72話 作戦を立てよう
カナンが戻ったのは空が夕暮れに染まる時刻だった。
ノワに騎乗して戻ってきたカナンは、幾分影のある面持ちをしている。
「おかえりなさい、先生」
声をかけると、カナンは「うん」と短く答える。
プライラルムとの話し合いの結果が芳しくなかったのだろうか。
ノワを影に戻したカナンは、ふうとため息を吐いて眉間を揉んだ。
妙に人間臭い仕草に、この人も変わったな、とブレスは思った。
出会ったばかりのカナンは胡散臭くも超然とした男だった。
もちろん、今のカナンの方がブレスとしては親しみやすくて好きだ。
「君の方は、だいぶ気持ちが落ち着いたようですね」
「お陰様で。その……生意気な口をきいてすみませんでした」
「気にする必要はない」
カナンは目元のみで軽く微笑し、そのままよだれを垂らしてうたた寝をしているマリーの横に座った。
「……んぁ? あ、おかえりカナン……どうだった?」
眠た気な目を瞬きつつ、マリーは率直に訊ねた。姉弟である彼らの間には遠慮など無用の長物らしい。
「好きなように選べばいいと言われた。旅の途中で何が起ころうと気にはしないと。最後にライラの元へ辿り着くことができるのならば、何の問題もないだろう、と。ライラは何がしたいのだろう」
どこか途方に暮れたようなカナンの言葉を聞きながら、ブレスは乾かした枝をくべて火をともす。
最近は印を使うよりも言霊で炎を呼ぶ方が早い。
「燃えあがれ」と呟くと、ぱっと熱と光が立ち上り、瞬く間に燃え始める。
マリーはぼんやりと、物憂気にその光景を眺めている。
「カナンは姉様が好きだよね。だから、こんなことは聞きたくないと思うけど……」
「いや。いまは僕も、サハナの考えが聞きたい」
「……ライラはさ、カナンのこと許してないんだと思う」
狩りに出ていたエチカが、鴨肉を持って戻ってきた。血抜きも済ませて羽も内臓も綺麗に取り除いたそれに、彼女は香草を詰めて塩や香辛料をまぶす。
ブレスとエチカは沈黙を守ったまま、食事の支度を続ける。
「だって生み出したのはライラなんだよ。姉様にとってはこの世の中の生き物すべてが可愛かったんだ。
エッタもあたしもライラの作ったものに関わったから、あの日カナンが全部殺してしまった時はショックだったし、怒りもした。
ライラはあたしたちとは比べ物にならないくらい、すごくすごく傷ついたはずなんだ。だけどライラは、それをほとんど表に出さない。
姉様はさ、内側に溜め込むひとなんだよ。発散できないんだ。言わない。でも抱えている。ライラは嘘はつかない。でも本音は絶対に言わない。
あたしには、カナンは姉様に虐められているようにしか見えない」
(……嫌がらせかぁ)
たしかにと思う部分もある。ブレスも、カナンが道順を指定されていると聞いた時に思ったものだ。
カナンの行く道には厄介ごとが並んでいると。
カナンはそれを、世界への贖罪だと結論づけた。
けれどもし全てが、春の乙女プライラルムの個人的な感情による意趣返しであるとするならば。
カナンの旅は、大義名分を失ってしまうのではないだろうか。
絶対に許してはくれない相手から、永遠に罰を受け続けることを、贖罪とは言わないだろう。
いくら罰を受けたとしても、罪は贖われないのだから。
「……そうか」
カナンは小さく、そう答えただけだった。
沈みこんだエメラルドの目はぼんやりと焚き火を見つめていた。
やがてカナンは諦念と自嘲を混ぜたような表情を浮かべ、マリーの横に放ってあった葡萄酒の皮袋をつかむと、喉をそらしてごくごくと飲んだ。
呆気に取られて金色の目をまんまるにするマリーに皮袋を返し、カナンは親指の腹で唇を拭う。
「では、朝の話の続きを」と何もかも切り替えたような明瞭な声で宣言した師に、ブレスは安堵の笑みを浮かべた。
香草や野菜と共に蒸し焼きにした鴨肉を食べながら、四人は顔を突き合わせて話し合いを始めた。
エチカはマリーの説得に成功した。マリーが影の魔女のもとへ赴く際は同行する、ただし処分するか否かはその状況による、という方向で話は纏まったそうだ。
「では君のほうについて。帝国が僕個人と敵対する、という構図を作りたいわけですが、そのためにはエミスフィリオに害を被ってもらう他無いと僕は考えます」
「え、待ってください。なんでそうなった?」
思わず素で訊き返してしまった。
頭の中が疑問符で埋め尽くされるブレス。一方で、女性陣は理解の表情を浮かべている。
「まあ……気の毒だけど、仕方ないんじゃないかしら?」
訂正、理解と憐れみの表情を浮かべている。
マリーが苦笑いを浮かべながら解説した。
「ほら、帝国がわざわざカナンに面と向かって喧嘩を売る理由がないじゃん? 相手はカナンが何であるのかを知っているわけだしさぁ。
だからこう、君が帝国の連中にボコられて、実はカナンの愛弟子でしたー、帝国は虎の尾を踏んでしまいましたー、怒ったカナンは神様なので話が通じませんでしたー、ちゃんちゃん、みたいな」
みたいな、ではない。
「なんですかそれ! そんな美人局みたいな強請り──というか俺また死にかけなきゃならないんですか!?」
「……まあ、生死の境をさまようくらいでないと、僕も怒りにくいですからね」
「……! ……!!」
人はあまりにも突拍子のないことを聞かされると絶句する。ブレスは身をもって知った。
エチカはふうとため息を吐きつつ、鴨肉の骨を投げ捨てる。
「しょうがないじゃない。兄さんを助けたいってのはあんたの我儘なんだから、そのくらいの負担は負いなさいよ」
「そ、それはそうだけど、帝国人が手加減してくれるわけないし、下手したら本当に死ぬじゃないか」
「死んだらそこまでの男だったってことよ」
「そんな殺生な!」
やりとりを聞いていたマリーがブフッと吹き出す。「エチカってなかなか言うよねぇ」と可笑しそうにカナンの肩を叩き、カナンは苦笑する。
(よかったわね、お守り作りを練習しておいて)
ミシェリーの念話に、ブレスはハッとして黒猫妖精を見つめた。
たしかにその通りだ。
今回は手傷を負わなければいけないので〈呪い返し〉は使えないが、うまく調整すれば何があっても命だけは助かるようなお守りが作れるかもしれない。
いや、お守りというよりそれはもはや魔術具である。
ここのところお守り作りをしていて気づいたことがある。魔力で印を刻むという作業によって作り出されるものは、すべからく魔術具であるということだ。
護りに重点を置いて印を刻めば護身のお守りになるが、たとえば気配を遮断するための印を腕輪に刻めばエルシオンの番犬たちが重宝していた〈遮断の腕輪〉となる。
ブレスは知らず知らずのうちに、魔術具を自作できるようになっていたのだ。
高価かつ効果の限定された既売品を使うよりも、遥かに使い勝手のいい道具を、自由に生み出せる力を得た、ということである。
ミシェリーの言う通りだ。やりようはある。
「……まあ、なんとか……頑張ってみますよ。だけどその策でいくと世間での、先生の神様としての株が暴落すると思うんですけど、いいんですか?」
「ふ。僕の評判は元から最悪なので、今更どうということもありません」
「…………そうですか」
カナンの目が少々やさぐれているが、本人がいいと言うのならばいいのだろう。
そういうことにしておこう。
とにかく、刻印の練習はおしまいだ。今日から作るものは、実際に身につけるもの。
真剣な面持ちになった弟子を一瞥し、カナンは小さく咳払いをする。
「それで、フェインについてですが……彼には何も知らせぬ方が良いかと思います」
「え……でも。だったら、どうするんです」
フェインはカナンたちと共にいた方が安全なのではないだろうか。
例えばそう、捕虜のような形で。
不安気なブレスに向き直り、カナンは述べる。
「僕は、彼の申し出──皇帝との対談を断ります。使者である彼には、その結果を持ち帰ってもらわなければならない。そうでなければ、帝国も行動を起こしようがありませんからね。
つまり彼は、どうしても一度自陣へ戻らなければならないのです。何も知らない方がかえって安全でしょう。レイダの件がありますから」
「フェインは使役を飛ばせると言っていたわ。それではダメなの?」
エチカが眉間を寄せて意見する。マリーはううん、と首を振る。
「本人がいないんじゃ、裏切りの疑いをかけられるね。あたしも、フェインはいったん何も教えないで自陣に戻した方がいいと思う。気持ち的には、味方だって言ってあげたいけど」
「そう。……そうね」
ブレスも、項垂れつつ頷く。
フェインには申し訳ないが、もうしばらく絶望していてもらうことになりそうだ。
「もどかしいですが……わかりました。黙っています。でも、話していいタイミングが来たら教えてください。俺から話したいです」
「いいだろう」
カナンが寛容にに首肯する。話は纏まった。
フェインを呼びつける日は明後日。
ブレスは一日の猶予で、作れる限りの魔術具を作る。
使者の持ち帰った返答を受け、帝国が何日で動くかは不明だ。
まさか翌日ということはないだろうけれど、万が一そうだった場合ブレスには身を守る術がないので、一日待ってもらうことにした。
「頑張って、フィー」
「はい。マリー様」
マリーの激励にブレスはしっかりと頷く。
なにしろ自分と兄と、兄の大切な人々の命がかかっているのだ。
しくじるわけにはいかない。
食事が済み、ブレスはいつものように木にもたれて座る。
ここ最近はこうして手作業をするのがすっかり日課となっている。
溜め込んでいたお守り作りの素材から、水流で磨かれた綺麗なガラス片をいくつか選び、〈魔物避け〉と〈呪い返し〉と〈目〉の印をそれぞれ刻む。
「……うん、綺麗に描けた。ミッチェ、ちょっと血をくれる?」
隣に座ってじっとブレスの手元を見つめていたミシェリーが、一瞬怪訝に目を向けて、ああ、と頷く。
尖った歯でちょっと舌を噛んだミシェリーは、血の滲む舌で〈目〉の印を舐める。
これで印に血が登録されて、ミシェリーが魔力を流した時のみ〈目〉が発動する様になった、というわけだ。
「紐は何がいい? と言っても、革紐と麻紐と編み紐しかないんだけど」
『皮がいいわね。人の姿になった時にもつけられるように長めにしておいてほしいわ』
「あ、そっか。だったら人型になってくれる? 長さ、確認しないと」
『……しょうがニャいわね』
やや不本意そうに目を細めるも、ミシェリーはとことこと歩いて木の後ろに隠れた。
ブレスは黙って待つ。
ほんの数秒後、木の後ろから黒髪の少女が斜め下に目を逸らしながら顔を出した。
豊かで艶やかな黒髪をひたいの真ん中で分けた、金色の目の天使。
ウォルフはエチカが天使に見えたと言っていたが、ブレスにはミシェリーが天使に見える。
そんなことを考えていたら、思念が伝わってしまったのかミシェリーがフイと顔を背けた。
彼女はブレスに背中を向けて座り、髪を持ち上げて細い首を晒した。
「早くしてよね」
「うん」
ゆっくりとミシェリーの首に革紐をかける。輪にしたときに頭が通るくらいの長さがあればいい。
あっという間に作業は終わってしまった。
「ちょっと待ってて」
ブレスは刻印したガラス片に穴を開け、三つの印を革紐に通した。
微妙に色の異なるそれは、焚き火の灯りに染まり、キラキラと星のように輝いていた。
ブレスは満足気にそれを見つめた後、唇に近づけて言霊を込める。
「ミッチェをいつまでも守ってくれますように」
金色の光の粒子が弾け、ブレスの言葉と共に刻印に吸い込まれていく。
ミシェリーはその光景を魅入られたかのように見つめていた。
「できた」
ブレスは出来たばかりのお守りをミシェリーの首にかける。
金色に染められた刻印が、瞬く間にミシェリーの魂と結びついた。
胸元で光る、贈り物。
ミシェリーが大切そうにそれに触れるのを見て、ブレスは笑む。
猫の姿に戻ったミシェリーは、次のお守りを作り始めたブレスからそっと離れて、以前の宿主の元へ歩んだ。
『ねえ、サハナドール……これ、絶対に壊れないように出来る?』
「……うん。もちろん、やったげるよ」
嬉しそうな猫妖精を見て、マリーは柔らかく微笑む。
マリーは願っているのだ。
彼女の元で幸せにしてあげることが出来なかったこの黒猫に、運命の宿主と末長く結ばれる未来が訪れることを。




