75話 覚悟
約束の場所へ到着すると、フェインはやや離れた場所で既に待機していた。
カナンが下馬し、皆もそれにならう。
バイコーンをそのままにして、カナンはフェインと向き直った。
「帝国より来たりし使者フェイン。近くに」
カナンの声に従い、フェインはゆっくりと歩み寄る。
相変わらず慎重な動作で、一定の距離をとり、フェインは跪いた。
フェインはやつれていた。出会った時から疲れた顔をしていたが、今日は目の下が青黒く黒ずんでいる。
(何かあったんだろうか)
思わず心配の表情を浮かべるブレスを、エチカが見えない位置から肘で突く。
わかっている。兄弟であることは、まだ秘密だ。
「長らく待たせたてしまって、すまなかった」
「滅相もございません」
フェインは粛々と頭を下げる。本来ならば、彼は人にかしずかれる身分だ。
そんな兄が目の前で、当然のように跪いている。やりきれない思いがした。
「結論を出した。君と共に帝国へ赴くことは出来ない。皇帝に伝えるといい。カナリアは帝国にもウォルグランドにも手を貸す事はない、と」
フェインは、その答えを予測していたのだろうか。
「……どうしても、お心は変わられないのですね」
と、影のある水色の目を諦念に染めて項垂れた。
沈黙が流れる。
再び顔を上げた彼は、ある種の覚悟を決めた冴え冴えとした顔で、真っ直ぐにカナンを見つめた。
「冬の君。炎帝はおそらく、御身を手中におさめるためならば手段を選びません。私が自陣へ戻り、この結果を報告すれば、帝国軍の一団が放たれます。
武の国である帝国の先鋭であろうとも、冬の化身の前では羽虫のようなものでしょう。しかし、伴う彼らの命は、おそらくもちますまい」
フェインの視線はブレスとエチカに向けられていた。彼は、何の関係もないはずのブレスたちの身さえも考慮しているのだ。
フェインは続ける。
「どうかお逃げください。帝国軍と接触してはなりません。あの国の者は魔道に疎い故、冬の君と知ってなお刃を向けるでしょう。しかし何卒、ご慈悲を。愚かであることは憐れなことなのです」
切迫した表情だった。
ひどい顔色で、冷や汗を浮かべているフェインは、カナンを恐れている。
にも関わらず、その恐れを殺して尚彼はカナンに何かを伝えたがっているのだ。
「……そうか」
カナンはその意図を、理解したのだろうか。
エメラルドの双眸を不穏に輝かせ、カナンは「いいだろう」と答えた。
低い、底冷えのするような冷淡な声で。
フェインが立ち去り、一行は再び騎乗してすぐにその場を発った。
ブレスはずっと、フェインの言葉の意味を考えている。
兄はカナンと帝国軍の接触を恐れていた。
その理由は、なぜか。
(ねえミッチェ)
(……なによ)
(差し向けられる帝国の一団には、もしかしてウォルグランドの魔術師も混じっているのかな)
(…………)
(先生を相手に、武器を持った人間だけを寄越すなんてことはしないと思うんだ。フェインは、帝国は魔道に疎いと言っていた。だったら魔術師は帝国人じゃない、外の国の人間だ)
(…………)
(フェインは王だ。王冠なんか被ってなくても、あの人はもう王なんだよ。あの人が死んでしまったら、きっとウォルグランドは本当の意味で滅びてしまう)
兄だから助けなければいけないと思っていた。
もし亡命していなかったら、自分もこうなっていたのだと思うと放っておけなかった。
けれど今は、それだけではない。
フェインは死んではいけない。あの男は死ぬべきではない。
フェインは玉座に座らなければならない。
ブレスはフェインを、玉座へ導かなければならない。
(俺が母様に逃してもらって、先生に出会ったのは、全部フェインを救うために神様が仕組んだ運命だったんじゃないかな)
ミシェリーは答えない。
それでも、ブレスの意志は変わらない。
(ミッチェ、俺は例え帝国と真正面から対立したとしても、必ずフェインを助ける)
(……お前が、そう決めたのなら……わたしはお前を護るだけよ)
やがてミシェリーは、淋しそうに、悲しそうに、小さくなってそう答えた。
夕暮れまで川沿いを移動して、いつも同じように野営の準備をする。
準備といっても食材の調達やら火のよういやら寝床の支度やらで、たいしたことではない。長居はしないのだ。
「ねえ、このまま川下に向かって行ったら、そのうち海に出てしまうんじゃない?」
枝を乾かして火を呼び、加減を調整していると、エチカがひそひそと話しかけてきた。
「別に声を落とす必要はないと思うけど……まあ、そうだね。川下には海がある」
「海の向こうには帝国があるのよ」
「うん、知ってる」
「帝国を避けなきゃいけないのに、どうして海に向かってるのよ」
「……そりゃあ、春の君の示す進路がそうだからなんだろ」
うう、と唸り声を上げてエチカは頭を抱えた。
「あんたは帝国に用があるのかもしれないけど、わたしは行きたくなんかない。わたしの目的はお母様と話をつけることなのに」
「その影の魔女なんだけどさぁ」
「!!?」
突如顔を出したマリーに飛び上がり、エチカは挙動不審に視線を巡らせて青ざめた。
「ち、違うのよ、別に先生たちの進路に口を出すつもりはなくって、そのっ」
「エチカ、落ち着いて。大丈夫だから」
あからさまに怖がられて、マリーがちょっと落ち込んでいる。
深呼吸をして気を取り直し、エチカはマリーに背筋をただして向き直った。
「あたしも今まで何もしてなかったわけじゃない。〈魔女会〉のみんなに使役を飛ばして、影の魔女の情報を集めてもらってたんだ。で、居場所がわかった。どこだと思う?」
「……その流れだと、答えの選択肢なんて無いじゃないですか」
ブレスは苦笑いを浮かべ、エチカは蒼白になった。
「う、嘘でしょ……まさか、帝国にいるっていうんですか?」
「皇帝の妹の、お気に入りなんだってさ。貌の魔女が言ってたから間違いない」
「無くはない話ですよね」
カナンの話によればレイダはウォルグランドの人間で、つまり海の向こうから大陸へやってきた。
そして彼はエチカの存在を、影の魔女から聞いていたという。
レイダと影の魔女が接触した場所が帝国であったとしても、おかしくはない。
「ん? ってことはエチカも、魔女の家から逃げる前は、海の向こうにいたのか?」
「違うわよ。それは十年くらい前の話よ。子供一人で海を渡ろうだなんて発想、出てくるはずないじゃない」
「それもそうか。ってことは、影の魔女が皇帝の妹に取り入ったのはここ数年の話……」
「あー……あたしのせいかもしれない」
居心地が悪そうに、マリーが小さく挙手をする。
「四、五年前なんだよ、あたしがこっちの大陸に引っ越ししてきたの。影の魔女はそれを察知して、隣の島に逃げたのかも……」
「…………」
「え、えっと。ごめんね?」
何という巡り合わせの悪さ!
「……まあ、ある意味、敵が一箇所に纏まってて探し回る手間が省けたとも言えます。それに、マリー様が引っ越して来なかったら、俺はマリー様に出会えなかったでしょう?」
「フィー……っ!!」
マリーは金色の目をきらきらと輝かせてブレスを見つめた。
対するエチカとミシェリーは、冷ややかな目でブレスを眺めている。
なぜだ。
「エミスフィリオ。そのへんでやめておきなさい」
クルイークを連れて狩りに出ていたカナンが戻り、ブレスのつむじを指で弾いた。
地味に痛い。
「魔女をたらしこむとろくなことになりませんよ」
「たらしこんでなんかいませんよ。ただ情報のすり合わせをしていただけです。このままだと海に出て、帝国に近づいてしまうって」
「ああ。そうですね。僕もちょうど、その話をしようと思っていたところです」
カナンは手慣れた動作でクルイークが引き摺ってきた大きな雉の羽をむしり始めた。
血と内臓は既に抜かれているらしい。クルイークが食べてしまったのだろう。
もう一羽をクルイークから受け取って、ブレスも羽をむしる。雉肉はわりと美味しい。
「ライラの示す道は帝国に向かっている。おそらく今年の旅の終着点は、帝国だろう」
驚きはなかった。そうだろうな、とは思っていた。
「でも先生、帝国で春の君に眠りの魔法をかけてもらうのは、ちょっとまずいんじゃないですか?」
眠ったカナンがどんな状態になるのかは知らないが、眠っているからには動けないはずだ。
となれば、カナンを欲している帝国からすればなんとも都合の良い話である。
「ああ。要するに、僕があの地で眠りについても問題がないよう、身辺整理をしなくてはならない」
「……なるほど」
つまり、帝国を地図から消すのだ。
「んー……だったらとりあえずその、炎帝とか呼ばれている暴君のガヌロンと、影の魔女をどうにかして、冬の間だけでも宮殿を乗っ取るって感じかな。その間にフィーは兄さんといろいろ出来るだろうし」
違った。地図から消す必要は無かったようだ。
「……さすがマリー様。目から鱗です」
『いまこいつ、すごい過激なこと考えてたわよ』
ミシェリーのジト目の、なんと居心地の悪いこと。
ブレスはぽりぽりと頬をかきつつ、苦笑いを浮かべる。
「すみません、なんかフェインのあの様子が頭から離れなくて。冷静じゃないみたいです」
「無理もない」
カナンが労わるような目でブレスを見やる。フェインと話をしたのはカナンだ。
あの憔悴した姿を見て、思うところもあったのだろう。
「あの若者が言ったように、帝国は君たちにとって危険な国です。もしかしたら、戻ってくることは出来ないかもしれない。僕も、完全に死んでしまったものを生き返らせることは出来ませんからね。同行するか、戻るか……海を渡る前に、よく考えなさい」
エチカは神妙な面持ちで頷く。ブレスの心は決まっている。
なにがあっても、フェインを死なせはしない。
その夜のことだった。
食事を済ませ、ブレスはいつものように素材に刻印をしようとしていた。
ところが連日作業をしていたせいで、無印の素材が底をつきかけている。
いざという時のためにも、まっさらなものは持っていた方がいい。
「ちょっと川浚いに行ってきます」
ブレスは、いつものように木にもたれて目を閉じていたカナンに告げてから、ミシェリーと共に川辺にむかった。
常に流水にさらされている川底の石やガラス片は、水に清められているため無垢である。
無垢な素材であるほどに印は素直に、純粋に発動する。
とはいえ、無垢でないからといって効果が全く出ないということはない。
刻印者の魔力や、素質によって、どうにでもなることだ。
夜道を歩くことにもすっかり慣れた。
オイルランタンに言霊で光を閉じ込めて、それを片手に水辺まで歩く。
魔術師のブーツは防水なので、そのまま川の中へ入り、ランプの灯りで照らしながら川底を覗き込む。
丸く磨かれた石がいい。白ければ見栄えもする。
時折光を反射して光るものはガラス片だ。これも、角が取れた丸みのあるものを拾う。
そういったものを拾い集めながら水の中を歩いていると、ふと、揺らいだ水面に何かが映り込んだ気がした。
「なんだ……?」
はじめは、自分の影だと思った。次に、誰かが近くにいるのではないかと予測した。
ブレスは明かりを掲げ、あたりを見回した。
「……だれもいない」
『どうかしたの?』
川辺で待っているミシェリーが、ブレスの動きに気づいて声をかけてくる。
なんでもない、と答えようと振り返りかけたその時、何かがブレスの足首を掴んだ。
視線を落とすと、やたらに青白い、人間の手だった。
「……え」
おかしい。この川は、せいぜいふくらはぎ程度の深さしかない。
そんな水深に、人間が隠れられるはずがないのだ。
これはなんだ。
これは、まずいのではないだろうか。
「……ミッチェ、なんか川に変なのがいるんだけど……っうわ!」
川に引き摺り込まれた。




