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68話 ある愛の物語

 

 その日の夜は静かだった。


 誰も、何も話さなかった。

 普段あれだけ饒舌なマリーでさえも、昼間からずっと黙り込んでいる。


 ブレスは、騒ぐために産まれてきたような彼女しか知らない。

 明るくて、優しくて、よく笑う彼女だ。


 けれど、本当に「それだけ」の者が果たしてこの世にいるのだろうか。


 ひとには裏側がある。月のようなものだ。

 見える部分には光が当たっていて、見えない部分は影になる。


 そのうえ、マリーは魔女である。闇に落ちた女だ。

 魔女に落ちたものは皆、深い闇を抱いている。


 秋の娘サハナドールでありながら魔女である彼女は、この世界にとってどんな存在なのだろうか。


 ブレスにはわからない。カナンは知っているのか。

 そのカナンも、何も言わない。


 重く立ち込める沈黙の中で、誰かが小さくため息をついた。

 焚き火の中でパチンと枝が弾ける。


 それが合図とでも言うように、マリーが赤い唇を開いた。


「……これは昔の……千三百年くらい昔の、話なんだけど」


 彼女は語り始める。静かに、淡々と、ゆっくりと。





 ある娘がいた。気の明るい娘だ。

 娘は底抜けに明るく、博識で、情が深かった。


 娘は世界中を旅して暮らしていたけれど、行く先々でいつも誰かしらと恋に落ちた。


 情の深い娘は、誰にでも愛を与えた。その中でも情熱的な男からの求愛は、また別の充足感を娘にもたらしてくれたから、娘はいつも求愛を受け入れた。


 しかし、娘は旅立つ身。

 一緒に過ごす時間は、ひと月かふた月か、それとも一年か、二年か。


 そんな生活を数十年あまり続けたある日、娘はいつものようにある男と恋に落ち、しばらくの間生活を共にした。

 相手は聖人のように清らかな魂の、一途で誠実な男だった。


 共に暮らし始めて半月が経った頃、男は娘に結婚を申し込んだ。

 娘は喜んだが、男に「自分の子を産んでほしい」と告げられると、その夜のうちに旅立った。


 娘は、子供を産むという機能が欠落していた。


 あれほど優しく、誠実な男だ。彼が子供を望むのならば、子供を授かる相手とつがうべきだ。

 自分は彼を幸せには出来ない。娘はそう思っていた。


 それからしばらくの間、娘は旅をし、恋に落ち、旅立った。それは気ままな暮らしだった。

 しかし、娘の心には以前のような充足は訪れなかった。


 子供、という言葉が胸の深い部分にこびり着いていた。

 娘は子供を望まれて、いつしか子供が欲しくなっていた。


 子供という特別な存在からの、愛情が。


 そこで娘は、身寄りのない子供を引き取って育てることにした。

 産めないのならば貰えばいい。


 わざわざもらわなくとも、戦で親を失った孤児などいくらでもいた。

 最初はひとりだった彼女の子供は、ふたり、三人と増え、いつしか三十人近い大家族となっていた。


 人数が増えるたびに家を増築した。

 目隠しのために家の周りを森で覆った。

 成人となって出ていく子供たちを、娘は誇らしい思いで送り出した。


 娘は満たされていた。


 孤児院を作ったつもりはなかった。娘にとって子供たちは皆、我が子に等しい大切な家族だった。


 しかし、周囲の目は違った。

 娘のやっていることは慈善事業だ。事業には金がかかる。


 寄付を募っている様子もない。支援者がいるという話もない。

 数十人もの食い扶持を、衣服や食器や生活を維持するための金を、どこから得ているのか。


 また、成人し家を出た彼女の子供たちの能力の高さも噂の的だった。


 全員が同じ水準の教育を施されているというのならばまだしも、娘の家を出た子らには癒者もいれば戦士もいた。


 他にも作曲家やら商人やら料理人、果てには没落しかけた貴族の家に嫁入りして家を建て直してしまうようなとんでもない娘までいた。


 着いた職種はさまざまで、しかも誰もが才を持っている。

 本来ならば何年も下積みをしなければ得られないような、知識や能力だ。


 とても娘ひとりが切り盛りしている孤児院の出とは思えない。

 人々はさまざまに噂したが、娘は気にも止めなかった。


 娘の世界は、閉じていたのだ。

 居心地の良い家と愛する子供たち。家族と過ごす愛に満ちた日々。


 それが娘の幸福の全てだった。


 その幸福の日々に、ある男が終止符を打った。


 娘はその老齢の男を、森に迷い込んだ旅人何かだと思い、愛想よく家に迎え入れた。


 実際そういうことは稀にあった。不気味がってあまり人が寄り付くことはないが、娘の森は人を惑わせるのだ。


 日暮れだった。一晩止泊めて、明日の朝に森の出口まで送り届ければ良い。

 娘はそう思い、男を子供たちと同じ食卓につかせ、部屋を用意し、あれこれと世話をした。


 男は、ほとんど口をきかなかった。けれど、男はあらゆるものを見ていた。


 年もまばらな大勢の子供たち。

 掃除の行き届いた立派な家。

 精巧なつくりの食器。

 子供たちに囲まれて笑う娘。


 それらを暗い目で、脳裏に焼き付けるように見つめる男。

 感覚の敏感な子は、その男が怖いと娘に訴えた。


 けれど娘はさほど気にも留めずに、明日には帰るから大丈夫だと子供を抱き、宥めてしまった。


 翌朝、玄関に立ったその老齢の男は、娘を見下ろして「覚えているか」と問った。


 娘には何の話だかわからなかった。


 男はもう一度「覚えているか。俺を」と言った。娘は「覚えていない」と答えた。


 答えを聞いた男は俯き、顔上げたかと思うと凄まじい憎悪の表情で娘を見た。


「ならば今度こそ、覚えておくがいい」と男は言い、そのままひとりで娘の家を出て行った。


 娘は不安を覚えた。あの男は、何者だったのか。


 しばらくの間、その不安は消えなかった。

 それでも何事も起こらないまま三日が過ぎ、十日が過ぎると、娘は不安を忘れた。


 男の存在すらも、忘れていた。


 ひと月後、その男が大勢の武装した兵を引き連れて現れ、娘の家に火を放つまでは。


 子供たちは眠っていた。夜の奇襲だった。

 娘は血の気の引く思いで子供たちを起こし、家から逃がそうとした。


 家から出た子供たちは捕らえられた。

 武装した兵士たちが待ち構えていたのだ。


 家は燃えていく。子供たちは怯え、泣きじゃくりながら逃げ惑う。

 家の中にいれば確実に死ぬ。けれど外に出れば捕らえられる。


 娘は火を消そうと水を呼んだが、なぜか世界は応えてはくれなかった。

 それどころか炎は勢いを増し、意思があるかのように逃げ回る子供たちを追う。


 娘は愕然とした。

 どうして。なぜ、こんなことが。


 熱い、助けて、痛い、と泣き叫ぶ声がいつしか聞こえなくなっていた。

 結局半数近くの子が、焼け死んだ。


 焼け跡に座り込み、慟哭する娘の前に、一人の男が立った。

 あの男だった。

 ひと月前、娘が家に招き入れた、暗い目の。


 お前がやったのか、と娘は叫んだ。怒鳴り散らし、年老いた男の身体を打ち、泣いた。


「置いていかれる者の悲しみを理解したか」と男は吐き捨て、娘に己の名を明かした。


 その男は、かつて娘に求婚した男だった。

 娘が、かつて置き去りにした男だった。


 あれから三十年は過ぎていた。

 三十年もの間、男は娘を忘れなかった。


「お前に人生を狂わされた」と男は言った。


 あの夜から、どれほど苦しみ続け、どれほど屈辱にまみれた人生を送り、どれほど娘を憎んだかを、男は叩きつけるような口調で告げた。


 娘は茫然とそれを聞いていた。信じられなかった。

 あの清らかで誠実で完璧だった青年が、たったひとりの女のために、ここまで狂ったという現実が。


 もはや娘は男を責めることが出来なかった。

 この男を作り出してしまったのが己の過去であるのならば、子供たちは娘のせいで殺されたのだ。


 言葉を失い、後悔と自責にうずくまる娘を見、男は娘に「お前も苦しむが良い」と言った。

「お前も破滅するが良い」と言った。


 そして男は、憎悪と絶望と怨念にまみれた声で「見ろ」と命じた。


 娘が虚ろに顔を上げると、娘の前には家から脱し、そして捕えられた子供が立たされていた。


 怯えきった子供の後ろには兵が立っていた。


 兵は娘の目の前で、子供の喉を掻き切って殺した。


 娘は絶叫した。

 子供の名を呼び、血で溺れる子供を助けようと震える体で這いずった。


 男はそれを押さえつけた。息絶える子供に触れることも許されなかった。


 暴れ、男の腕を振り解こうとする娘の前に、次の子供が立たされた。


 地獄だった。

 目の前で、次々と娘の愛する子供たちが殺されていく。

 ひとりずつ。喉を切られ、胸を刺されて。


 年嵩の子が、母様逃げてください、と言って死んだ。


 男は、娘が暴れようと、血反吐を吐こうと、力尽きて倒れようと、娘の髪を掴んで顔を上げさせ、最後の一人まで見せつけた。


 もはや涙も枯れて抵抗する力すらも失せた娘の耳に、男は囁いた。


「最後に見せたいものがあるんだ」


 娘の前に、何かがごろりと投げ捨てられた。みっつ、よっつ、いつつ。


 数えているうちに、それが()だと気づいた。


 その首は、娘が育て上げ、誇らしい思いで外の世界へ送り出した、かつての子供たちの顔をしていた。


 娘の心は、壊れた。


 それが、娘の愛の物語の結末。



「その時に生まれたのが、影の魔女だ。彼女は破壊の限りを尽くした。百年かけて大陸ひとつを瓦礫の山にした。誰もが娘を、影の魔女を殺さなければと思っていた。


 けれど結局、誰も殺せなかった。娘は不死身だった。影の魔女を殺しに出掛けて帰ってこれた人間は誰もいない……けれど、そんな魔女に父神サタナキアは第二子ヘリオエッタを遣わした。


 ヘリオエッタは魔女を押さえ込み、()()()()()()()()()()()()()()。肉体を失った影の魔女はひどく弱体化して、逃げていった。


 そのあと……さらに百年くらいの時間をかけて、影の魔女を、あたしたちが殺した。世界中の力ある魔女に力を借りてね」


 その時に出来た組織が〈魔女会〉であるという。

 魔女会は、影の魔女のような自己制御を失った魔女を正気に戻したり処分したりする役割を担っているそうだ。


「まあそんな話は今はいいか」と呟いたマリーは、エチカに向き直り、そのままこうべを垂れた。

 ぎょっと身を引く少女に、マリーは呟く。


「ごめん。ごめんね。本当に……もうみんな終わったと思ってたんだ。()()はもう消えたって。生き延びていて、まだ人を苦しめているだなんて、思いもしなかったんだ。

 ごめん。謝っても許してもらえるなんて思ってないけど、今は謝ることくらいしかできない」


「……い、え、でも。わたしの母様が、あなたの言う影の魔女と同一人物なのかは、わからないでしょう……?」


「同じだよ。〈不滅の人形〉は影の魔女しか作れないんだ。君の首にある魔法陣を刻んだ魔力の匂いも、一致するしね。

 きっと欠片になって逃げ伸びて、力を蓄えて……それでどこかの魔女に憑依して、もとの魂を食って肉体を乗っ取ったんだろう」


 マリーはそう述べて、深いため息をついた。

 ブレスはやり切れない思いがした。

 語られた物語の娘が、誰であるのか。確かめるまでもない。


 影の魔女は、マリーの過去そのものなのだ。


 サタナキアがヘリオエッタを遣わさなければ抑え込めないほどの力をもつ不死身の娘など、そう何人もいまい。


 マリーは己の影そのものと決着をつけるために、影の魔女を百年かけて滅ぼした。

 責任を取るとかけじめをつけるとか、言い方は色々あるだろうけれど。


「あれがまだ、この世に存在するのなら、あたしは殺さなければならない。今度こそちゃんと、一欠片も残さずに、滅ぼさなきゃならない。だから……カナン。この件には積極的に関わらせてくれ」


 黙って木にもたれていたカナンは、マリーの強い目を受け止める。


 やがてカナンは「君がそう望むのなら」と頷いた。

 どこか悲しげな微笑を浮かべて。



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[気になる点] 相性的に秋>夏なのによく勝ったなヘリオエッタは
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