51話 治療所へ行こう
〈番犬の衆〉という自警団は、ブレスの学生時代から存在していた。
しかしその存在をブレスはほとんど知らなかった。
なぜならば、彼らが表立って動かなければならないような事件が何一つ起こらなかったからである。
本来エルシオンはそれほどまでに秩序の守られた都市だったのだ。
ハオは番犬たちにブレスとカナンをごく簡単に紹介した。
学長の許可を得て、通りすがりの〈古きもの〉とその弟子に協力を取り付けることが出来た、とのこと。
(通りすがりというか、通り魔と間違えられて囲まれたところを平和的に解決しようとしたら、ハオ先生に強引に連れてこられたんですけどね)
都合の悪いところを丸々省いた説明にブレスは乾いた笑いを浮かべた。
大人って時々ずるい。
そんな些事は置いておいて、問題は例の通り魔である。
「ことの発端は半月前。ある生徒が襲われたことから始まった」
カナンとブレスは長テーブルに広げられたエルシオンの地図を覗き込んだ。地図にはバツ印が多数記されており、ハオはそのうちのひとつをトンと指差した。
「生徒はこの場所で倒れていた」
「魔道学舎のすぐ近くですね?」
「厄介なことにな」
ハオは苦々しく首肯する。
「襲われた生徒は医学学舎の生徒だった。生徒の友人が言うには、魔術師が呪いをかけて去っていった、と」
「……どうして魔術師だと?」
「襲われたその生徒の症状だ。生徒は魂を抜かれたような状態だった。死んではいない。だが起きているのか眠っているのかすらさだがではない。目は開くこともあるが、何を見せても反応しない。しかも外傷も毒物反応も全く無いときている」
なるほど、そのような状態であったのなら魔術師が疑われるのも無理はない。
「その被害者が、このバツ印の数たけ存在する……というわけですか」
カナンが思案気にすっと指先で顎を撫でる。ハオはうなづく。
「現時点で二十人あまりの被害者が、医療所で処置を受けている」
意識はなくとも、生きてはいる。栄養と水分を取らなければ死んでしまうし、排泄の世話もある。
それに被害者を一箇所に集めておけば、誰かが目覚めた時にすぐに話を聞くことができる。
現状、一番最初に襲われた生徒さえ目覚める兆しはないが。
「そう。それならば、まずそちらが先ですね」
カナンの言葉に、その場にいた番犬たちが怪訝に顔を上げた。
一方ブレスはカナンの言わんとする事を察して再び荷物を背負い直す。
「半年も寝たきりなら、いくら適切な処置を受けていたとしてもそろそろ危ない。その通り魔とやらの居所を追求するよりもまず先に、襲われた方々の治療所へ案内して頂けませんか?」
「先生は〈古きもの〉なので、知識と経験の面では他の誰よりも頼りになると思います、ハオ先生」
信の置けぬものを果たして連れて行ってもいいものかと迷うハオに、ブレスも口添えをする。
通り魔を捕まえる事も重要だが、人命が第一だ。
それに襲われた人々の状態を見てみないことには、敵がどのような魔術を仕掛けてくるのかもわからない。
最終的にはカナンの言い分ももっともだと判断したハオは、治療所へ向かうことを承諾した。
年嵩の黒ローブを数名伴い、彼らに先導させ、自身はカナンの背後に着くという徹底した警戒の上での承諾ではあったが。
治療所は魔道学舎から馬車で半時間の距離だった。
普段のカナンならば風の精霊の力を借りて鳥のように飛んでゆくところだが、監視付きとあってはそうもいかない。
些か不便な思いをしつつも馬車に詰められ、一行は治療所に到着した。
突然やってきた黒ローブの男たちに治療所の癒者たちは何事かと騒然としたが、ハオの顔を見て落ち着きを取り戻した。
よほど信頼されているらしい。きっと何度も治療所を訪れているのだろう。
「デイナベル様がいらしておりますよ」
優しげな癒者がハオに話しているのを横目に、カナンは勝手に治療所の奥へ向かう。
「なぜ患者の居場所がわかるんだ?」と訝しむ黒ローブの声に、ブレスは密かに同意した。
まったくだ。
ここですね、と言ったカナンはそのまま無言でドアを開けた。
せめてノックするとか声をかけるとか、いろいろとやりようがあると思うのだが、今更である。
案の定、その部屋にいた先客は驚いて椅子を蹴飛ばすような勢いで立ち上がった。
腰に下げている剣に手をかけるその男の横を素通りし(その男は肩透かしを食らったような顔をしていた)、カナンは寝台の並ぶ部屋の奥へ。
「待ちなさい!」
帯刀した男が慌ててカナンを追いかける。
こうなればブレスの役割は決まっている。事情の説明だ。
「突然申し訳ありません、我々はハオ先生から話を聞いて──」
話しかけてくるブレスと突き進むカナンに挟まれた彼は、気の毒に狼狽えている。
この反応から察するに彼の年齢は見かけ通りだろう。二十代後半、といったところか。
魔術師であることは、長く伸ばされた茶色の髪が示している。
腐葉土のような深い茶髪はさらさらのつやつやだった。
細身のために、後ろ姿だけを見れば女性と間違えてしまうかもしれない。
目はややくすんだ紅葉色。優しい目。
協会長の人外的美形とは種類が違うが、目鼻立ちの整った顔立ちをしている。
その綺麗な顔はいま困惑と不信感と焦燥に染まっている。
しかしこの男が魔術師であるならば、腰にはいている剣はなんなのだろうか。
そんなことを考えながら事情を話し終わったブレスは、ひとまずカナンの横についた。
「どうですか、先生」
「うん。これは魔術ではありませんね」
背後で「ええ!?」と茶髪の彼の驚きの声が上がる。やっと追いついたらしいハオたちが、部屋に入るなり「勝手なことをするな」と当然の苦情を言ったが、カナンの耳には届かなかった様子。無視だ。
立ち上がり、彼らを振り返ったカナンは、何故か楽しそうな顔で言い切った。
「人間の力ではない。これは獏……いわゆる夢喰いと呼ばれる魔獣の仕業です」
獏。
その魔獣の謎は多い。なぜならば獏と関わりを持った人間は、その時必ず眠っているからだ。
一説によると悪夢を喰う益獣、また一説によると悪夢を見せる害獣であるという。
目撃した、という者の証言によればその姿は奇妙奇天烈、長い鼻と虎の脚と獅子の尾を持つ獣であるとのことだが信憑性は無きに等しい。
あらゆる情報の中で唯一共通しているその魔獣の特性は、夢と関連を持つ、ということ。
「恐らくその獏が、通り魔とやらに使役としてついているのでしょう。ふむ、一体どうやって捕らえたのか」
「先生、問題はそこじゃないです」
カナンの関心が明後日の方向へ向くのを阻止しつつ、ブレスは虚ろな目で横たわる被害者たちを示した。
「その夢喰いとやらに夢を食われた人間がいちいちこんなことになっていたら、その魔獣は相当有名になるはずですよね。そうじゃないってことは、本来はこうはならないのでしょう?」
「そうですねぇ。きっと下された獏も本意ではないでしょうにねぇ、かわいそうに」
ブレスはずっこけそうになった。被害者の話をしているのだ。獏の方をあんじてどうするというのか。
再び話の脱線を元に戻そうと口を開きかけると、背後から声がかかった。
「ですから、問題はそれではないでしょう」
思わず口を挟んでしまったという顔の茶髪の彼は、振り返ったカナンと目があって気まずそうに目を逸らした。
カナンとブレスのやりとりを呆気に取られて聞いていたハオ・チェンが、我に返ってごほんと咳払いをする。
「彼はデイナベル。〈番犬の衆〉の副隊長だ」
「どうも……一応、昨年から魔道学舎で解呪専門の教員をしております」
解呪の教師と聞いて納得がいった。この通り魔の被害者たちの呪いをどうにかしようと、デイナベルは治療所に詰めていたのだろう。
デイナベルはカナンを恐る恐るといった様子で見ている。
シルヴェストリ曰くブレスは魔術師として感性が鈍すぎるらしいので、ブレスには感じられない何かをハオやデイナベルたちは感じ取っているのかもしれない。
さらさらの長い髪を後頭部でひとつ結びにしたデイナベルは、少々気が弱そうには見えるものの、魔力量を備えた実力者であることは間違いない。
そうでなければ、エルシオンの魔道学舎で教鞭を取ることなど出来ないのである。
「それでカナン様。彼らがその獏とやらの被害に遭っているというのならば、彼らはどうすれば元に戻るのですか。それとも……一生このまま、ということでしょうか」
「さあ」
「さあ!?」
そんな軽い調子で肩を竦められるとは思ってもいなかったのだろう、デイナベルは憤然として叫んだ。
「この子たちの命がかかっているのですよ!」
「そういわれましても、獏を使役する魔術師なんて僕も初めてなのですよ。ちょっと見ただけで何もかもわかると思ってもらっては困りますね。もう少し調べてみないと。というわけなので、今夜はここに泊まりです」
最後の一言はブレスへ向けられた言葉だ。従順に頷きながら、ブレスは心配でいてもたってもいられないという様子のデイナベルを見上げた。
「もし気がかりでしたら、デイナベル先生もご一緒に泊まられては?」
「……そうですね。そうさせて頂きますとも」
「大丈夫ですよ。うちの先生は人付き合いが致命的にできないだけで、実力だけは確かですから」
「エミスフィリオ、聞こえていますよ」
カナンに背を向けたまま、ブレスはちょっと舌を出しておどけてみせた。魔女直伝、マリー様の真似事だ。
デイナベルはそんなブレスを見て苦笑し、「少なくともあなたは信用できそうですね」と言った。