6話 守番と蛇
着古した旅装束を着た黒髪の男が裏路地を歩いている。
カナンである。
この町の路地裏は昼間でも薄暗く、空気が淀んでいる。
淀みが溜まると瘴気となり、瘴気を食いに夜の生き物が集ってくる。魔物に魔獣。
魔術師の多くは夜の生き物を使役とし、共生する。
この町は瘴気の溜まり場が多く、使役を探すのにちょうど良い土地であった。
使役は一生を共にするものではなく、行きずりの契約関係がほとんどだ。
一般的にはその土地の魔物は群れや縄張りを持ち、生まれた場所を離れたがらない。
多くの魔術師は大陸を渡る旅をして暮らす。
一生旅を続けるわけではないけれど、生涯のうちで旅をしない魔術師はいない。
その旅の途中で、魔術師は夜の生き物の力を借りるのである。
長く使役したとしても海を渡る所で別れるか、大抵は町三つぶんの距離であった。
「お兄さん、綺麗だねぇ。ちょいと、遊びにおいでよ」
気の早い商売女が窓からカナンを見下ろして艶っぽく笑いかける。
カナンが女を見上げると、目があった女はヒッと悲鳴をあげてピシャリと窓を閉めた。
──淫魔が堂々と人間のフリをして、生活しているとは。
使役を探すには丁度いいが、人が暮らすにはいささか危険を伴う町だ。
去る時には多少清めておいたほうがいいかもしれない。
人は魔物一括りにして恐れるが、実際のところ人間とさほど変わらない。
良いものもいれば悪いものもいるし、強いものもいれば弱いものもいる。
弱いものに庇護を与え、種の絶滅を防ぐことも魔術師の役割のひとつである。
昨夜は、それで青い手の魔物と契約をした。
カナンは次の冬の前に、姉を探さなければならない。
捜索の手足として、長く仕えてくれる使役が複数欲しい。
瘴気の溜まり場の気配を探りながら、カナンは歩く。
一見ふらふらと目的もなく、ひとりで散歩でもしているか、路地に迷い込んだようにでも見えるだろう。
「そこの人、そっちの道は危ないよ」
そう思ったであろう通りすがりの誰かが、カナンの背に声をかけた。
振り返ると、深緑のローブを着た赤毛の青年が立っている。
首には魔術師であることを示す、黒い石のペンダントをかけていた。
「魔物が出る。今はまだ昼だからマシだけど、そっちの路は殆ど日の光が入らないから、襲われないとも限らない」
「ご心配ありがとう。でも僕は、君と同業だから平気です」
カナンが胸元から証のペンダントを取り出して見せると、青年は驚いた顔をした。
「本当に? 初めて見る顔ですね。集会に来る魔術師の顔は、覚えている自信があったんだけど」
「僕はどの協会や派閥にも所属していないから」
「えっ、そんな人がいるのか」
「君が思っているよりたくさんいるよ」
受取りようによっては、意地の悪い答えに聞こえるだろう。
けれど赤毛の若者は感心したふうにただ驚くばかりだった。
素直な気性らしい、とカナンは判断し、再び無造作に歩き始める。
「俺はブレスという名で通っている守番の魔術師なんです。このローブの色の通り、森や木々に棲まう精霊を信仰する一派に所属している。あなたは?」
青年魔術師ブレスは、勝手にカナンの後に着いて歩きながら、明るい調子でそう言った。
魔術師と一言で言っても、就いている職によって呼ばれ方は様々だ。
守番とはそのうちのひとつである。
人里に降りて棲まう夜の生き物や魔獣から人間を守る役職で、国や領主など、さまざまな公人に雇用される。
この町は淀みが溜まりやすいようだから、ブレスのような守番が常在しているのだろう。
「僕の通り名はカナン。術は使うが、今は人探しの旅の途中だからただの旅人に過ぎない」
「へえ、そうなんですか。それで、旅人魔術師さんがどうしてこの辺鄙な町に?」
「通りがかりです。思いのほか使役と契約するのに丁度いい土地柄のようだったのでね」
「あー……それは面目ない。恥ずかしいな」
守番のブレスとしては、この町が魔物の巣窟では困るのだろう。
「何も君のせいではない。例えば僕がこの瘴気を一掃したとしても、周辺の町に魔物が飛び散るだけだ。確かにこの町は瘴気が溜まりやすく魔物も多いが、ちゃんと守番もいる。それならば均衡がとれているし、なんの問題もないだろう」
カナンは淡々と述べてふと横道を覗き見た。
着いて歩くブレスは、カナンの説明に心底納得して、顔色を明るくした。
「俺たちもちゃんと役に立てているんですね。よかった、よかった」
「その通りだよ。納得してくれたなら巡回に戻ったらどうだろうか。申し訳ないが、あなたについてこられると魔物が警戒して逃げてしまう」
「あ、それはすみませんでした。そうだな、仕事に戻ることにします」
ブレスはちょっと赤面して立ち止まり、カナンは首だけ振り返って目礼をした。
縁があればまた出会うこともあるだろう。
「そうだ、カナンさん。ちょっと前に毒蛇の魔物の卵が孵って、それが大量発生したんですよ。殆どは駆除したんだけど、まだ残りがいるかもしれない。青っぽい色の蛇の魔物がいたら、危険だから気をつけてくださいね」
ブレスの忠告にひらりと手を挙げて応えながら、カナンは物憂げに目を伏せた。
蛇の魔物が表に出てきてしまったのは、世話をする親が不在だったためだろう。
駆除討伐されて親を亡くした子供達が親蛇の不在に混乱して探し回った結果、人間たちに目をつけられて落とさなくてもいい命を落としたのなら、それは悲しいことだ。
魔物狩りは稼ぎになるから容易に行われるが、強欲が悲しみと更なる災厄を生むのならば、それは間違っているとカナンは思った。
時刻は夕暮れに差し掛かり、カナンは宿屋に戻ることにした。
守番の魔術師ブレスと別れた後は魔物たちと出会うこともできたが、やはり土地を離れたがらないものが多く、契約を結ぶには至らなかった。
いつものように宿の窓を開け放ち、窓辺に座ったカナンは、ふと気配を感じて視線を下げる。
己の影の中から赤いガラスのような目玉が一対、じっとカナンを見上げている。
「おかえり、テンテラ。大丈夫、誰もいないよ。安全だから出ておいで」
『……はい』
声の主が応え、ゆっくりと姿を現した。
肌の青い少年の顔に、白目の無い真紅の目がふたつ。
まばらに伸びた髪は紺碧で、痩せた裸の上半身、背には金属質な翼が一対生えており、下半身はとぐろを巻く長々とした斑のある蛇。
種はニーズヘッグ、名はテンテラという。
ブレスが言っていた、蛇の魔物の生き残り、その変異種である。
「君の話を聞いたよ」
カナンは己の手首に銀のナイフを当てながら、労るように語りかけた。
「悲しかったろう。よく生きていてくれたね」
『みんな死んだ』
テンテラはカナンの足元に擦り寄り、無表情に蹲る。
表情が無いのは、生まれて間もなく兄弟を殺されて空虚だからだ。
使役と魔術師は精神が繋がっているため、カナンにはテンテラの心がずたずたに傷ついていることが感じ取れる。
切った手首を差し出すと、テンテラはカナンの手のひらに頬を擦り付けてから流れるものに口付けた。
大抵の野生の魔物は瘴気を吸って生きるが、使役は魔術師から給餌される。
魔力を豊富に含む血液は、最も好まれる餌だ。
ニーズヘッグという魔物は、一般的に蛇の姿をしているが、その血を遡ると祖先は竜である。
ごく稀に先祖返りが起こる種としても知られており、妖獣の頃は蛇に近い姿をしているが、成獣になると脱皮をして漆黒のドラゴンヘ変わるのである。
テンテラは先祖返りだった。その証が背の翼だ。
羽の一枚一枚がナイフのように硬い翼は、飛ぶことは出来ないが、無防備な幼獣の体を守る鎧となる。
テンテラが生き延びたのは、この翼があったからに他ならない。
さもなくば他の兄弟と同じように、殺されていただろう。
「あの娘はどうしている?」
赤子のように血を飲むテンテラを撫でながら、カナンは昨夜居合わせた若い娘のことを尋ねた。
あの娘は淀んでいた。
瘴気を撒き散らしていたせいで、飢えたテンテラに狙われたのだ。
「まだ数日はこの町に泊まるけれど、付いていてやれそうか?」
『嫌じゃない』
テンテラはぺろりと口を舐めて、顔を上げた。
『あいつ、虐められてる。他の人間に。テンテラみたいに虐められてた。でも、テンテラが手伝ってやったら、あいつ、ちょっと楽しそうだった』
「ふふ、そう? それならいいけれど、悪戯はほどほどにするのだよ」
『はい、ご主人様』
テンテラはもう一度カナンの手のひらに頬を擦り寄せると、ゆっくりと影の中に沈んでいった。
『ご主人様の水、すごく美味しい。テンテラ、ずっと付いていく。仲間、皆死んだから、テンテラ、行く場所ない』
「ありがとう。君がいてくれると、僕もとても助かる」
テンテラは赤い目を少しだけ細めて笑った。
カナンも微笑を浮かべながら、銀のナイフの背で手首の傷口をなぞる。
傷口が消え、皮膚が滑らかに再生するのをじっと見つめてから、テンテラはつむじまでとぷんと影の中に沈んだ。
カナンは翌日も町の裏路地を歩き回って魔物を探した。
脚の速い四足の生き物か、長距離を飛べる翼のある生き物がいいが、やはり町にいるものは二足歩行、人型に近いものが多い。
近くに森や川があれば出かけてみようか。
考えながら歩いていると、視線を感じた。
カナンは立ち止まる。
何かに見られている。
人ではない。
視線が高すぎる。
鳥でもない。音がしない。
ならば窓から見下ろしているのか?
それにしては後ろを取られている。
この町には、何かがいるようだ。
魔物でも人間でもない、なにか不自然なものが。
首筋に突き刺さるような視線を感じながら、カナンは再び、何事もなかったかのように歩き始めた。
石畳の隙間から咲いた草花を一輪摘んで、それをくるくると回しながら、カナンはテンテラに思念で話しかける。
思念が繋がっている使役とは、どこにいてもやり取りが出来る。
(テンテラ。娘に付いてまわるついでで良いから、行き先で聞いた話を教えておくれ。この町には何かしらの怪異が発生しているようだ。噂話で構わないから、不審な出来事を見聞きしたら、いつでも僕に話してほしい))
『はい、ご主人様。そのように』
(ありがとう)
繋がっている向こう側で、くすぐったくなるような感情がぱっと咲いた。
愛しい子だ。
カナンは思わず目を細めて微笑し、通りがかりの町娘の髪に花を挿して誤魔化した。
背後をつけてくる視線の相手には、可愛い子を見つけて微笑みかけたように見えただろう。
頬を染めた娘に名前を聞いたあたりで付き纏っていた視線がすっと離れていくのを感じ、カナンは振り返って目を向けた。
──何もいない。