「服くらい乾かしたら?」と眉を顰め、木にもたれていたカナンは片目を薄く開けてブレスを見やる。
さっさと話せ、とのご命令である。
ブレスは風を呼んでミシェリーを乾かしながら、夢に出てきた少女に川で襲われたことを話した。
「なるほど。君の肌に残っているそれは、刻印の魔力か」
「……なんかついてます?」
カナンに言われて頬を触る。
エチカが首を傾げているのを見るに、人の目には映らないものなのだろう。
「なんにせよ、解呪の効果を実感できたようで何よりです。問題は、君の前にたびたび姿を見せるその赤毛の少女ですね」
「身に覚えはないの? 話を聞くに、だいぶやばそうな感じだけど……」
楽天家のマリーがやばいと言うのならば、相当まずいはずだ。
唸るブレスを見、エチカは「赤毛……」と呟いた。
「レイダもあんたの兄さんも、あんたも赤毛だわ。その女の子も身内なんじゃないの?」
その可能性は大きい、とブレスも思う。
しかしあのフェインの妹が、あんな悪鬼じみた少女だとは正直思いたくはない。
「……たしかに、夢で聞いた男の声はフェインに似ていたような気もしますが」
「じゃあ、その女の子はフェインに助けを求めているんだ」
「マリー様、だったらどうして俺の夢にまで出てくるんです?」
「それはだから、その子が”兄さん”に向けて魔術を使っているからでしょ?」
フェインの妹はブレスにとっても妹である、とマリーは言う。
「血の繋がりを利用して相手に干渉すると、混線して近い血縁者を巻き込んでしまうことがあるんだ。フィーとフェインは兄弟だし、物理的な距離も近いから、その女の子の魔術にフィーが巻き込まれてしまっても不思議じゃない」
「え、ってことは……」
あの少女は、フェインをあんな目に合わせようとしていたのか。
底なしの暗闇に引きずり下ろされ、夢に現れ、夜毎に「助けて」と脅迫紛いに求められれば、それは憔悴もする。
「俺がちょっと前に見ていた悪夢も、フェインと俺の距離が近づきつつあったから? それで巻き込まれて……」
「ふむ。謎が解けたね」
カナンはそう言うが、ブレスは気が気ではない。
「まずいですよ。このままだとフェインは、帝国にどうこうされる前に実の妹に追い詰められて死んでしまう。どうすればいいんだ」
「少女は助けを求めているのだろう。であれば、助けてやればいい」
簡単に言ってくれる。
しかしその通りではある。その少女も、好き好んでフェインを痛めつけているわけではない。
止むに止まれず、そうなってしまっているのだ。
助けてほしい。助けてくれない。こんなに苦しんでいるのに。
そんな感情が、恨みとなってしまった。
そして少女には、それを受け止めてくれる相手が兄しかいなかった。
と、すれば。
「俺から……その子に、夢を通じて干渉することは、可能でしょうか」
今すぐ力になってやることは出来ない。けれど、味方は他にもいるのだと伝えることが出来れば、彼女はもう少しの間、持ち堪えることが出来るのではないだろうか。
「やってみなさい」
ブレスの言葉を聞いたカナンは、ゆるやかに唇を吊り上げて微笑した。
さて、夢を行き来するからには、互いに眠っている状態でなければならない。
カナンが言うには、少女がブレスの夢に現れたことによって、ブレスと少女の夢の回廊は既に繋がっているらしい。
やり方はマリーから学んだ。魔術の基本はどれも同じだ。
イメージが現実となることを、疑わないこと。
夢の回廊を渡るには、意識を保ったまま眠りに落ちなければならない。
この条件をクリアするには、自分自身に催眠術をかける必要がある。
今回は初めてなので、カナンがその役割を引き受けてくれた。
特殊な状態に肉体を誘導する場合、ひとりで失敗しながら試行錯誤するよりも、一度目を誰かに介助して貰った方が覚えが早いそうだ。
「では、始めよう」
ブレスは木にもたれ、力を抜いて座る。
カナンは、その木に手をついて、ブレスを見下ろすような姿勢で覆いかぶさる。
普段ならば顔が近くて落ち着かないところだが、今夜はそんなことを考えている暇はない。
大丈夫だ。集中している。
「まずは、呼吸だ。深く、ゆっくりと繰り返す。僕の声を聴いて。君はとても、落ち着いている」
影になったカナンの顔の中で、その両眼だけが煌々と光っている。
「そう。目を見て。じっと、集中して。君は、やがて眠りに落ちる。今の君には、僕の声しか聞こえない。僕の目だけを、見ていればいい」
低く静かなカナンの声が、ブレスの意識を導く。
呼吸と、声と、目。五感が、たったそれだけに集中する。
「目を閉じて」
支配されている。
「では、数を数えよう。僕が三、と言ったら、君は夢の回廊にいる。君の体は眠りに落ちるけれど、君は夢の回廊を、自由に行き来できる」
次第に呼吸を忘れていく。
最後に残ったカナンの低い声が、静かに、滑らかにブレスの意識に染み込んでゆく。
「いち。……に。…………さん」
次の瞬間、ブレスは夢の回廊に立っていた。




