40話 カナンの決着
朝日と共に目を覚ましたブレスは、昨夜のあれこれを思い出しながら寝台から抜け出した。
本当に楽しい夜だった。
使役となった猫妖精のミシェリーは毛布の片隅で迷惑そうに片目を開け、なんだお前かと言わんばかりにそっぽを向いて二度寝を決め込む。
「ミッチェ、ちょっと森を歩いてくる」
ミシェリーが尻尾をぱたんと動かして返事をするのを横目に、ブレスは小瓶をポケットに詰めて家を出た。
深い森、漂う靄のなかを歩きながら、ブレスは森を散策する。
相変わらず逃げも襲いかかってもこない獣たちの視線を受け流しながら、湿った土の匂いを吸い込む。
小川に沿って歩きながら時折川底を覗き込むと、水流で磨かれた丸い石がチカッと光った。
拾い上げて眺めると水晶だった。
きれいだ、と呟いてポケットに入れる。
途中途中で小物を拾い集めながら、ブレスは歩く。
鳥の羽、角のない小石、古木の根元に落ちた蝶の翅。
こういうものを集めて御守りを作り、魔力をこめると、良い小銭稼ぎになる。
昨夜、身替わりの魔女に教えてもらったことだ。
悪いものを作ると悪いものを呼ぶから、良いものだけを作ること。
悪いもの、とは人に害なすものである。
呪いを込めたもの。
そういうものを売っている人間はいつか目をつけられる、と身替わりの魔女は経験談を交えて教えてくれた。
(先生との旅が終わった時に、帰りに困らないくらいの路銀を貯めておかないとな)
カナンがいつまでもそばにいて魔術を教えてくれると思い込めるほど、ブレスは楽観的ではない。
そろそろシャファクの記憶を読み終わっただろうか。
読み終わったからといって、すぐに納得できるものでもない。
しばらく姿を見ていない師を思う。
あの人は強いけれど、一方で脆い部分がある。
硬いけれど割れたら二度ともとには戻らない、石のよう。
静かな森を歩いていると、取り止めのないことが浮かんでは消えてゆく。
春を作った女神プライラルムは、カナンが毎年探していることをわかっていてなぜ自分を探させるような真似をするのだろうか。
優しいライラ、とシャファクの記憶の中のカナンは言っていたけれど、本当に優しいのならほかにやりようがあるのではないだろうか。
(優しい、か……)
昨晩の炎の魔女の話がよぎる。
彼女は人々に優しく接し、人々も優しく接してくれたが、最後には悦んで彼女を売った。
厚顔な人々の本性。
優しさというものは、その言葉の印象の柔らかさに反してとても複雑で難しい。
善意か、悪意かで振り分けてしまう方がよほど楽なことだ。
けれど世の中は黒と白の二極ではないし、善意が裏目に出ることもあれば、受けた悪意を昇華させて成長する者もいる。
闇に適応した者が魔女であるのなら、闇の淵に立ってそれを覗き込んでいる者が魔術師だ。
いっそ闇に落ちてしまった方が、ややこしいことを考えずに済むというもの。
ああ、だから堕落すると魔女に傾くと言われているのか。
「……あれ?」
ブレスはふと足を止めた。気づけば森のはずれに来ていた。
物思いで時間の感覚がなくなっていたようだ。
久しぶりの日光を見、どうしようもなく引き付けられた。
闇の女たちに囲まれて過ごすうちに慣れたのだとばかり思っていたが、魂は光を恋しがっていたらしい。
日差しに向かってふらふらと歩いてゆく。
夏の朝の日差しの、なんと清々しく心地よいこと。
森と道の境目に立ったブレスは思い切り伸びをし、深呼吸した。
生き返るようだ。
日光を堪能していると、男が通りかかった。
身なりは軽装。
付近の住人だろうか。
おはようございます、と挨拶をするが、男はジロジロとブレスを眺め、立ち止まりもせずに通り過ぎていく。
(……ま、そんなものか)
よそ者に愛想のない顔を向ける人間などいくらでもいる。
特別気にとめることもなく、ブレスは森の中へ戻っていった。
その後ろ姿を、男が盗み見ていることに気づかないまま。
マリーの家に戻ると、なんとカナンがリビングルームにいた。
久々に見た師は、哀しみの癒え始めた穏やかさを纏っていた。
湯気の立つ果汁入りのハーブティーを片手にブレスを振り向いたカナンは、静かな微笑を浮かべている。
悲しみに侵されていたカナンに、表情が戻ったのだ。
心底からよかった、と思った。
「おはようございます、先生」
「ああ、おはよう。散歩でもしていたのか」
「はい。ちょっとお守りの素材採取に」
そう、とカナンは相槌を打つ。た
だいつも通りの師がいる。
それだけのことに、こうも安堵してしまうとは。
君も飲むかとカナンがハーブティーのポットを指し、いただきますと答える。
「魔女たちが降りてくる前に、湯を使いたかったんだ」
「彼女たちの朝は遅いですからね」
他愛のない会話をかわしつつ、ふたりで茶の香りを楽しむ。
「……君の言う通りだったよ。もっと早く、石を読むべきだった。彼に石を差し出されたその時に」
やがてぽつりとカナンは呟いた。
シャファクの話をしているのだと気づき、ブレスは思わず顔を上げる。
かける言葉が見つからない。
そんな顔をすることはない、とカナンは苦笑する。
「最後まで、見たんですね。あの方の記憶と想いを」
カナンはゆっくりと頷く。
見たものの意味を噛み締めるように。
「始めの数十年は、ただただ僕への憎しみに燃えていた。弱まったり強まったりはしていたけれど、それ以外の感情はなかった。
彼は時折現れる僕を突き放しては、僕の反応を見て愉しんでいた。だが、五十年も経つと彼の気持ちは変わった」
そうだ。ブレスは俯く。
シャファクは次第に、憎しみや怒りを抱き続けることに疲れ始めていた。
数百年もの時を、激しい感情で絶えず燃やし続けることなど、人間の身と精神ではできるはずもなかったのだ。
憎しみと怒りは次第に疑問に変わり、人ではないカナンとは到底分かり合えないのだという結論に至った。
やがてシャファクの感情は虚しさに変わった。
虚脱、悲哀。そういったものに。
それでも時折カナンが現れれば、苛立ちがくすぶって煙を上げた。
人間であるシャファクは十年も経てば変化もするが、カナンは出会った頃とほとんど何も変わらない。
変わらないカナンが目の前に現れるたびに、過去の自分に引き戻された。
目を逸らしたくなるほど子供染みた、未熟で嫌味な自分に。
けれど、それすら、カナンが訪れない時間を重ねるうちに霧散した。
周囲の人間たちは、皆シャファクを置いて死んでゆく。
孤独に蝕まれながら、いつしかカナンの訪問を待っている己に気づき、シャファクは自嘲した。
あれほどカナンを遠ざけておきながら、今頃になって会いに来てほしいだなんて。
私はなんと愚かなのだろう。
人ではないカナンとは分かり合えない。
だがもしも、もう一度だけでもカナンに会うことができたなら。
その時は取り繕った己ではない、過去のシャファクでもない、今の、人間としての本音を伝えよう。
そう思ったシャファクは、記憶の石を作った。
それが最後のシャファクの願いであり、望みだった。
それから数十年が経った頃、シャファクの病が突如として息を吹き返した。
カナンに奪われて以来、まったくその兆しを見せなかった病が。
潮時なのだと悟った。
考えるまでもなく、原因は察しがつく。
精神の摩耗だ。
肉体は替えが効く。
だが精神はどうか。
精神もまたいつかは壊れるのだ。
命の火は消えはしないが、壊れた精神を別の肉体に移し替えたところで、壊れた精神が引き継がれるだけ。
自我の崩壊した人間を、果たして生きていると言えるだろうか。
そんな焦りの最中に、カナンがやってきた。
シャファクは混乱していた。
結局、記憶の石を渡すことも話すことも出来ないまま、カナンはシャファクの肉体から苦痛を除いて去ってしまった。
せっかくの機会を棒に振ったと気づいた時、絶望し、失意の底に落ちたシャファクは決意した。
次が最後の機会だろう。
あの方を捕らえてでも、目的を果たさなければ。
衰弱していくシャファクに気づいた権力者たちが、弱った獣を見守るハゲタカのようにシャファクの死を待っている。
病の原因が精神にある限り、肉体を変えたところでもはや意味はない。
それでももう一度カナンが国を訪れるまで、身体が病むたびに肉体を捨て、乗り換えて生きながらえた。
伝えるべき事を伝えたいという願いは、いつしかこの世への心残りになっていた。
最後にもう一度、もしもカナンに会えたなら。
友として石を渡し、そのまま逝こう。
石の記憶はそこで終わっている。
「実際には、シャファクは最後の記憶の後に司教たちの画策に気づき、死ぬに死ねない事態になっていたけれどね。これでやっと僕にも理解できた。彼が満ち足りて死んでいった理由が」
「先生は、間に合ったんですね。ぎりぎりだったかもしれないけど、それでも」
「……ああ、そうだね。彼も同じことを言っていた」
むしろ最高のタイミングであったのではないか、とさえブレスには思えた。
司教たちが国を乗っ取ろうとしたまさにその時、シャファクに力を貸すことが出来たのだから。
だからといって残されたカナンの哀しみは消えはしないだろうけれど、彼の想いがカナンの傷を手当してくれたことは確かだった。
そうでなければ、こんな表情を浮かべるものか。
魔女たちが起き出す前にと、カナンは部屋に戻っていった。
そんなに悪い人たちじゃないのになと思いながらも師を見送り、ブレスはあくびをひとつ。
朝食の準備を始める。
今日もまた、新しい一日が始まった。