61話 レイダ・ウォルグリア
カナンはエチカの案内で夜道を歩く。今夜、大会が終わったのちに、レイダとエチカは落ちあう約束をしていたという。
自分も行くと言い張ったブレスを、カナンは置いていくことにした。
ブレスはウォルグランドの、かつての王の血を引く子供だ。
カナンがブレスを連れてレイダの前に現れ、万が一ブレスの素性が知れれば、レイダにとっては鴨がネギを背負って来たようなものだろう。
「君はそこの番犬と留守番です。デイナベルが戻って来た時にことの流れを説明しなさい。個人的なことは消して話さないように。ミシェリー、彼の見張りを頼みましたよ」
それを聞いたミシェリーは当然、という顔で尻尾を一振りしたが、ブレスの方は納得しかねる様子だった。
今回ばかりはミシェリーもブレスの味方はしないだろう。彼女の役割は宿主を守ることだ。
国を取り戻すための戦争を始めようとしている男に、ブレスを近づけるはずがない。
(ライラは僕に、試練を課しているのだろうか)
どうして、というブレスの声がいつまでも頭を離れない。
──春の君はどうしてそんな手順を踏ませるのでしょうか。
カナンは冬が明けると毎年姉を探して旅をする。
姉、プライラルムはそれを知っていながらカナンに追わせるような真似をする。
姉にも都合があるのだろうと思っていた。
生み出す者である彼女の役割は多い。
しかしいま思えば、旅路にはいつも何かしらの障害や困難が積み重なっていた。
カナンがこれまで疑問を抱かなかったのは、「なぜ」という発想がカナンの中にほとんど存在しなかったからだ。
それは、創造主サタナキアの四番目の子として生まれたが故の欠落だった。
世界を作ったのはカナンら四柱神である。彼らにとって世界とは在るべくして在るものだった。
存在する生き物も、この世で起こる事象も、全ては彼らの手の内のもの。
疑問を挟む余地など無いに等しい。
何が起こったとしても、全ては彼らの作り出したものによって成される事なのだから。
だからカナンは姉の要求を、いつものように、何の疑問もなく当然のものとして受け入れた。
けれど、父神と兄姉は世界の理から外れた存在だ。カナンと同じように。
彼らはほかの生き物とは違う。彼らはカナンに容易く干渉できる存在だ。
(ライラを疑わなければならぬのならば、エッタも、サハナも、父も──)
「着いたわ。ここよ」
エチカの声に、沈み込んでいた思念の海から引き上げられる。
顔を上げると、取り壊される直前といった有様の廃屋がある。
エチカは強張っていた顔を平然としたものに塗り替えた。
とても先程まで泣いていた人間とは思えない。
傷ついてなおしたたかな娘だ。
カナンは微笑し、雑念を振り払う。
ふたりはレイダの待つその朽ちかけの建物に、足を踏み入れた。
その男は置き去りにされたピアノにもたれ掛かり、身じろぎ一つせずに佇んでいた。
カナンは暗闇に立ち止まってじっと男を観察する。
苛立ちと悲憤を纏った壮年の男だ。伸ばした赤毛を低い位置で結え、爬虫類のような感情の読めない目は灰色。
足首まで丈のある黒いローブを纏っているが、ところどころ破れたり焼けたりして裾がボロボロになっている。
歴戦の魔術師といった風格。
「遅れました。申し訳ございません」
エチカが男の前に跪いて淡々と述べる。男はゆらりと動いた。
緩慢にもみえたその動作の一瞬後には、男はエチカの首を掴み上げていた。
「失敗したな。あのお方を私に差し出すという責務を、お前はやり損ったのだ。しくじりおって」
語気の強い吐き捨てるような声を浴びながら、エチカは苦しさに身を捩る。実年齢はどうであれ少女を相手にずいぶんな振る舞いではないか。
半ば狂気に染まった男に暗澹たる思いを抱きながら、カナンは暗闇から一歩、月明かりのもとに足を踏み出した。
男はハッと息をのんだ。エチカを手放し、食い入るようにカナンを見つめる。
「御身は……冬の……?」
「かつてはそう呼ばれていたこともある」
静かに答えたカナンを前に、おお、と声を上げて男は跪いた。
「我々がどれほど御身とあいまみえたかったことか……」
「お前の感傷に付き合う気はない。要件を申せ」
カナンの側に下がりつつあったエチカが、不安げな視線で見上げている。
病室での言動とかけ離れた冷たい態度を見て、戸惑っているのか、恐れているのか。
男は恐縮した様子で口を噤み、それから一息でことの次第を話した。
十二年前、代々仕えてきた祖国が帝国によって蹂躙され奪われたこと。
現代の子供たちは他民族の血が混じり、精霊の民であった彼らの血が薄められ、彼らの誇りであった精霊の力を失いつつあるということ。
戦後まもなく諸侯の生き残りは団結し、国を取り戻すべく〈古きもの〉の力を借りるべく諸国に使者を派遣していること。
しかし帝国に立ち向かおうという国は無く、血眼になってたどり着いた存在がサタナキア第四子、冬のカナリアであったこと。
「どうかご助力を、冬の君。ウォルグランドは精霊の聖域、これ以上奴等に穢されることがあってはなりませぬ」
男の言葉に嘘はなかった。精霊の民である誇りを守り、また聖域をも守るという志はたしかに真実だった。
カナンは目を伏せ、跪く男の赤い髪を見下ろす。
「お前のいいぶんは解った。だが、僕はもう地上の争いには干渉しない」
特定の国に肩入れをすれば、戦争の火種ともなりかねない。
もし万が一、かつてのように国同士がカナンの身を奪い合うための戦を始まれば、カナンは再び閉じ込められ、冬を迎えたその日に周辺諸国もろとも滅ぼすことになる。
春の乙女プライラルムは幾度もそれを見過ごして来た。
彼女はカナンの力によって世界の一部が壊滅しようとも、気には留めない。
「力を振るうことがあるとすれば、帝国が我が敵と回ったその時だ。僕は僕のために力を振るうだろう。その時分にお前が帝国と反目していれば、益となることもあろうよ。
力は貸せない。今はまだ。だが、お前のことは覚えておこう。娘の魂の一部と引き換えに。僕は命を質にひとを従わせるような卑劣な者を好まない」
はっとエチカは息を呑んだ。信じがたいものを見るような目で、彼女はカナンを見上げる。
男はうつむき、沈黙した。
面と向かって断られてしまったが、時が来ればあるいは助けになるだろうと彼は言う。
これは成果だ。繋がりをもてた。
表立って協力得ることはできないが、ウォルグランドが彼の敵に回らない限り、彼の存在はいつか芽吹くかもしれない。
男は首肯し、深くこうべを垂れ、首から下げていた砂時計の魔術具〈時の堅牢〉を取り出して解呪の言葉を呟く。
「畏まりました。──我、レイダ・ウォルグリアの名において捕縛せしめし娘の人形を解放する」
解呪の言葉に従った魔力が砂時計を中心に渦巻き、青白く光りながらエチカの一部を縛り付けていた鎖を解いてゆく。
やがて光の渦が収まると、どこからとも無く砂がさらさらと宙を舞い、エチカの元へ集い始めた。
エチカは慌ててポケットを探り、翡翠玉で作られた小さなコンパクトを取り出して開けた。
砂は音もなくコンパクトに吸い込まれていく。
同時に、エチカの体から水クラゲのような形の微光を放つものが飛び出し、男の元へふわふわと流れていった。
人形と共に閉じ込められたエチカの魂の一部を補っていた、作り物の霊魂だ。
レイダはそれをそっと手繰り寄せ、己の胸に押し込んだ。
そっと息を吐くふたりを見下ろし、カナンは述べる。
「レイダ・ウォルグリア。誇りのために戦うことを選ぶのならば、目的のために誇りを失ってはならない。その時お前は、お前自身をも失うだろう」
「……ご厚情を感謝いたします」
深く項垂れたレイダは、涙を堪えながらそう言った。彼にとってカナンのの言うことは的を射ていた。
レイダは誇り高い精霊の民であったはずなのに、帝国への憎しみのために己が何者であるかを忘れかけていた。
いまここで神々の一柱であるカナンに諌められなければ、彼は憎しみにのまれ、国取り戻すという名分の元にいかなる悪事を働くことも辞さなかっただろう。
例え国を取り戻すことができたとしても、闇に落ちた者を彼らの精霊は許しはしない。
事は済んだ。カナンは悔い改めるレイダを見下ろし、そう結論づけた。
治療所へ戻ろうと背を向けると、エチカも立ち上がってカナンを追う。
レイダは一瞬逡巡した後、さっと立ち上がってエチカを引き留めた。
「私はお前の存在を影の魔女から聞いた。影の魔女はお前を見ている。お前は私を恐れていたようだが、あの魔女の方がよほど怪物だ。娘よ、自由をえたければあの魔女を殺すほか道はないぞ」
青ざめるエチカにそう言い残し、レイダ・ウォルグリアは闇夜に紛れて姿を消した。




