49話 賢者の都へ
本日も快晴、世界は夏の盛りを向かえていた。
木々は青々と茂って道ゆく人々を日差しから守るように枝を伸ばし、風に葉を揺らしてさわさわと歌っている。
のどかな風の囁きと鳥たちの囀りを聞きながら、カナンは囁くように歌を口ずさむ。ブレスの知らない言葉の歌だ。
成り行きで仲間入りを果たした悪霊犬に噛まれたブレスの足首もほとんど治り、ふたりは次の町を目指して荷馬車にガタゴト揺られていた。
「馬車が通りかかってくれて助かったね」
ブレスの足を気遣ってカナンが止めた馬車である。夏の暑さに体力を消耗していたブレスとミッチェは、荷台の日除けの下で涼むことができてほっとしたいう顔だ。
「本当ですね……この日差しのもとを次の町まで歩き通しなのは、さすがに厳しいですよ。馬とか買わないんですか、先生」
「馬ねぇ」
カナンは指先で顎を撫でるいつもの仕草をして、いいや、と首を振る。却下である。
「僕は獣に嫌われてしまうのですよ。なので一般的な馬は使えません」
「ああ……じゃあ馬っぽい魔物とか魔獣が使役としてついて来てくれない限り、無理なんですね」
「大丈夫ですよ。テンテラに乗っていけば、なんとか冬に間に合うと思います。ほら、もしライラに追いつくことが出来なくても、〈北の最果て〉まで飛んで行けば。あの地の冬が厳しくなる分には誰も気にしないでしょう」
「北に住民はいないかもしれないけど、生き物はいるんです。書の魔女もいる。その案には賛成しかねます」
そういえば書の魔女が「竜は世界で一番速い」と言っていたが、〈北の最果て〉から数日で飛んで来られる生き物に乗って無事でいられる人間がどれほどいるといるのだろう。
(たぶん風避けとか気温変化の対策とか気圧変化に対する防御とか、乗っている間に色々魔術を使わないといけないだろうな。眠れないだろうし、うん、俺は乗れないや)
乗ってみたい気はするが、命をかけるほどではない。ブレスの思念に猫妖精ミシェリーも同意した。
『わたしは絶対にのらニャいんだからね』
「わかってるって」
わかっているならいいのよ、フスン、と鼻息を吐くミシェリーは、最近やっとブレスを主人に認めてくれた大切な相棒だ。
ブレスはこの綺麗な黒猫が大好きである。
「ところで先生、この荷馬車はどこへ行くんです?」
ガタゴトとのどかに揺られながら、ブレスはなんとなしに聞いた。
カナンの旅に同行しつつ魔術の腕を磨くことがブレスの目的なので、実は行き先にはさほど関心がない。
とはいえ知っておくべきかな、という小さな義務感で訊ねたブレスであったが、カナンの答えを聞いて度肝を抜かれた。
「次の行き先は、エルシオンです。賢者の都エルシオン。君も知っているでしょう?」
「知っているも何も、魔道学問所のある都市じゃないですか!」
エルシオン。その名の意味は「楽園」である。それも死後に亡者が住まうという楽園だ。
この都市は大陸中のあらゆる学問を学ぶための施設と人材が揃っており、学生や研究者にとっては文字通り楽園のような都市国家。
一方で畑を耕すことや商売に追われている人々にとっては全く縁のない場所でもある。
死後の楽園、という名前は、そういった人々が皮肉をこめて呼び始めたことに由来する。
生きているうちは縁のない場所、ということだ。
ブレスはこのエルシオンから町みっつ分離れた孤児院で育った。孤児院に寄付される本は大概はこのエルシオンの学生やその親たちの不用品だったから、様々な学問の本の中に魔術関係の本も混ざっていた。
母ルシアナは海を渡ってこの大陸へやってきたから、土地柄を知らなかったのだろう。
そうでなければ、ブレスを魔術から遠ざけたかった彼女が、わざわざこのエルシオンの近くにブレスを預けてゆくはずがない。
(母様の思惑とは違ったんだろうけど、この都市の近くに住めたことは幸運だったな)
きっとそうでなければ、孤児院に魔術の本が寄付されることもなく、ブレスが魔術師を志すこともなかっただろうから。
そう思えば不思議な感慨が湧いてくるが、手放しでは喜べない事情がブレスにはある。
「あのですね、先生」
ん、と振り向くカナンを前に、ブレスは深呼吸をして告白した。
「実は俺、この都市で魔術を学び始めた最初の二年くらいの間、相当な悪童というか、問題児だったんです。後半は更生したので模範生だったのですが、悪目立ちしたのできっと俺を覚えている人が多少は残っているかも」
「なるほど。他者の注目を集めたくない我々にとって少々面倒な土地、ということですね」
「はい……出来れば俺も、知り合いに会いたくないというか……もちろん通り道なら仕方ないですが」
カナンの今年の旅はただでさえ遅れているのだ。ここで昔のあれこれを引っ張り出されて足止めを食うのはよろしくないに違いない。
事前に知っていた方がいいだろうと思い、ブレスは己の黒歴史の上澄みを話したが、カナンはさほど気に留めた様子もなかった。
そうですかと受け流し、勝手に荷台の積み荷の真桑瓜を割って食べ始める。自由人だ。
「行き先を変えることは許されないのですよ」
半分寄越された真桑瓜をブレスが齧っていると、カナンが遠くを見つめながら呟いた。
「僕は姉の指定した進路を進むしかない。それが眠りの魔法をかけてもらうための条件だから」
「……春の君はどうしてそんな手順を踏ませるのでしょうか」
「さあ、ね。僕は今までライラの言葉に従順だったけれど、最近やっとそれを考え始めたよ。答えはまだ見つかっていない。どうして、と物事に理由をつけたがるのは人間の発想だから、もしかしたら君にならその理由がわかるかもしれないね」
人間の発想か。そういうものなのだろうか。
カナンが真桑瓜の袋に銅貨を多めに放り込むのを眺めながら、ブレスはこれまでの出来事を振り返る。
カナンの通り道には厄介ごとが並んでいる。
それが意図的なものであるような気がするのは、ブレスが人間であるからなのか。
荷馬車や辻馬車を数日乗り継ぎながら、ふたりは未明、エルシオンに到着した。
学問の栄えるこの都市は、主に学問所と住居、市場、食堂で構成されている。発展している学問は魔道学だけではなく、建築学、化学、天文学、医学、数学、史学、芸術、神学、民俗学など数え始めればきりがない。
教え、学ぶ者のために存在するエルシオンの恩恵は学びのみならず、衣食住の質も配慮されている。
「学問に貴賤はなく、どのような学問も極めるためには衣食住の充分な環境が必要である」という理念は、すべての学者らの所属する学術協会の長、オルカーン・アルベルト・サッジョによるものである。
この都市でもっとも権威あるものは学者、ひいてはその長であるサッジョであり、富裕層は彼らの支援者だ。
富裕層の多大な寄付によって都市は潤い、潤沢な資金がさらなる学問の発展を促す。
学園は成果を支援者へ譲渡・提出し、支援者はその新たな情報をもって商売や製品を生み出して儲ける。
そうしてエルシオンは学者たちの楽園であり続ける、という仕組みでこの都市は回っている。
ブレスが魔道学を学んでいた時、このエルシオンはそのように栄えていた。治安は良く、活気があり、若者が生き生きと勉学に励み、未来を見据えて目を輝かせていた。
当時は、そうであったのだが。
「様子がおかしいですね」
カナンの呟きに、ブレスも頷く。かつてのエルシオンであれば、朝日が登れば市場に品物が並び始め、食堂は煮炊きを始めていたという時刻。
それがなぜか、人の気配が極端に少ない。
学舎へ向かう学者たちも人目を忍ぶように早足で通り過ぎ、ブレスが声をかけようと近づこうものならば走って逃げる始末。
警戒と怯えの入り混じった目で睨まれれば、流石に声をかけるのも躊躇われる。
「いったい何があったんでしょうか」
「とにかく君の昔の知り合いを捕まえて話を聞かなければね」
「ああ、やっぱりそうなりますよね……」
カナンは肩をすくめ、す、と片足を踏み出し──ブレスをトンと突き飛ばした。
突然の攻撃にわあと声をあげ、ごろんと石畳を転ったブレスは、文句を言おうと立ち上がりかけてその場で凍りついた。
周囲を黒いローブを着た人々に囲まれていた。
ブレスの立っていた場所は、火で焼かれたように黒く煤けている。
「この僕に気づかれることなく、ここまで近づくとは」
カナンのエメラルドの双眸が不穏に燦く。足元に落ちた影からツノと鉤爪のクルイークが飛び出して、黒ローブの人々を牽制する様に低く唸った。
クルイークを見た数人が、一歩足を引く。
狼狽えた人影は、悪霊犬がなんたるかを知っているのだろう。
つまりは魔道学を学んだ者である、ということ。
「特殊な魔術具を身につけているのかな。例えば、〈遮断の腕輪〉とか?」
カナンの言葉にさらに数人が怯んだ。
顔を見合わせ、囁き声を交わす人々に、カナンは追い討ちをかける。
「敵意があるのならば、相手をしてあげてもいい。けれど僕は、手加減が苦手なんだ。だから君たちの相手は、そこにいる僕の可愛い犬か、それとも」
カナンの足元から、禍々しい魔力が黒炎のように立ち上る。
その魔力の合間から彼らを見つめる、真紅の大きな爬虫類の目が、ふたつ。
「この子が相手をするけれど……さて、どうする?」
どうするもこうするも、そんな選択肢があってたまるか。
ブレスはため息をつきつつ立ち上がり、「可愛い犬」と言われてやる気のみなぎるクルイークの前を横切り、足元で「おのれ犬め」と嫉妬の唸りをあげているテンテラの前に立ち、カナンを見上げた。
「先生、子供をからかっていじめて愉しむってのは、神様としてどうなんです?」
「どうと言われても、君を狙ったのだよ。先に弱いものいじめをしたのは彼らです。自業自得ではありませんか」
「いくらなんでも大人気ないです。可哀想じゃないですか。あんなに怖がって」
ブレスはちらりと背後を見る。周囲を囲むように立っていた黒ローブの人影は、いつのまにか一塊になって身を寄せ合い、小鳥のように震えている。
中には座り込んで立てない者や、気を失ってしまいそうな者までいる。どう見ても彼らは若年だ。
カナンは気まずくなってそっと目を逸らした。脅しすぎたようだ。
仕方なく二頭を影に呼び戻し、カナンはふうとため息をつく。
──たしかにブレスの言う通りだ。攻撃にカッとなって脅しをかける前に対話をすべきだったかもしれない。
そう思いなおしたカナンが、事情を訊ねようと先程踏み出し損ねた足を一歩踏み出すと。
「ひっ!!」
「やめて、こないでぇ!」
「殺さないで、ごめんなさい、ごめんなさいぃ」
「誰か助けて、うわあああん」
阿鼻叫喚であった。
「……ええ……?」
どうしたことだろうか、そんなに怖がることある?
そんな顔で困惑して立ち尽くすカナンに、ブレスは「ああこの人、ほんとに人の気持ちがわからないんだな」と痛感した。
それは理解というよりは諦めだ。
聖王シャファクがカナンに対して色々と諦めた気持ちが解ってきた。
なんだろうか、この残念な心境は。
「先生、ここは俺が取り継ぎますから……」
「うん……そうしてください……」
あからさまな反応に落ち込んだらしい師を背に、ブレスはやるせない思いで泣きじゃくる黒ローブたちに歩み寄る。
怖くないよ、とアピールするため両の手のひらを無防備にあげて、できる限りの笑顔を浮かべて。
そのブレスの背に向かい、突如として猪のように突進をかけた大柄な人影が叫んだ。
「私の生徒に何をしておるか貴様らあ!!」
「ぐうぇっはぁ!?」
カナンの比ではない突き飛ばし、いやこれはもはや体当たりだ、全力の体当たりを背中と腰に食らったブレスは呆気に取られるカナンの前をすっ飛んで通過し、猫妖精が慌てて空気の障壁で受け止めるまで五馬身ほど吹っ飛ばされた。
その男は大声で怒鳴りながら黒ローブ──生徒たちの前に飛び出し、ひとりの肩を鷲掴んでガタガタと振る。
「お前たち! 無事か!? 無事であろうな! 無事だといってくれ!!」
「ぶ、無事です、先生」
「大丈夫ですから手を離してあげてください」
「頚椎捻挫しかねません先生」
「おお、そうか、すまなかったな!」
大柄な男はこれはしまったという様子で生徒を手放し、これまた唐突に吹き飛ばしたブレスに向かってずんずんと歩を進める。
「貴様、我が生徒を手にかけようとはなんたる暴漢、己の罪を悔いつつ根の国へ向かうがいい……」
「待っ、待ってください! 俺をお忘れですか、ハオ先生!」
ブレスは慌てて声を上げる。腰と背中に洒落にならないダメージを負ったような気がしてならないが、目の前にケダモノがいるので怪我に構っている場合ではない。
大男は胡乱に灰色の目をすがめ、ブレスを睨み上げる。
「なに? なぜ私の名を知っている」
「俺がこの魔道学所の生徒だったからですよ!」
「なんだと? む……おお! その赤毛に緑の目、お前は!」
灰色の目が喜色に染まる。ブレスは顔を引き攣らせた。
ああ、嘘だろう、やめてくれ。
「お前は、聖リリー孤児院の赤い悪魔ではないか!!」
大男の大声が、騒ぎに集まりはじめた人々に響き渡る。
「……赤い悪魔?」
カナンがぽかんとした顔で呟く。
ブレスの顔が羞恥に染まっていく。こんなのひどい、公開処刑だ。
学生時代の黒歴史である通り名を、よりによってこんな大勢の前で叫ばれるとは。
元気でやっていたのか、なぜ学園にいるのだ、と騒ぎ立てる男の前で、ブレスは顔を覆った。
なんだか余りにも、いたたまれなくて。