46話 猫妖精のご主人 後編
「気がつきましたか」
目の前でぱちぱちと焚き火が爆ぜている。
単調なカナンの声に、ブレスはごろりと寝返りを打つ。
腹のあたりで、黒猫妖精が丸くなって眠っていた。よかった、無事だったのだ。
「あー……何がどうなったのか、教えて頂ければと……」
「失神していたのですよ。バーゲストに噛まれたでしょう。唾液に毒があったようです」
まだ起き上がらない方がいい、と呟きながらカナンがブレスの額を弾いた。お叱りだ。
はい、と大人しく頷く。噛まれた足首が痺れている。
(熱が出たら嫌だなぁ……)
横目で見やれば、カナンはすり鉢で何かをすり潰している。漂ってくる独特の匂いから察するに、化膿止めの薬草だろうか。
革製の長靴を突き破るなんて、まったくなんという牙だ。
「君、死ぬところでしたね」
ごりごりとひたすら薬草をすり潰しながら、カナンは普段の調子で言った。今日はいい天気ですね、とでも言うように。
何万年も生きている彼にとっては、これしきの災難など蝿にたかられたようなものなのだろう。
「助けてくださってありがとうございます……」
「彼女に感謝することです」
「ミッチェに?」
「咬み傷を舐めて毒を清めたのは彼女ですよ」
「……そう、ですか」
嫌われているのだと思っていたのに。感謝を込めてミシェリーの額を撫でると、ミシェリーは僅かに目を開けてブレスを見た。そっけなくそらされる視線。
いつものミシェリーだ。ブレスはそっときれいな毛並みを撫でる。
「助けるつもりが助けられてしまいました」
「君はちゃんと彼女を守ったではありませんか」
守ろうとはした。でも、守り切ることは出来なかった。
「……俺は先生のところに戻ることしか考えてませんでしたよ」
「最善の手でしょう」
煮沸した包帯にすり鉢の中身を丁寧に塗りつけて、カナンは言う。
「それとも無駄に格好をつけて、彼女ともども犬に食われて終わりたかったの?」
「それは……嫌です……」
「それなら君の判断は正しいと言える」
ブレスの足首を掴んで膝に乗せ、カナンは手慣れた手つきで傷の手当てをし始めた。
最近はだいぶカナンの存在にも慣れたとはいえ、神様の一柱に足を向けているとは、なんとも申し訳ない気分だ。
「こういうことは、エッタの方が得意なのですが」
丁寧に布を巻き付けながらカナンが呟く。エッタ──夏を造ったヘリオエッタのことだろうか。
カナンは滅多に兄弟姉妹の話をしない。秋のサハナドールの書庫で彼らの神話を読んだブレスには、その理由がなんとなく察せられた。
冬を作りしカナリアは終わらせる者。彼は病を作り、死を作り、夜を作った。彼の最後の作品は冬。
寒さは病を呼び、死を呼び、夜は長さを増す。彼の翼が空を覆うように世界は冬に覆われて、彼の姉や兄が産み育て熟れさせたものを一掃した。
父神サタナキアが再び世界に春を齎し、循環の輪を世界に組み込むまで、カナリアは兄姉たちから「破壊の子」と謗られたという。
夏を司るヘリオエッタは苛烈な性格で、カナリアの行いに怒り狂ったと記されていた。
そのヘリオエッタが治療を得意とするとは、意外だ。
いつかこの旅の果てに、夏の風雷ヘリオエッタとも関わりを持つ日が来るのだろうか。
治療をおえたカナンがブレスの足を手放し、すり鉢をぬぐい、背嚢にしまう。
その背嚢にブレスの足を乗せて、カナンはひとつ息をついた。
「テンテラが一度目の脱皮をしました」
「……やっぱりあれ、先生の竜の子だったんですね」
気を失う前に見たあの黒い巨体。鋼の翼はそのままに、少年の上半身は無くし、代わりに鋭い牙の生え揃った爬虫類の頭が付いていた。
鉤爪のある太い四肢に長い蛇の尾。マダラ模様はすっかり消えて、黒く滑らかな鱗へ。
もうほとんど成体のように見えたが、あれで一度目とは。
大きな顎が悪霊犬を丸呑みにする光景が、恐れとともに記憶に焼き付いている。
「犬はちょうどいい餌でした。テンテラも喜んでいましたよ」
「はは……、あのバーゲスト、まさか自分が食われるとは思ってなかったろうな……」
「そうでもない。彼は思いのほか君の力と行動を評価していた。あと十年もしたら、契約してもいいと」
十年もしたら?
食われる前の会話とすれば、妙だ。
「先生……まさか……」
カナンは薄く微笑む。不気味だ。ブレスの「まさか」にこの師が微笑む時は、たいていその「まさか」な出来事が起こっている。
クルイーク、とカナンが呟いた。黒い影が飛び出して犬の形をとり、ブレスの前にすたっと着地する。
もしかしなくてもあのツノ付き、ブレスを殺しかけたバーゲストだった。
「ご冗談でしょ!? そいつは俺のミッチェを喰おうとしたんですよ! 解雇してください!」
「残念ながらもう名付けてしまいました。無理です」
カナンの白い指先に首を撫でられたバーゲストは、心地よさそうに「キュン」と鳴いた。どうしよう、犬がネコを被っている。
ブレスはミシェリーを抱きしめてジリジリと後退った。そんなブレスを悪霊犬は赤い目を細めてせせら笑うように眺めている。嘘つきめ。
カナンはといえば、ブレスの拒絶反応を見て悲しげな様子。
「そんなに毛嫌いしないであげてください。この子だって大変だったのです」
もうすでに懐柔されていた。だめだこの神様、今回は頼りにならない。
「……じゃあせめてバーゲストにもうミッチェを襲わない、食べない、騙さないって約束させてください」
「クルイークはそんなことしません」
そのクルイークは無言である。この人何言ってんのかわかんない、みたいなつぶらな目でカナンを見上げている。演技派だ。
「言質をとってください、言質を!」
「はぁ、しかたありませんね。では契約の条件に加えましょう。あとづけになってしまいましたが、クルイーク、同意してくれますね」
『わかった。クルイーク、そのうまそうな猫、襲わない、食べない、騙さない』
「いま美味そうって言った!?」
聞き捨てならない。しかしカナンは「この子は魔物なのですよ、仕方ないでしょう」とどこ吹く風だ。
キャンキャンと騒ぎ立てるブレスの腕の中で、ミシェリーはフスンと鼻を鳴らした。
(ひよこも、子犬くらいにはなったのかしらね)
まだまだだが、弱いくせに守ろうとしてくれたことは嬉しい。
どんなに長生きをしていても、いや、長生きをしていろんな綺麗な物も汚い物も見てきたからこそ、清らかで素直で穢れていない心の価値は揺らがないのだ。
(この子の心がきれいなうちは、そばにいてあげてもいいかもしれない)
そんなことを考えながらミシェリーが顔を上げると、ブレスが驚きの色を浮かべてミシェリーを見ていた。
驚いたのはミシェリーも同じだ。
まさか念話が出来ないブレスが、思念を読み取るだなんて思ってもいなかったのだから。
「ミッチェ、それ、本当……?」
ちょっと驚いたように半開きになっていた口が、怖々と言葉をつむぐ。
また拒絶されたらどうしよう、そんな不安と、期待の混じった声だった。
(……ホントよ)
試しに念話で答えてみると、ブレスの表情に花が咲いた。若緑色の目がきらきらと輝く。
まるでお日様を浴びて喜んでいる新芽のよう。
サハナドールが失ってしまったきれいな光を、ミシェリーはブレスの瞳の奥に見た。
懐かしくて泣きたくなるような喜びが、どうしようもなく込み上げてくる。
枯れてしまったミシェリーの中の泉が、再び澄んだ水を湛え始める。
『今度はちゃんと、わたしがお前を守ってあげるわ』
さよなら、サハナドール。大好きだったサハナドール。
心の中でお別れを言う。
ミシェリーは新しい大好きな人を見つけたのだ。
ちょっと頼りないけれど、ミシェリーが護るに値する、あたたかい陽だまりを。
猫妖精のご主人 終




