69話 接触
正直どうすればいいのかわからないのよね、とエチカは言った。
ブレスの横で、川魚を釣りながら。
長く暗い夜は開けて、朝がやってきた。
ふたりは朝食用に魚を獲りに出ている。
「昨日の話を聞いたら、なんだかお母様が可哀想になっちゃった。豊穣の魔女はああ言っていたけど、わたしは……」
「出来ることなら救ってあげたい?」
「ええ」
わからなくもない。
実際、ブレスだって影の魔女が生まれた経緯を聞いて似たような感情を抱いた。
ましてや影の魔女は、もともとはマリーの一部だったのだ。
エチカはその辺りのことは知らないけれど。
「歌う者は居ない。嘆く者は絶えた。されど人形は朽ちること無し」
エチカはため息と共に、ぽつりと詠唱の一部分を呟く。
「お母様は死なない子供が欲しかったのね」
「そうだろうね。だから〈不滅の人形〉を作りだした」
「本当の子供たちは、みんな死んでしまったから……」
震えて途切れたエチカの声。
横目を向けると、彼女はぽろぽろと涙をこぼしていた。
「わ、わたし、わかってるのよ。ちゃんと。死なない子供が欲しかったのなら、わたしはただの実験道具だったんだわ。もしかしたら魂だけは、人形に詰めるために残してくれたかもしれないけれど、でも……」
「エチカ……」
「人形に憑依する実験とか、魂を別ける実験とか、きっとお母様が生き延びるための予防策だったんでしょうね。
いざとなったらきっとお母様は、肉体を捨てて人形に入るつもりで……そのための準備のために、わたしを買ったんだわ。
わかってるわ、だけど、お母様は……嘘でも愛してくれたのよ。わたしには殺せない……死んでほしくない……!」
声を押し殺して泣くエチカはとてもか弱く見えた。
いつもの当たりの強い彼女の面影はどこにもない。
こんな時にウォルフがいたら、どんな言葉をかけるのだろうか。
ふとそんなことを思いつくも、ブレスは苦笑を浮かべて首を振った。
ブレスはウォルフではないのだから、ブレスができることをすれば良いのだ。
「マリー様に話してみるよ」
釣り上げた魚の口から針を外しつつ言うと、エチカは濡れた目を擦りながら頷いた。
「あんたって戦力外だけど、化け物みたいな相手に平気で話しかけられる点はすごいと思うわ」
「……それ褒めてるの、貶してるの、どっち?」
「褒めてるわよ。わたしは捻くれてるから素直になるのが苦手なの」
言い訳のように小声で付け足したエチカは、ブレスをちらりと見上げてちょっと困ったような顔で笑った。
ブレスは思った。親友は、この子のこういう表情に心臓を射抜かれたのだ、と。
不覚にもどきっとしてしまったブレスの肩に、ミシェリーが苛々と爪を立てる。
「ありがとうミッチェ、親友の想いびとを好きになるわけにはいかないからな。次からも容赦なく頼む」
『耳でも噛みちぎってやろうかと思ったわ』
「そこまでしなくても良くない!?」
フン、とミシェリーはそっぽを向く。最近、というかエチカが旅に加わって以来、ミシェリーのご機嫌はよろしくない。
獣の血を浴びる女を、猫妖精の彼女が嫌わずにいられないのは仕方がないのかもしれないけれど。
「あ……ちょっと。誰か来たわ」
「うん?」
毛並みをなでなでしつつ顔を上げると、下流のほうから赤毛の男が歩いて来ていた。
背が高く、くすんだ水色の目をしている。
髪が長い。魔術師だ。
このあたりでは見かけないような旅外套を着ているその男はまだ若い。
ブレスと五年も歳が離れていないように見える。
その男は、ふたりを見てへらっと笑いかけて片手を上げた。
ブレスは顔をしかめる。
「……ミッチェ、なんかすごい嫌な予感がするんだけど、逃げるべき?」
『なぜ? ただの魔術師じゃニャいの』
「それはそうだけど、魔術師って本当は百人に一人くらいしか成れないんだよ。資格をとっても歳を重ねると結婚やら伸び悩みやらでどんどん数が減っていくから、こんな辺鄙な場所で偶然会うような職種じゃないんだ」
これまでは、魔術師協会のある町や、魔術の発展の礎となった国や、魔道学舎のある都市だったからこそ同業者も多かった。
けれどここはそうではない。
『ということはあの男、カナリアが目当てで……?』
「その可能性はあると思う。エチカはどう思う?」
「なんとも言えないわ。知り合いの可能性は無いの?」
『無いわね。あれは見た目通りの若造よ。〈古きもの〉じゃニャいから違うわ』
「じゃあ、とりあえず距離を取って話してみてダメそうだったら殺しましょう」
「……なにも殺さなくたっていいのでは?」
「殺るべき奴は殺れるときに殺っておかないと後で後悔するのよ」
この少女は本当に、先程まで母を殺されたくないと泣いていた少女なのだろうか。さすがもと暗殺者である。
切り替えが早すぎて着いていけないブレスを置いて、エチカは立ち上がり「止まりなさい!」と声を張り上げた。
赤毛の男は離れた位置から手を振って「あやしい者ではありませんよー!」と間伸びした声で返してきた。
「……なんか、あんたと初めて会った時のことを思い出すわね」
「ああ、番犬の本部の前で?」
「そう。思いっきり家捜ししてるのに、第一声があやしい者ではありませんって、馬鹿なの? と思ったわ。あの魔術師も馬鹿かもしれないわね」
「く、口が悪いぞ!」
「ごめんなさいね。緊張してるのよ」
エチカは緊張すると人を罵りたくなるらしい。変わった性格だ。
ミシェリーが耳元でフクスッと笑った。和んだ。
「こちらは師に追従して旅をしている魔術師よ! 敵意はないわ!」
エチカが初っ端から大嘘を吐いている。
ダメそうだったら殺そうとか言っていたのはどうした、と苦笑する一方で、交渉事が得意そうだなと感心した。
「君たちの師は〈古きもの〉か!」
「その前にお前がどこの誰なのか名乗りなさい!」
「私は高貴なお方から遣わされた使者だ! ある〈古きもの〉を捜している! 君たちの師がその捜し人である可能性があるので会わせてもらえないだろうか!」
エチカの眉間が寄る。
「……面倒臭いわね。使者を殺したらその主人に喧嘩を売るようなものだわ」
「じゃあ殺さない方向で」
「役立たずはお黙り」
また罵られたが、ミシェリーがフスフスと笑ってご機嫌なので良しとする。
エチカは再び声を張り上げる。
「人数は!」
「今は私だけだ! 私が帰らなければ後詰めが来ることになっている! 使役に言伝を頼むこともできる!」
「チッ……これじゃ選択肢がないじゃない」
「先生が目的じゃない可能性もゼロではないよな」
「ゼロかゼロじゃないかで言ったら殆どの可能性がゼロじゃないわよ」
「まあね。はあ、でもきっと先生が目当てなんだろう。またウォルグランドの人かな」
「とにかく会ってもらうしかないわね」
すう、と大きく息を吸い込み、エチカは答える。
「わかったわ! 師に先触れを出すから、そこで動かずに待っていなさい!」
「助かる! こちらとしても穏便に済ませたいと思っている!」
穏便に済ませてくれるのなら何よりだ。
ブレスがほっとしている一方、エチカは苛々と腕を組む。
「ってことは、反撃する用意があるってことじゃないのよ。糞が」
「エ、エチカ。ちょっとさっきから怖いんだけど」
「いいからあんたは先生を呼んできて。どこかにあいつの仲間が隠れているかもしれないから、ちゃんと守護妖精を連れていくのよ」
指示が的確だ。場数を踏んできた彼女の判断能力は伊達ではない。
ひとつ心配があるとすれば。
「エチカがひとりで残るのか?」
「わたしはひとりじゃないわよ。七体の人形がある。ここからでもあの男の背後を取れるわ。だから見張りは任せて、さっさと行きなさい」
突然エチカに背後を取られた実体験のあるブレスは苦笑するほかない。
「……わかった。危なくなったら人形を一体寄越してくれ」
「ええ」
男から目を離さずにエチカが頷く。ブレスは身を翻して来た道を戻った。
カナンは走って戻ってきたブレスを見、異変を感じ取った様子ですっと目を細めた。
地べたに胡座をかいてカナンと話していたであろうマリーも、金色の目をじっと向けている。
「どうしました」
「あの女の子は?」
ブレスからことのあらましを聞いたふたりは、一瞬不穏に目を光らせた。
しかしそれをすぐに打ち消して、カナンは何事もなかったかのように三頭のバイコーンを影から呼び出し、自身はノワに跨る。
「馬で駆けた方が早い。ふたりとも、乗ってください」
「へえ。綺麗な子じゃない」
マリーが手を伸ばしたのはブランだった。マリーがブランに乗るのならばとブレスがルナに近づくと、ブランはツカツカとブレスに寄ってきて、ぐいっとルナを押しのけた。
「……おやおや」
カナンが意外そうに眉を上げ、マリーがにまりと笑う。慌てたのはブレスだ。
「マリー様に失礼だぞ」と言い聞かせてみるも、ブランは不動のまま、さっさと乗れとばかりにブルンと鼻を鳴らすだけ。
「いいよフィー、あたしはこの子に乗るから。その子はフィー以外乗せたくないみたいだし」
「えっ? いや、そんなはずは……」
「話は後で。行くよ」
カナンに促されてブレスはブランに騎乗する。
ノワは行き先を知っているかのように迷いなく走り出し、残りの二騎も後を追った。
バイコーンは早かった。あっという間に川辺に行き着くと、ちらりと振り向いたエチカが緊張を崩して呆れ顔を浮かべる。
「先生、それじゃまるで武装してるみたいに見えるわ」
「ああ、そうだね」
ブレスが男の方へ目を向けると、赤毛の使者は木立から現れた三頭のバイコーンを見て硬直していた。
逆の立場だったらブレスだって身構えるだろう。
ツノの生えた物々しくも立派なバイコーンが、〈古きもの〉をふたりも乗せてのしのしと現れる──想像しただけで逃げ出したくなる。
三人は下馬し、カナンが三頭を影にしまう。
カナンは赤毛の男へ目を向け、わずかに首を傾げた。
まさか知り合いだったのだろうかと師を見上げれば、カナンと目があった。
「……はい? なんです、先生」
「いや……」
珍しくも煮え切らない返事だ。マリーはどうかと言えば、なにやら難しげな顔をしている。
この反応はなんだろう。
「そちらへ伺ってもよろしいだろうか!」
強張った面持ちで赤毛の魔術師が声を上げる。
エチカがカナンを見上げ、カナンは頷く。
「師は許可すると言っているわ! ……あーもう、喉が痛い」
「よく頑張ってくれたねエチカ。後で喉に効く薬をあげよう」
「い、いい、いらないわ、先生の薬は一種の暴力よ!」
カナンの労いの言葉にエチカがぶるぶると首を振っているうちに、赤毛の魔術師は熊でも相手にしているかのような慎重さでゆっくりと歩み寄ってくる。
「マリー様、熊に化けて襲い掛かったりしないでくださいね」
「まっさかぁ。あたしはこれでも穏健派さぁ」
「はは、うっそだぁ」
緊張を紛らわせるための軽口に付き合ってもらっているうちに、その男は三馬身ほど離れた位置で立ち止まる。
彼はひとりひとりを見定めるようにゆっくりと視線を巡らせた。
男がブレスと目を合わせた瞬間、小さな火花がブレスのこめかみの辺りで弾けた。
火花は頭痛を生み、ブレスは思わず右目を押さえる。エチカが怪訝に横目を向ける。
男はしばらくブレスを見つめ、すっと目を逸らした。表情に翳りが表れたように思えたのは、気のせいだろうか。
時間にすればほんの数秒のことだった。男はすぐにその場に跪き、カナンを見上げて告げる。
「フェインと申します。ヴィスターク大帝国より、冬のお方の助力を乞い願いたく参りました」
「……帝国、ですって……?」
エチカの震え声が弱々しく響く。
立ち尽くすブレスの冷え切った指を、マリーが握った。
生まれ故郷であるウォルグランドを滅ぼした帝国からやってきたというその男を、ブレスはただただ、言葉もなく見下ろしていた。




