48話 吾輩は犬である
吾輩は犬である。名前はクルイーク。
先程拾ってくれた主人からさずかった、有難い名前だ。
名前がある、というものは良い。吾輩はクルイークになる前には別の名前があった。
吾輩はそれを失ったのである。名前がなんであったのか、吾輩は魔物であるが故に思い出すことが出来ない。
使役の契約というものは厄介である。否、全てが全て厄介という訳ではなく、主人がまともかそうでないかという点にその後の命運がかかってくる、という性質が厄介なのだ。
吾輩がクルイークになる前、そして名前を失う前、ある男がまだ産まれたてであった吾輩を山中の墓場で拾い、名付けた。
男は手を怪我しており、吾輩は男の手に滲む血を舐めた。うまい、うまい。
名と血を貰う。これが契約締結の条件であることを、当時の産まれたての吾輩は知らなかったのである。
吾輩は人間と契約し、自我を得た。
自我を得た吾輩は、己が何者であるかを知った。黒い犬の姿の魔物、不吉の象徴、悪霊犬バーゲスト。
また、我輩の主人となった男の素性も、その日のうちに明らかとなった。
魔物と契約を交わす者といえば、魔術師であるが、その男はなんと魔術師ではなかった。
男は猟師であった。我輩を拾ったのも、これまで使っていた猟犬が猪の反撃にあって死にかけている、という理由らしい。
その上男には妻子がおり、自我を得ることによって魔物として覚醒した我輩は日々そのうまそうな妻子と死にかけの犬を前に食欲を押し殺す日々に耐え忍ぶこととなった。
唯一救いであったのは、猟犬として獲物の血を啜る機会には恵まれていた、ということだろうか。
そうでなければもっと早くに、死にかけの犬を食ってしまっていたかも知れない。
その先代の犬は、老いていた。老い、怪我を負って役に立たなくなったというのに、我輩の主人はその犬のことを気にかけ、手を尽くそうとしていた。
犬は我輩が魔物であることにその鋭敏な嗅覚と本能をもって気づき、我輩が近づこうとすると死にかけの体を引きずって吠えたてた。
主人はそんな犬を見、大丈夫だぁ、お前がいちばんだぞぉ、と犬を宥めた。主人は犬が嫉妬していると思ったらしい。とんだ間抜けである。だが、その情け深さを、我輩は好ましく思っていた。
相変わらず我輩が魔物であることに気付かぬ主人。気づけば、我輩は犬としての振る舞いを覚えていた。
主人の姿を見れば尾を振り、甲高い声で甘え、血を舐めとるための舌で主人の頬を舐め、主人が笑って撫でるそぶりを見せれば腹を見せて地面をゴロンゴロンする。
まったく、魔物にあるまじき振る舞いである。
時折我に返って居住まいをただそうと試みるが、主人が耳の後ろを掻いてくれたりすると力が抜けて──ああ、そこそこ、気持ちいいです冬の君、もっとして、クゥン……じゃなかった、とにかく一度覚えてしまった快感を忘れることは出来なかった。
そんなある日、とうとう死にかけていた先代の犬が死んだ。主人はおおいいに嘆き悲しみ、庭に穴を掘って犬を丁寧に葬った。
我輩は耐えた。あの犬の死骸から漂う芳しい死の匂い。食うことに対して貪欲な我輩が一晩どうにか耐え切れたのは、ひとえに主人への忠節のためである。
ところが、犬の死に打ちのめされた主人はその後数日狩りに出なくなった。
これは死活問題であった。一晩たち、ふた晩たち、そして三日目になると、我輩はとうとうその夜こっそりと家を抜け出して犬の墓をあばき、屍肉を食らった。
主人には知られてはならぬ行いだ。してはならぬことと理解はしていたが、我輩は誘惑に打ち勝つことができなかった。
肉も骨も食らいつくし、満足した我輩は、前足と後ろ足で掘り返した穴を埋め、そのまま何食わぬ顔で主人の寝床に戻った。
主人は翌朝になって狩りに出かけると言った。あと一日早くそうしていれば、我輩も犬を食わずとも済んだものを。
罪の意識、という魔物にあるまじき感覚の芽生えは、皮肉なことに我輩の更なる力となった。
これまでまったくただの黒い犬同然であった姿に、変化が起き始めたのである。
黒い爪は大きく鋭く変化し、目は赤くなった。主人は首を傾げたが、追求はしなかった。我輩が従順であり続けたためである。
そうして五年の年月を我輩は主人と共に狩りをして過ごした。
狩りのたびに、次第に獲物から舐めとる血の量は増えていった。
次第に肉を欲するようになり、主人に隠れて鳥を襲い、骨ごと噛み砕いて食った。うまい、うまい。
食えば食うほど飢えは増し、何を食っても満たされなくなったのは、いつからだったか。
我輩は飢えの正体に薄々気づき始めていたが、顔を背け続けた。主人を裏切りたくなかったのか、寝床を失いたくなかったのか、名無しに戻りたくなかったのか、理由は判然としない。
その全てだったのかもしれないし、そうでなかったのかもしれない。
食欲を押し殺す日々が我輩の理性を次第に奪っていった。
そして、とうとうあの日がやってきた。
我輩の目の前で、当時孕っていた主人の妻が産気づいた。主人は留守であった。女は苦しみ、叫び、血を流しながら赤ん坊を産み落とした。
家に充満する血と、死の芳しい匂い。そうだ、赤ん坊は死んでいた。死体だ。
──血ダ。人間ノ肉ダ。死体ナノダカラ、喰ッテモイイ。
己の中で暴れ回る食欲と狂おしいまでの渇き。唾液が溢れ、足元を濡らす。
主人の妻が、死産の後の虚ろな目を恐怖に染め、我輩を見ていた。
そこから先の記憶は曖昧である。覚えていたことはひとつだけ。
うまかった、ということである。
いつのまにか背後に立っていた主人は、猟銃を構えていた。おぞましいものをみる目で我輩を見下ろし、主人は引き金を引いた。
銃弾は肩を傷つけたが、我輩は飢えの満たされた多幸感で判断力を失っていた。
主人がなぜ我輩を撃ったのか、理解ができず、いつものように甲高い声で甘え、腹を見せて転がって見せた。
血溜まりが背中の毛を濡らすのに、構いもせずに。
主人は我輩の腹をも撃った。銃弾は内臓を傷つけ、流石の我輩も逃げ出した。主人は弾が切れるまで何発も何発も我輩を撃った。
我輩はそうして主人から追放されたのであった。
何がいけなかったのか。答えは未だにわからない。肉は肉ではないのだろうか。
何を食っても良くて、何を食ってはならないのか。
あるいは、魔物を使役する能力に長け、意思疎通のできる魔術師が主人であったのならば、それを教えてもらうこともできたのやもしれぬ。
今となっては変えることの出来ない、過ぎたこと。
それから四十年余りの年月を、我輩は野で過ごした。主人に追放されたとはいえ、契約の破棄は行われぬままであったから、我輩は主人の命が終わるまで自我を持ち続けることができた。
四十年という年月の思考は我輩にツノを生やし、古来のバーゲストの姿を取り戻させた。
だがその主人も死んだらしいとわかったのは、我輩が名を失ったからである。
主人が死に、血の繋がりが途切れ、契約は破棄された。
日に日に薄れゆく自我をどうにか繋ぎ止めながら、我輩は餌を探し放浪した。
どれほどの時間をそうしていたのか、ただの魔物に成り下がりかけていた我輩にはわからないが、獣や魔物や墓場の屍肉を食らって過ごしていたある日、鼻先を極上の餌の匂いが掠めた。
この餌を喰らえば、自我を失わずに済むだろうか。そう思い、獲物に近づき、追い回し──気づけば目の前に迫った巨大な顎に、後ろ脚を引きちぎられていた。
──死ヌノダ。
痙攣する身体、痛み、恐れ。それらをひしひしと感じながら、死ぬのだ、と思った。
所詮は肉。我輩も肉の糧だったのだ。
ああ、しかし、これでもう飢えや渇きや自我を失う恐れに煩わされることもない。
──ヨカッタ。
黒い顎が眼前に迫ったその時、我輩とその顎を隔てるように、すっと何かが横切った。人間の腕だった。
懐かしい形だ。主人と同じ人間の腕。
撫でては、くれないだろうか。最後に、一度だけでいい。
「テンテラ、食事はおしまいだ」
黒い顎の持ち主は不満げに喉を鳴らしたが、宥められて影の中に沈んでいった。これほどの魔物が素直にいうことを聞くなど、あり得るだろうか。
そのような疑念も、かすみ始めた視界にその姿を、かの方の眼を見た瞬間に消え失せた。
冬のお方。我らが夜の眷属の王。自我を得た我輩は知っている。
「生きるか死ぬか、選ぶがいい。死にたければ終わらせてあげる。生きたければ使役に迎え、血をやろう」
(……ナデテ……クレル……カ)
「変わったバーゲストだね」
冬のお方はほのかに笑い、人間の形の手のひらで、我輩の首筋をそっと撫でた。
我輩は思い出した。自我を失うことが恐ろしかったのは、主人の手の心地よい感触を忘れたくなかったからだったということを。
生きたいと告げると、冬のお方は手首を切って我輩に血を与えた。口元に滴り落ちる赤い水の、なんと甘美なことか。
『ウマイ……ウマイ……うまい……』
「泣くほど気に入ったのかい」
血の締結。冬のお方は我輩に名を与え、我輩は再び主人を得た。
こうして我輩は冬のお方の使役となったのであった。
というわけで、我輩は犬である。名前は牙。
冬のお方からいただいた、誇らしい名前だ。
犬であるからには、忠節を尽くそうと思う。今度の主人は魔術師なので、以前のようなあやまちが起きれば、きちんと正してくれるであろう。
この心地よい手の感触を失わぬためにも、お役に立ちたいと思う所存である。
しかしながら、黒い顎の持ち主よ。
我輩が影に入ろうとするたびに口を開けて待ち構えるのは、どうかやめていただけないだろうか。
再生したばかりの後ろ脚がいつに間にかまた無くなっていた、などという恐ろしい事態を避けるためにも、我輩はいそいそと冬のお方の手の下に潜り込むのであった。
ああ、そこそこ、耳はだめぇ。キュン。
我輩は犬である 終
バーゲストは「犬の悪霊」ではなく「悪霊が犬の形をとったもの」なので、正確には犬ではない。
クルイークが己を犬だと言い張るのは、最初の主人の側にただの犬として居たかったからです。