74話 友人〈とも〉
味はともかく、カナンの薬の効果は確かだった。
ブレスだって解ってはいるのだ。
解ってはいるが、嫌なものは嫌なのだ。
ミシェリーが言うには、薬を口に突っ込まれたブレスは陸に上がった魚のようにバタバタとのたうっていたらしい。
「何が大丈夫ですよ、だ……」
「アハハハ、フィー、まだ言ってんの」
マリーがけらけら笑いながらブレスの背を叩く。
恨めしげにマリーを見つつ、ふと顔を上げたブレスはエチカの姿が見えないことに気がついた。
「マリー様、エチカは?」
「あ? あ、う、うーん……」
気まずそうに目を逸らすマリー。
この反応はなんだ、と思いつつカナンを振り返ると、カナンは無表情の笑みを貼り付けたままスッと視線をずらした。
非常に不安になる無言のお返事。
『あの子、逃げちゃったのよ』
猫の姿に戻ったミシェリーが、半眼で答える。
「逃げちゃったって? まさか、裏切ったってことは……」
『じゃなくて、カナリアとサハナドールに押さえつけられて死にそうに苦しんでいるお前を見て、びびって逃げちゃったの』
「あー……」
たしかに、神様ふたりが人間を囲って、寄って集って痛めつけているように見えなくもない。
ひどい絵面だ。
「そうか、無理もない。もともとエチカは、先生たちのこと怖がってたから」
『普通はみんな怖がるのよ。まったく平気な顔をしているお前の方が異常よ』
「あ、そういえばフィー、呪い解けたんだよね。どうよ、なんか変わった?」
非常に大雑把な質問を投げかけてくるマリー。
どうよ、と言われても困る。
「いや……あまり実感はありませんが」
「あっそう。まあ、まだ魔術使ってないもんね。なんとも言えないよね」
「我々を見て異常な危機感を感じたり、圧倒されるような感覚を覚えたりは?」
カナンが確かめるように訊ねる。
ブレスはしばし、じっとカナンとマリーを見つめる。
しっかりと目を合わせてみよう。今日もカナンの目は異様に輝いているが、これはいつものことだ。
マリーはどうか。こちらはやたらと赤が目につく。そしてその赤が、彼女にはどうしようもなく似合うのだ。これもいつものことである。
「……なんというか、改めて見ると」
「見ると?」
「おふたりとも、すごく美しいですよね……」
ため息混じりにそう答えると、マリーはずっこけ、カナンは横を向いて袖で口元を隠した。
笑いを堪えているらしい。
「フィー、ありがと……嬉しいけどさ、そういうこっちゃないんだよ……」
「まあ、良いではありませんか。エミスフィリオ、エチカを探して来てください。帝国人が近くにいるかもしれませんからね」
「先生が行けばいいじゃないですか……」
「逃げられてしまうので」
なるほど、たしかにそうだ。ブレスは仕方なく立ち上がるが、まだ本調子ではなかったらしい。
引き攣るような痛みを覚えて腹部をおさえた。
「大丈夫ですか。もうひと口、薬を」
「いえ、アレは嫌です。それより先生、ブランを貸してほしいのですが」
カナンの気遣いを真顔で流しつつ頼み込むと、カナンが呼ぶまでもなく影からブランが現れた。
木に寄りかかって立つブレスに擦り寄り、ブランは馬特有の優しく賢い目でブレスを見つめる。
「この子は、君の使役に下りたいようですね」
「まさか。思いっきり見下されてますよ」
最近は懐いてくれたようには見えるけれど、それだけだ。
そうだろう、と呟きつつブランを見やれば、先ほどよりも目元が険しくなっていた。
「あれ、怒った……?」
「まあ、よい。とにかく、早くエチカを見つけて戻ってきなさい」
呆れた様子でため息を吐き、カナンはおざなりに手を払った。
痛む腹を庇いつつあぶみに片足をかけ、ブレスは騎乗する。
ミシェリーは猫の跳躍力をもって軽々とブレスの前に飛び乗る。
ブランはやや不機嫌そうに、けれど進行方向に迷いなく、林の中を進み始めた。
エチカはすぐに見つかった。
彼女が隠れるのが下手というわけではなく、ブランの謎の感知能力とミシェリーの嗅覚のおかげだ。
木の上で獣のように周囲を警戒していたエチカは、白い二角獣に乗ってのんびりと現れたブレスを見て狐につままれたような顔をした。
「エチカー、先生たちが心配してたぞ。戻ろう」
「……拷問された挙句殺されたのかと思ってたわ」
物騒なことを呟いたエチカは、そこそこの高さから飛び降りてスタッと着地。
身軽な動きに目を奪われていると、ミシェリーが不服げに鼻を鳴らす。
ブレスはミシェリーの首を撫でながら、やや距離をとって立ち止まったエチカを見下ろした。
「先生は、俺にこびりついていた呪いを取り除いてくれただけだよ」
「あんたがそういうなら、そうなんでしょうね。信じるわ」
「エチカが素直だと……? 君、本物か?」
「あら、毒舌がお好みならそう言ってくれればよかったのに。被虐趣味なのね、へぇえ?」
挑発的に顔を歪めて笑うエチカ。いつも通りだ。
ブレスは苦笑しつつ横腹を押さえる。だいぶましになってきたけれど、まだ痛むのである。
「調子が戻ったようで何よりだよ」
「……頭が高いわよ。わたしも乗せなさい」
怖い笑みを引っ込めたエチカが、今度はむすっとした顔でそう言った。
もとよりそのつもりだ。ブレスは頷き、エチカはブレスの後ろに跨った。
のんびりときた道を戻るブランの上で、沈黙が流れる。
遠慮がちにブレス肩に捕まっているエチカの手の感覚をぼんやりと感じながら、ブレスはうとうとと目を瞑る。
今日はやけに疲れていた。解呪で体力を消耗したためだろう。
肩に添えられたエチカの手に、きゅっと力がこもる。
くぐもった彼女の声が、背中で言った。
「……あのね、わたし、ずっと訊きたいことがあったのよ」
「ん……?」
「フェインが王の子で、あんたの兄さんなら、あんたは……その」
ああ、その話か。
エチカにどこまで話していいだろうか、と考えながら、ブレスは曖昧に頷く。
「父親は、同じらしいね。先生に言われるまで、何も知らなかったけど」
「それは兄さんのこと? それとも、あんた自身の出生のこと?」
「あー……それは、ふた月半くらい前に知った」
「じゃあ、エルシオンを出たときには知ってたのね」
エチカは何が言いたいのだろうか。
眠気と困惑に沈黙するブレスの背中で、彼女は微かに怒気を孕んだ声で言った。
「なんで、黙ってたのよ。いままでずっと。教えてくれたってよかったじゃない」
(ああ、それがエチカの中で引っかかっていたのか……)
エチカは、ブレスが彼女と旅をすることが決まった時点で、それを打ち明けて欲しかったのだろう。
レイダという男を介してではあるが、エチカもウォルグランドと関わりを持った人間だ。
隠し事をされて、それで怒っている。エチカの気持ちもわからなくはない。
しかし。
「だって君、俺のこと後ろから刺したじゃん」
うぐ、と背後でエチカが息詰まる。
「いまは別に、もう何とも思ってないけど。あんなことがあった後で、君に俺の一番の秘密を打ち明けろっていうのは……ちょっと、無理があると思うよ」
苦笑混じりに、やや戯けて言うブレスの声に、エチカは完全に沈黙した。
エチカを相手に口で勝ったのは初めてかもしれない。
やがてエチカは、普段よりおとなしい口調でぽつりと謝罪を呟いた。
「……あの時は、悪かったわ」
「いいって。二度目は無いんだろ?」
「無いわ。だって、友達ですもの。その……そう思っていいわよね?」
「もちろんだよ」
首の辺りで、エチカがほっと息を吐く。
そうしてふたりは、カナンたちの待つ野営地へと戻った。
「ああ! エチカ、おかえり! ごめんね、怖い思いさせちゃったよね」
ブランから降りるなりエチカに抱きついたマリーは、そのまま硬直したマリーを抱えたまま座り込んだ。
お気に入りのぬいぐるみを抱く幼女のようだ。
借りてきた猫のようにおとなしくなったエチカを苦笑しつつ、ブレスはブランから降りる。
足元がおぼつかないブレスを、ブランが首を伸ばして支えてくれた。
「今日はもう休みなさい」
カナンの一声に、マリーとエチカが顔を上げる。
視線を浴びて居心地の悪い思いをしつつ、「でも、刻印をしないと」と答えると、カナンの静かな目がすっと細められた。
「明日はフェインに結論を伝えに行くのです。君が動けないようでは困ります」
「そうだよフィー、悪い返事をするんだから別行動は取るべきじゃない。ひどい顔色だよ。寝た方がいいよ」
「そう……ですね。わかりました」
疲れているのは事実だったので、師の気遣いをありがたく思いながら頷いた。
ブランの首を感謝を込めて軽く叩き、ブレスはそのまま会話の邪魔にならないようにやや離れたところで横になる。
ミシェリーがトコトコとやってきてブレスの腹の辺りで丸くなり、二角獣のブランも当然のような顔で着いて行ってブレスの背を守るような位置で膝を折る。
「……おやすみ、ミッチェ、ブラン」
なんだか妙に安心して、いつのまにか眠ってしまった。
⌘
誰かの話し声で目を覚ました。
微睡の中で聞くその声は、カナンでもマリーでもエチカでもない、けれど聞き覚えのある声だった。
少女の声と、男の声。
押し殺した声で口論をするふたりの声は、遠すぎて聞き取れない。
何を話しているのだろう。
ブレスは耳をすませる。
──このままではふたりとも死ぬの。いつまでも言いなりになっている気。
──どうしろと言うのだ。私が従っていれば、少なくとも民の命は守られる。
──でもあの男は兄様を殺すわ。兄様は最後の希望なのよ。もう皆は、わたしも、抗うことに疲弊してる。
──……例え私が命を落としても、まだお前がいる。
──わたしでは無理なのよ。兄様、わたし……きっと、闇に落ちてしまう。
──馬鹿な。いけない。あの女と同じものに、お前までもが。
──わたしは抗えない。解るでしょう、一刻も早く……。
声が途切れる。
おかしな夢を見た、と思いながら、ブレスはぼんやりと目を開ける。
赤い髪の裸足の少女が、真上からブレスを見下ろしていた。
「助けて」
はっと息を呑んで飛び起きると、少女の姿は消えていた。
⌘
どこまで夢で、どこからが現実だったのか。
翌朝、朝食の支度をしながら悶々と考え込んでいると、突き刺さるような視線を感じた。
振り返れば、カナンが、こめかみに指を当ててじっとりとブレスを見つめていた。
無言の圧力だ。
「…………」
ブレスはそっと目を逸らした。
ものすごく物言いたげな師を前に口を開きかけたが、これから帝国の使者に話をつけに行くのだ。
今は夢の話などしている場合ではない。
故意に無視をすると、刺さる視線がひとつ増えた。
横目で見れば、マリーが猫のような目でブレスを見つめていた。カナンの真横で。
「マリー様、悪ノリしないでください」
「だって気になるんだもんさぁ」
にへらっと笑うマリーの普段通りの調子に、ブレスもつられて笑ってしまった。
この女神の笑顔は人を救う。
「大したことじゃありませんけど、後でちゃんとお話ししますから」
「だってさ。カナン」
マリーに突っつかれたカナンが、ふう、とため息を吐いて目を閉じた。
とりあえず納得してくれたようだ。
この師を相手に隠し事は出来そうにない。
朝食をかるくすませ、四人は出立の支度を始めた。返答を済ませた後は、そのままここを発つ予定だ。
「クルイーク。フェインに答えが出たと伝言を」
見張りに出ている悪霊犬に言い付けて、カナンは一同を見回した。
「では、行きましょう」
ノワとルナ影から呼び出し、カナンとマリーが騎乗する。
ブレスとエチカはブランに相乗りした。もちろん、ミシェリーも一緒である。
「気を引き締め、くれぐれも油断しないように」
「はい、先生」
そして一行は、進み始める。




