64話 悪夢と予感 後編
ブレスが倒れたため、その日は木陰で野宿をすることになった。
カナンが昼間から煮込んでいた柔らかい野菜のスープがその日の夕食だ。
カナンは面倒見がいい。いちど懐に入れた相手に対してはとくに。
夕方にもなるとだいぶブレスの不調もマシになり、人型になったミシェリーに介護されながら食事をした。
舌で潰せるくらい徹底的に煮込まれた野菜スープは、いかにも病人食といった感じで、師の気遣いに頭が上がらない。
だめな弟子で申し訳ない。
こんなふうに思い悩んだのは、魔道学舎に入学した時以来かもしれない。
エチカが旅に加わってからカナンの口数は減った。
喋らないし、歌わない。
久々に歌が聞きたいなと思った。
道中でカナンが何気なく口ずさんでいる、ブレスの知らない言葉の歌だ。
エチカが眠ってしまったあと、カナンはふらっと出かけて行った。
会話する機会を逃してしまった。
「どうしたの。なんだか、お前らしくないわよ」
「うん……なんだろうね。自分でもよくわからないんだ」
木にもたれるようにしてミシェリーの横に座り、ブレスは自分の膝に額を押し付ける。
夢のせいではある。エルシオンで刺されたことも、トラウマになっているのかもしれない。
けれどそれだけではない。
まるで胸にわるい虫が住み着いて、気力という気力を食い荒らしているような感じがする。
胸の虫は餓えているのだ。
そんなあやふやなイメージを聞いたミシェリーが、もしかしたら、と呟いた。
「魂が真名を求めているのかもしれないわ」
「真名を……?」
「魔術師にとって最初の名前は特別なの。真名なくしては実力の半分も出せない……真名を奪われたということは、本当の自分がこの世に存在しないということなの。
お前は、オリーブで、ブレスで、エミスフィリオで、フィーで、フィルだけど、本当のお前はそのどれでもない」
「……うん、そうだね。亡国の王と魔術師ルシアナから授かった命と名が、きっと本当の自分なんだろう。
正直に言うとね、俺はそれから逃れようとしてた。もう国はないのだから、関係がないことだって。
けれど……目を背けようとすればするほど、これでいいのかって叫んでいるんだ。ここが」
胸元を握りしめる。
「俺の選択を許してくれないんだ」
エチカが寝返りを打つ。
ミシェリーは猫の時と同じように、自分の頭をブレスの頭に擦り付けた。
「予言の魔女は時が来れば名を返すと言っていた。もしかしたらそれが今なのかもしれないわ。もし違くても、そう遠くないはず」
「……ありがとう。ミッチェは優しいな」
「宿主を癒すのも守護者の勤めよ」
「はいはい」
ツンと顔を背け、仕事に過ぎないと言い張っていても、精神を共有しているブレスにはミシェリーの気持ちがわかる。
彼女の言葉は時々素直じゃない。
「とりあえず明日から言霊の練習を本格的にやることにする。休憩がてらにお守り作りも。お守りっていくつあってもいいと思うんだ」
自分で使用するのはもちろん、持っていて欲しい人に手渡せる部分がいい。
守りたいひとに持っていてもらえれば、ブレスだって安心して旅ができると言うものだ。
一個目はミッチェにあげよう、と考えると、考えていることが伝わってしまったのかミシェリーはまんざらでもなさそうな顔をしていた。
彼女が嬉しそうだとブレスも嬉しくなる。
ふわふわとした気分で焚き火を見つめていると、「ならば、お守りにも言葉を込めると良いですよ」と背後から突然カナンの声がかかった。
ギャアとかヒィとかの類の叫び声をどうにか堪え、ブレスはぐりんと師を振り返る。
白い髪を下ろしたカナンが、薄笑いを浮かべて立っていた。
「先生、お願いですから突然後ろから出てこないでください。心臓が止まるかと思いましたよ」
「なに? 君は心臓が悪いのか。見せてみなさい」
真顔で心配されてしまった。この人に比喩とか冗談とかは言わない方が良さそうだ。
「すみません今のは例えです」
「そう。それなら、いいけれど」
カナンは愁眉を開いて、そのまま木に白く細い糸のようなものを結んだ。
「先生、それは……?」
「僕の髪だ。少々、罠を仕掛けようかと思ってね」
「罠ですか?」
「このあたり一帯に二角獣の気配が残っていた。まだ近くにいるかもしれない。
うまくいけば僕の髪をたどって集まってくる筈だ。君やエチカが楽になればと思って」
言葉を失ってしまった。
体調管理も出来ない足手纏いに苛立ちもせず、それどころか馬の確保までしようとしてくれているだなんて。
「……先生は、どうして俺を追い払わないんですか」
心外なことを訊かれたとでも言うように、カナンは眉を顰める。
「協会長に頼まれただけじゃないですか。先生だったら、いくらだって俺のことなんか置いていける。
記憶をいじれば、俺は先生のことを忘れてしまうのでしょう?
どうしてこんな役立たずの俺なんかを、そばに置いてくれるんですか」
「また、どうして、か。人間は、本当にそればかりだ」
カナンはブレスと同じように木にもたれて座り、目を閉じた。
彼はそのまま、ある歌の一節を口ずさむ。
道中、旅芸人たちの劇中で幾度か耳にした、昔の吟遊詩人が書いた唄だ。結末は悲劇で終わっている。
「過ぎし日は戻らず、思い出は悔恨を呼び起こすばかり……おお神よ、次の命があるのなら、どうか誤ちを償うための人生を」
「……先生が、おお神よ、とか言うと違和感がありますね」
「ふふ。以前も言ったでしょう、僕は半神半精霊のようなもの。この世に存在する欠け無き神は父、サタナキアのみです」
カナンは息を吐き、「どうか誤ちを償うための人生を」ともう一度繰り返した。
「いまの僕はそのために生きているのだと思う。ここ数十年、意識の底でうっすらとした靄のようであった意識が、シャファクを送り出した時に初めて明確な形となった。
それは己が罪人であると言う自覚だ。君がライラの意図について言及したあの時もそうだった。
今ならばわかる。ライラは僕に、償いの旅をさせているのだと」
そうなのだろうか。
だからカナンの旅路には、問題が並んでいるのだろうか。
冬を作り出し、世界の全てを滅ぼしてしまったカナン。
サタナキアが循環の輪を世界に組み込みまで兄姉に謗られたカナン。
春の乙女プライラルムは、世界を滅ぼした弟に、世界への贖罪をさせているのだろうか。
ブレスには女神の考えていることなどわからない。
カナンがそう言うのならば、そうなのかもしれない。
「僕はライラの示す道に従って君の町に辿り着き、君を託された。その君は、ウォルグランドの王の落とし子だと言う。
これがライラの画策ならば、今年、僕に課せられた世界への贖罪の核となる人物は、恐らく君だ。
ライラが僕と君とエチカを出合せた。君の運命は動くだろう。
僕はそれを見届ける義務がある。だから、僕は何があっても君を置いて行きはしない」
「先生は……それで、いいんですか」
「僕は人間のようには感じない。そう在るべしと定められたのならば、その理に従う。
それに、案外気分の良いものだ。人の手助けをするということはね」
人間のようには感じない、と言いながら、人助けは気分がいい、と言う。
ブレスにはなんとなく、カナンの考え方がわかったような気がした。
「さあ、もう寝なさい。君は本調子ではないのだから。ここ最近、クルイークに噛まれたりエチカに刺されたりして疲労が溜まっていたのでしょう。気づかなくてすまなかった」
「……ありがとうございます」
うつむき、言葉を噛み締めるようにお礼を言いながら、ブレスは「人間のようには感じない」なんて嘘だと思った。
大昔はそうだったのかもしれない。でも、少なくとも今はそうではない。
カナンは、人間の感じ方や考え方を知っているのだから。
カナンは頷き、再び木にもたれて目を閉じ、動かなくなった。
横になったブレスの隣に、ミシェリーも寝転ぶ。
金色の大きな目がちょっと不機嫌に光っている。
「それにしても、加害者がどちらも今となっては身内だなんて、おかしなことよね」
「うん、そうだね」
「犬は主人に逆らえないからいいけど、小娘は人間、信用ならないわ。一緒に旅しているからって、全部信じちゃダメなんだからね」
「わかったよ、ミッチェ……」
ミシェリーの小言を聞きながら、ブレスは眠りに落ちていった。
幾度かあの夢を見たけれど、背後から刺される前に夢は霧散して消えてしまった。
浅い眠りの中で、師の冷たい手のひらを額に感じた。
きっとカナンが悪夢を散らしてくれたのだろう。
カナンは眠らないのだろうか。
翌朝早朝、ブレスはけたたましいエチカの悲鳴に叩き起こされた。
眠い目を擦りつつ起き上がると、周囲を二本のツノを生やした馬の群れに囲まれていた。
毛色もさまざま、短毛から長毛、縮毛までよりどりみどりだ。
「ああ、おはよう。思ったよりたくさん来てくれましたよ。ふたりとも、好きな子を選んでください」
艶やかな青毛の二角獣の首を撫でながら、カナンがいい顔でブレスを振り向く。
ブレスはいつもの半笑いを浮かべる。
ブレスの師は今日も平常運転。
あいも変わらず夜の眷属に大人気だった。




