53話 獏の捕獲
その日の夜。獏は命令に従い、黙々と夢を喰い、夢を見せていた。
二十四人の人間の夢を一度に喰らうは容易い。
しかし、二十四人の人間に絶え間なく夢を与え続けるとなれば疲弊する。
与え続けた端から喰わねばならぬともなれば、疲れただのなんだのという不満以上に「己はいったい何をやっているのか」と虚しささえ覚える。
人間の夢を取り込むことによって人間と同じような感情を得た獏は、「やり甲斐」や「飽き」や「馬鹿馬鹿しさ」といった魔獣には不必要な感覚を身につけてしまっていた。
ああ、それこそが運の尽き。
むかし、普通の人間の夢を食べ飽きた獏は、ある日、魔術師の夢に入り込んだ。
その魔術師の夢が他とは比べ物にならないほど面白かったからである。
久々に満たされるものがあった。満腹になったのはもちろんだが、感情の方も満たされた。よもやその夢こそが、獏を捕らえるための罠であったとは……。
捕らえられて使役に下されてからというもの、獏にはろくなことがなかった。
己の夢喰いという習性を、こんな馬鹿馬鹿しい使い方をされて、あんな悪事を成そうとは、全く魔術師とは恐ろしい生き物である。
もう二度と魔術師の夢には入るまい。
獏はそう心に決めていたのだが。
この虚しさが募るばかりの労働の日々に、いい加減嫌気がさしていたせいだろうか。
その夢はいかにも楽しそうだった。いかにも美味そうで、いかにも満たされそうだった。
そして魔術師の夢であった。
罠だ。間違いない。こうして夢に誘われるのは二度目である。
はじめは抗った。どうせまたひどい目にあうだろう。
ところが耐えれば耐えるほど、その夢の香りが強くなってゆく。
豊かな記憶だ。
普通の夢というものは、記憶の搾りかすのようなもので出来ているが、人間は過去の記憶を鮮明な夢に見ることがある。
ごく稀なそれは、獏にとって極上の餌であり、娯楽である。
そうだ。娯楽に飢えていたのだ。獏はそれを思い出した。
どうして獏たる己が、食べ飽きて、もはやなんの味もしない夢を、そのうえ更に食べたり戻したりしなくてはならないのか。
使役は奴隷ではない。使役は仕える対価を要求する。
対価なくして使役を下すことは出来ない。
獏は罠であると知りつつも、のそりと身を起こし、魔術師の夢に向かった。
たとえ罠であるとしても、捕まらなければいい。
そうだ、相手が己を捕らえることのできるほどの器を持つ魔術師であるとは限らない。
これはけして命令違反ではない。獏は己に言い聞かせる。
ぱちぱちと虹色の火花の弾ける魔術師の夢。
ここからおいでと言わんばかりに薄く隙間があいている。
ああ、やはり罠だ。それは解っている。
しかし、極上の餌はもはや目と鼻の先。
獏は一歩、足を踏み出した。
鷹のような鋭い目をした筋骨隆々の男が、馬上、天に剣を掲げて叫んでいる。
どうやらこれは、この記憶は英雄譚であるらしい。
おお、血湧き肉躍る興奮が、飢えた全身に駆け巡る。
「我が友、血盟の騎士達よ! 我々はとうとうこの日を迎えた! 都に巣食いし悪の魔王を打ち果たすこの日を!」
おおお、と大地に轟く数多の騎士の雄叫びと、歩兵が槍を地面に打ち付ける音が重なる。
士気は絶頂を極め、殺意は迸らんばかりに漲っている。
白馬に乗りし鷹の目の男は忌々しげに灰色の塔を見上げる。
窓辺に佇む白い髪の魔王が、竜の吐息の如き不吉な翠の目で軍隊を見下ろし、不穏に笑う。
魔王の隣には愛しの姫君。娘は蒼白で恐れに震え、拳が白くなるほどに窓枠を握りしめ、今にも気を失いそうな様子であった。
鷹の目をもつ男はうおおと叫んで灰色の塔に突撃をかける。
獏の興奮は頂点に達した。
これぞこれぞ、これこそ獏たる己が求めていた娯楽、快楽、生きし記憶の夢。
塔には数多の魔物が潜み、勇猛な騎士たちを次々と幻惑し、蹂躙する。
鷹の目を持つ英雄は果敢に立ち向かい、切り伏せ、愛しの姫を悪き魔王から奪い返すべく塔を駆け上がる。
いくつもの死闘を乗り越え、英雄はとうとう魔王の前に立ちはだかった。
いよいよ最後の戦いが始まるのだ。
獏たる己は手に汗握り、興奮のあまりハアハアと息を荒げ、決闘を見届けるべく身を乗り出す。
「おお、我が愛しの君よ! いまこそ悪しき魔王を打ち倒し、其方を私の花嫁と迎えようぞ!」
英雄の宣言が高らかに響き渡る。
姫は魔王に囚われ、どれほど恐ろしい思いをしたことだろうか。
かわいそうに、今にも助けてもらえると思った安堵と、英雄の落命を想像した不安がせめぎ合い、囚われの娘は涙を浮かべている。
翠の目を爛々と煌らせる悪しき魔王の横で、無力にも魔王に肩を抱かれた娘の唇が僅かに動いた。
「……違うの」
いったい何が違うというのか。
「わたくし、あなたとは結婚したくありません!!」
…………ええ? なに、それどういうこと?
獏たる己は混乱した。ここは勇者が魔王を打ち倒し姫を助けてハッピーエンド、というのが物語のセオリーではないのだろうか。
鷹の目を持つ英雄もよもやそんなことを言われるとは予想だにしなかったであろう。
愕然、という顔で立ち尽くしている。
なんだ、これは。
どういう夢だ、これは。
気まずい。男の方が気の毒でならない。
いったいどういう事態なのか、全ては魔王の仕組みし奸計か?
その可能性に思い至った獏たる己は、魔王の姿を求めて視線を彷徨わせる。
娘の隣にいたあの白い髪の魔王が、いつのまにか姿を消している──と気づいた瞬間、何者かが獏たる己の尾をむんずと掴んだ。
振り返ると、あの魔王が。
白い髪の魔王が!
尾を掴んで!
緑の目を爛々と光らせて獏たる己を凝視しているではないか!
流れていないはずの血が凍りつく獏たる己の目の前で、その魔王の薄い唇が不気味に歪み、嗤い、言った。
──見ツケタ。
ぎゃあああああ、と叫び、掴まれた尻尾を振り回し、恐怖でのたうち回るも、敵わなかった。
泣き叫び懇願するも虚しく、魔王は「お前の名はシクタム」と言い放ち、獏たる己は無理やり血の滴る指先を口に突っ込まれた。
血の締結が上書きされるのを感じながら、シクタムとなった獏たる己は思い知ったのである。
やはり魔術師の夢など、喰うものではない、と。
「というわけで、これが獏です」
「ええ……」
目の前に無力な犬のようにぶら下げられた珍妙な獣を見て、ブレスは引いた。
獣に引いたのではない。カナンに引いたのである。
夢の内容はとうの獏の口から語られた。
記憶の夢であるからにはカナンの実体験である。
魔王ってなんだ、魔王って。
デイナベルに至ってはもはや目が虚ろになっている。思考を放棄したに違いない。
ブレスは改めて目の前にぶら下げられた魔獣を眺めた。
中型犬くらいの大きさの、やや黄ばんだ白っぽい毛玉だ。
形は──なんだろう、アリクイに似ているが、体毛は長く、尾も太く長く、頭らしきものも長いもさもさとした毛に覆われているためよくわからない。
正直これが獏だと言われてもいまいち信じられない。
思考を放棄したデイナは、それでもやはりデイナだった。
気を取り直すようにこほんと咳払いをして、姿勢を正してカナンと向き直る。
「えー……そうですね、とにかく獏を捕らえられたということで、何よりです。早速ですが、生徒たちの夢喰いを終わらせるよう命じていただければ……」
「ああ、そうですね。シクタム、食事をやめるように」
『もうとっくに止めておりますれば』
獏はしょんぼりとうなだれてもさもさと首を揺らした。
『獏たる己も好きでこやつらの夢をしゃぶっていたのでは無いのである。命じられて仕方なくしゃぶっていたのである。そのうちかってに目覚めるのである』
そうですか、ともさもさと揺れる獏を前にデイナが少々のけぞって答える。心なしか顔もやや引き攣っている。
無理もない、とブレスは頷く。この獏という魔獣はクセが強すぎる。
まともなデイナベルはさぞかし対応に困っていることだろう。
「だそうです、デイナ。よかったですね。人質も取り戻したことですし、これで遠慮なく敵とやり合えますよ」
「え、ええ……そう、ですね……?」
「デイナさん、先生の言葉に疑問があるんでしたら早めに言っておいた方が後で楽ですよ」
半笑いを浮かべるブレスに、捕獲した毛玉を好き勝手にいじくり回すカナン。
後にデイナベルは「この時こそふたりの関係性を垣間見た瞬間だった」と過去を顧みることになるが、それはまだ訪れぬ、未来の話である。
シクタム……魔獣、獏。通称は夢喰い。名前の意味は暴食。カナンは「悪食だから」という意味合いで名付けた。グラトニーにしようかと思ったけど、それだとカッコ良すぎるので別の国の言葉を採用。




