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冬のカナリア とある魔術師の旅路  作者: 鹿邑鳩子
3 ヘロデーの見えざる目
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5話 嘆きのロナー


 町でいちばん偉いお方のお屋敷が燃えたのは、三年前の出来事だった。

 よくある話で、政敵であった誰かが差し向けた下手人に放火されたのだ。


 お館様が留守にしていた時だった。

 お屋敷には、奥様と、ご嫡男と、ふたりの年頃のお嬢様と、小さな坊ちゃんが、何も知らずにお休みになっていた。


 ──みんな、燃えてしまった。誰も、助からなかった。


(あたしが仕事をしなかったせいで)

 

 後悔先に立たず。

 人間は愚かだから、衝動的に罪を犯したあとでしか己の行動の浅はかさに気づけない。

 けれど気づいて、償える範囲の罪ならば、まだいい。


 己の職務怠慢のせいでおきた事件で、仕えていた主人たちを皆殺しにさせてしまった使用人(メイド)は、どうしたらその罪を償えるのだろうか。



 ⌘



「ロナー! あんたまた奥様の宝石を盗んだわね!」


 脳天に振り下ろされた羽扇子が、バチンと音を立てた。

 羽扇子は一見ふわふわとして柔らかそうに見えるけれど、骨組みは金属で出来ている。


 そんなものが畳まれた状態で思いっきり頭に振り下ろされれば、殴られたも同然だった。

 ロナーは衝撃と痛みに涙を浮かべながら、仁王立つメイド頭を見上げる。


(違います。宝石なんか、盗ってない。濡れ衣なのに)


 反論は許されない。したところで嘘つきだと罵られ、折檻が余計にひどくなるだけだ。

 ロナーは先ほどまで磨いていた床に両の手を押し付ける。

 磨き上げられたピカピカの床には、目をうつろにした痩せた女が映っている。


(申し訳ありません。役立たずで)


 ロナーは無言のまま頭を下げた。

 火事で前の主人たちを喪って以来、もう三年声が出ない。


「そうやってあと何度床に頭を擦り付けたら、屋敷を出て行く気になるのかしらね」


 痛烈に言い捨てると、メイド頭は靴音も高く立ち去った。

 ロナーは頭を上げると、また黙々と床を磨く作業に戻る。


 朝から晩まで床を磨く。

 屋敷にはモップやブラシなどの掃除用具も揃っているが、バケツに雑巾をもって素手で磨くのがお前の仕事だと他の使用人に言いつけられていた。


 この屋敷に引き取られた時は絶望で目の前が真っ暗だったから、嫌われていようといじめられようとどうでも良かった。

 心が壊れている時、現実的な問題は意識にはのぼらないものだ。

 ただ、苦しみの根深さが増してゆくだけ。


 それから三年ほど時間が経過した今でも、その苦しみは胸に蔓延っている。


 とはいえ、いまのロナーにとって胸の闇は居ることが当たり前になってしまった。

 苦しみはロナーの一部になってしまったのだ。

 

 いまではどんなに辛かろうと絶望していようと、現実が見えてしまう。

 むしろ幸福だった三年前よりも、ずっと現実が見えるようになったのかもしれない。

 夢見がちな若い娘の心は死んだのだ。

 

 それはまるで呪いのようだった。

 絶え間なく不幸が襲いかかってくる現実が、己にしか見えないのだから。

 苦しみを分かち合ってくれる人なんて、誰もいないのだから。


 仕事を終えたロナーは帰路についていた。

 空は夕暮れも終わる頃で、もうじき夜の市が訪れる。

 

 この町で夜といえば、魔の道に通じる者たちがあやしげな商品を取引する時刻。

 眉唾な噂だが、かつて強大な魔女がこの町に住んでいた頃、真夜中の十字路に悪魔が店を出し、珍しい物を売り買いしていたという言い伝えの名残なのだそうだ。


(悪魔なんて、いたのかしらね)


 噂の真偽はさておき、夜は取引の時間だということは誰もが知る事実だった。


 客の中には身分を隠した──つまり姿を見られる事を嫌う者もいて、うっかり遭遇してしまえば命を取られることもあるという。


 帰りが遅くなってしまった。

 その夜がもうじきやってくる。

 ロナーは早足から小走りに、祈るような心地で家路を急ぐ。


 どうか災厄に見舞われません様に。無事に家にたどり着けます様に。

 けれどそうやってどんなに思いを込めたって、ロナーの祈りが天に届いたことなど一度もない。


(あっ!)


 薄暗い道に足を取られ、ロナーはその場に倒れ込んだ。

 咄嗟に地面に着いた手のひらが、じんじんと熱を持って痛む。


 痛みを堪えながら立ち上がろうとしたロナーだったが、その瞬間とんでもないものを見てしまった。

 地面から青い手が生えていて、それがロナーの足首を掴んでいるのだ。


 ──悪魔だ。


 自分の身に何が起こっているのか、理解が出来なかった。

 地面から手が生えている時点であり得ないことなのに、どう見ても人間の手ではない。


 悪魔の手だ、とロナーは思った。

 悪魔が己を、永久の夜の国に引き摺り込もうとしている。


「いたずらはやめなさい」


 震えて腰を抜かしたロナーはやっとの思いで顔を上げた。

 静かで穏やかな響きの男の声が、ごく近くで聞こえたからだ。

 

 まるで耳元で囁かれているみたいな。

 その男は暗闇の中で浮かび上がっているように見えた。

 

 ありがちな旅装束を着ているが、陽の光を浴びたことがないようにすら見えるほど異様に肌が白い。

 肩のあたりで揃えた黒髪がさらさらと風に揺れていて、ロナーはその姿に見とれた。


 脳裏をよぎったのは、母が死ぬ前に聞かせてくれた物語だった。

 両親を亡くした娘が継母と連れ子に使用人のようにこき使われるが、最後には王子様が迎えに来て幸福を得るという話。


 まるで貴公子みたいだとロナーは思った。

 けれどすぐに、ロナーは己の考えを嘲った。

 純粋無垢な娘でなければ、王子様には見染められない。


『冬の君……』


 地面の下から、ザラザラと低くしわがれた獣じみた声が聞こえた。

 足元を見れば、青い手がロナーの足首を爪で引っ掻きながら、ずるずると地面に沈んでいくところだった。


 どっと汗が吹き出した。

 息を荒げるロナーに向かって、黒髪の男は滑らかな手を差し伸べた。


「立てますか」

(っ、ええ、わたし……!)


 声が出ないことをこれほど恨めしく思ったことは無かった。

 こんなに綺麗な人に助けてもらって、お礼も言えなければ名前を告げることもできないなんて。


 喉を押さえて俯くロナーを、男は少し首を傾けて見つめた。

 黒髪が揺れるたびにしゃらしゃらと音がしそうだった。


「話せないのか。見せてごらんなさい」


 男は真っ白な手を伸ばしてロナーの首元に触れた。

 男性的ではない姿のせいか、それとも医者が診察をするような表情だったからか、恐れも抱かずにロナーは身を任せた。


 未婚の女が男に触れさせるなんて、知れればこの町には居られなくなるくらい恥ずかしいことなのに。

 夜だから、明かりがないから。

 自身に言い訳をしながら、ロナーの胸は高鳴る。


 肌をなぞる指先を感じながら、心地よく目を閉じていると、喉に触れていた男の手が頬を伝って額に動いた。

 額を手のひらが覆うと、不意に陽の光にあたったように、触れた部分が暖かくなる。


 それはとても心地のよい時間だった。

 身体中から余計な力が抜けて、つらい記憶も薄れていく。

 春の芽吹きや、温かで安全な家、貴婦人が着る美しいドレスの裾をロナーは連想した。

 目覚めているのに、幸福な夢を見ているようだった。


「これでどうだろう」


 始まりと同じように、唐突にそれは終わった。

 夢見心地に目を開くと、すぐ目の前にあの綺麗な黒髪の男の顔がある。


「……あなた、わたしがお仕えしている奥様やお嬢様たちよりずっと綺麗だわ」


 ため息とともに転がり落ちたその声は、失って久しい、間違えようもない己の声だった。




 家に帰るまでの間、使役を付けようと黒髪の男は言った。

 もう空も暗いしどうやらこの土地は穢れがある、穢れがあると夜の生き物が取り憑きやすいから、娘がひとりで歩くのは危ない。


 黒髪の男がそう説明するのをぼうっと聞きながら、ロナーはこの人が家まで送ってくれるのだと思い込んでいた。

 ところが、彼はしゃがみ込んで地面に手のひらを当てると、不思議な響きの言葉を一節つぶやいた。


「見つけた。君、君だよ。こちらへおいで。行くあてが無いのなら、僕がお前を食わせてやろう」


 呪文のような一節を唱えるなり、地面に向けてそう話しかけた男の挙動に、夢見心地のロナーも流石に不安を覚えた。


 けれどその矢先、地面の中から先程の青い指先がゆっくりと伸びてきて、甲を上にしてその手を差し出したとなれば、話は別。

 

 悪魔の手だ。

 ロナーは凍りつく。


「いい子だね」


 彼は慈しむような穏やかな声音でそう言って、差し出された手の甲を指先でなぞる。

 見慣れない光の模様が浮かび上がる。

 青い手は描かれるまま、大人しくそれを待っている。


 不思議と神聖な儀式に思えた。

 ロナーは青い手の悪魔を容易に手懐ける美しい男に、恐れを抱かずにはいられなかった。

 この男は何者なのだろう。


「お前の仕事は、彼女を守ることだ。誰にも姿を見せてはいけないよ。存在を気取られぬよう、地中に潜んでこの娘を守ってやりなさい。人間を傷つけないこと。腹が空いたら戻っておいで」

『そのように』


 あの低いしわがれた声が答える。

 ロナーはぞっとしたが、青い手が地中に消えた瞬間に己の影に不思議な温もりが宿るのを感じて目を瞬いた。

 

 害意がない。

 それどころか、安心感さえ覚えている。


「どうして……」

「恐らくあなたはとても感受性が強いのだと思う。影を通じて使役の感情が伝わっているのでしょう」


 男は立ち上がると、外套の裾を軽く払ってにこりとロナーへ微笑みかけた。


「僕はしばらくこの町に滞在する予定です。その間、青い手のその子を貸してあげる。あなたにまとわりつく邪気から守ってくれるだろう」

「あ、ありがとうございます。そうだ、お名前は……あれ?」


 まごつきながらそう尋ねたときには、すでに男の姿はない。

 どうせ送ってくれるならあの人が良かったのにと思いながら家路を急ぐと、影の中で「青の手」(かれ)が小馬鹿にしたように笑った。




 その夜以来、ロナーには奇妙な友達ができた。

 青の手は忠実で、日中はいつもロナーの影に潜み、夜は時折気配を消したが、戻ってくると話し相手になってくれることもあった。


 翌日、ロナーが屋敷に出仕してメイド頭に朗らかな挨拶をすると、彼女は取り巻きの先輩メイド共々ぽかんとして驚いていた。


(間抜けな顔だこと)


 小気味良くて忍び笑いをしながら持ち場に向かうと、背後で短い悲鳴が聞こえた。

 振り返るとメイドのひとりが派手に転んで、慌てて捲れ上がったスカートを直している。


 いつも意地悪をしてくる女だ。

 もしやと思い自分の影を見下ろすと、くっく、と可笑しそうに笑う気配がする。

 悪魔が助けてくれたのだ。


 これは頼もしい守り神を得た。

 ロナーはすっと息を吸って背筋を伸ばす。


 もうこの家で怯える必要はなくなった。

 声も出るし、なにより一人ぼっちじゃ無い。


「あたしはもう大丈夫なんだわ」


 誰にともなくそう言うと、ロナーは晴れやかな気持ちで仕事にとりかかった。


 今日からは言いたいことも言える。

 罪を被せようとする同僚を糾弾することもできる。

 過去の罪が消えるわけでは無いけれど、少なくとも現状はマシになったのだ。


 たとえ束の間の気晴らしだったとしても、かまわない。

 長年ロナーが求めていたものこそ、まさにこの救いの手だったのだから。



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