4話 成りて成るもの
「近頃みなの噂にのぼっている魔術師とは、貴方さまのことでしたか」
サラバンは魔術師になりたての頃に、目の前の男と出会っている。
彼と関わったものは大抵彼に関する記憶を消去されるが、そこそこ力量のある魔術師のサラバンは、たまたまそれを免れたのである。
サラバンは思い出を懐かしんで目を細めた。
旅人の身なりに白い髪、爛々と輝くエメラルドの双眸、整った造形。
なにひとつ変わらない。
記憶にあるままの彼の姿だ。
「相変わらずカナンという名で旅をしている。しかし、君はずいぶんと印象が変わったね」
苔桃のジャムをティースプーンに掬いながら、彼はさらりとそう評した。
それはそうだろうとサラバンは苦笑する。
この町に住むようになって、サラバンもずいぶん歳をとった。それに。
「私も昔は黒いローブを纏っておりましたからな。しかし、見た目をそれらしく飾り立てたところで、実力がなければ仕方がない。冬の君のみわざを一度でも見れば、魔術師協会の連中も己が身の恥に気づくであろうに」
サラバンは十代で正規の魔術師となったが、当時それは天才的な偉業であった。
将来有望と持ち上げられ、協会や貴族たちからの呼び声が途絶えることもなく、名だたる方々はサラバンの身を確保しようとそろって猫のように擦り寄ってきた。
サラバンは驚いた。試験に受かる前はただの無名の平民でしかなかったのに、彼の価値は一晩にして跳ね上がったのだ。
戸惑いもしたがなにより嬉しかった。
望めば、王族のお抱え術師にさえなることもできたのだから。
この先金に困ることもなく出世も約束されるわけだ。
先を思えば笑えてしまって仕方がなかった。
ところがその矢先、たまたまこの魔術師に出会ってしまったのである。
呼び名をカナンと言ったか。
出会った当時から旅人の装いをして、質素な暮らしをしていた彼の巻き起こす力は、しかし奇跡そのものだった。
サラバンはそれを見て、己が傲っていたことに気づいた。
たしかに、現在、協会や宮廷で力のある魔術師たちから見れば、サラバンは金の卵だったかもしれない。
だが、その彼らも、この本物の魔術師の足元にも及ばない。
以来、サラバンは着飾ることをやめた。
協会にも宮廷にも属さず、町に降りて、民を助けることに力を注ぐようになった。
いま目の前に座っている、カナンがそうであったように。
「君は僕を美化しすぎだよ、サラバン。僕は、僕が犯した罪の償いをしているに過ぎないのです。僕が苦しめてきた人々を僕が助けたって、それは褒められるようなものではない」
「あなたにとってそうであっても、私にとってはそうではないのです。そもそもわたしは、貴方が過去にどのような悪行を為し何者かを苦しめていたところで、その出来事とは無関係だ。
どのような成り行きや理由があったのかも知らぬし、私自身、他者をなんの疑問も持たず糾弾できるような人格者ではない。
私に石を投げつける権利はないのです、冬の君よ。
私にとってただひとつ重要なことは、貴方の存在が私を罪深き奢りの夢から目覚めさせてくださった、ただそれだけのこと」
カナンは途方もなく長い時間を生き、償いの旅を続けてきた。
いまサラバンの目の前にいる男は、取り乱してもいないし自滅的な様子もない。
開き直った様子もないし、現実から目をそむけてもいない。
長い年月は、カナンに覚悟をもたらした。
それは真っ直ぐに罪を見つめ、向き合い、行動する覚悟だ。
カナンが初めてサラバンの前に現れた時からそうだった。
サラバンはだからこそ、カナンの在り方に胸を打たれて我に返ったとも言える。
「なにしろ、宮廷も協会も当時はまこと恐ろしき処。成人したての小僧など、あの場に入ったとして一年と保たず、腐って死にかけた挙句に脱走して追っ手に殺されるが落ち、だったでしょうなぁ」
茶化すように肩をすくめると、カナンも微かに笑って目を伏せた。
「それでは君は、出世の機会を棒に振ったとは思わないのか」
「失ったものよりも得たものが尊ければそれは僥倖でしょう」
「……なるほどね」
サラバンは茶を飲み、ビスケットに苔桃のジャムを乗せた。
ビスケットもジャムも自家製で、茶は乾燥した茶葉を使うものではなく摘みたてのハーブや木の実、果物から抽出したものである。
「生きたものを取り込むこと」が魔力の維持成長に深く関わっている。
使い魔を使役したり弟子をそばに置く行為なども、その教えによる。
徹底する者は衣食住もこだわるが、生活の全てを教えに従ってしまうと、現代では放浪の世捨て人になってしまう。
どこかに腰を落ち着けて暮らすには、可能な限り教えに従いながらも、妥協して生活のバランスをとっていかねばならない。
もっとも、この目の前の魔術師はその「放浪の世捨て人」であるのだが。
カナンの力が群を抜いて強い理由はそこにもあるが、それだけではないとサラバンは思っている。
とはいえそれはサラバンが知識を蓄え考えたすえにたどり着いたもので、要するにただの憶測に過ぎない。
だが、サラバンはそれを疑ってはいない。
五十年ぶりの再会に、本人に訊いてしまおうかと好奇心が頭をもたげたが、踏み込みすぎだと思い直す。
知り過ぎたと見做され、記憶を消されてしまっては、あまりに寂しい。
「再び君に会えて良かった、サラバン」
「私のほうこそ、訪ねてきて下さって有り難うございます」
ふたりは席を立つと、どちらともなく手を差し伸べて握手を交わした。
噂話が子供にまで広がってしまっては、もうこの町にとどまることも出来まい。
去るのだろう。
「そうだ、サラバン。髪紐を売ってはくれないか?」
不意に思い出したようにカナンが訊ねた。
魔術師の髪紐とは、伸びた髪を短く見せかけけるための魔術具である。
体が魔力の器だとすると、器から溢れ出た力は髪になる。
髪の長さは魔力量の目安になるため、王家や貴族、協会などの後ろ盾のない長髪の魔術師は、特別製の髪紐で己の髪を隠すのだ。
余計な面倒から身を守るための知恵である。
「おや、なくされたのですか。それでは、今は……?」
「立ち寄った村の娘に、目立つからどうにかしろと言われて服の中にしまってある」
「……さようで」
この魔術師はその力の割に、いまいち危機管理能力が足りていない。
白く長い髪の魔術師を名乗る者の正体といえば、判る者には判ってしまうというのに。
気を取り直して咳払いをし、道具箱を漁りながら「黒、赤、茶は在庫があります。金色は品切れですが、どうされる?」とカナンを見やる。
「そうだな、黒髪にしよう」
「ではこれを」
サラバンは複雑な模様が刺繍された髪紐を差し出した。
紐といっても長さは大人の両腕を広げたほど。
幅は親指の爪ほどあって、黒地に様々な草花が刺繍されているうえ、天然石のビーズも縫い込まれていて、婦人用の装飾品と比べても遜色がないほど見事な品である。
魔術師の髪紐と一言で言っても、これは最上級品だ。
値をつければ家が買えるほど高い。
「美しい。お前は道具作りの才人だね」
カナンは髪紐を手に取って、目を細めてじっくりとその出来栄えを見つめた。
作り手はサラバンである。敬意と憧憬をもつ相手からそう言われれば、嬉しくないはずもない。
サラバンは破顔した。
ありがとう、と礼を述べたカナンは、懐を探って皮袋を取り出した。
金貨を支払おうとするカナンを、しかしサラバンは止める。
「お代の代わりに、お願い申し上げたいことがあるのです」
話を聞いたカナンは、意外な望みに驚いた後、面白そうに目を細めてその願いを聞き入れると約束した。
そのころエドは図書館で本を受け取り、司書のメリメリに小言をもらって、師匠のすみかに戻る途中だった。
図書館は町の真ん中。
サラバンの住処は、赤い林檎の宿屋から反対方向の端にある。
片道一時間の帰り道をせっせと歩きながら、エドは夕暮れに差し掛かった空を見上げてぼうっとため息をついた。
──こんなとき、強い使い魔がいれば脚を棒にして歩かなくてもいいのになあ。
移動に役立つ魔獣といえば、四足の獣か大型の鳥。
時間は貴重だとエドは思う。
それは、欲しいものを手にするために努力が必要だからだ。
努力し、学び覚えるために時間が必要だからだ。
行きたい場所に移動するためだけに、何時間も無駄にしていることがもどかしい。
早く資格を取って協会に入会して、本格的に魔術の道を進みたい。
魔術師のシンボルとも言える黒いシルクのローブは憧れだった。
何よりも、正規の魔術師の証である黒い石のペンダントが、エドは欲しくてたまらない。
協会に属すれば、同じような年頃の新米だっているだろう。
同類で友達になれればきっと切磋琢磨しあえて、ますます成長できるに違いないのに。
先生にそう愚痴ったら、生き急ぎすぎだ、と複雑げに言われたけれど。
「……あれ」
向かい側から、黒髪を肩で揃えた美人が歩いてくる。
あんなに綺麗だったら町で噂にならないはずがないのに、知らない顔だった。
近づくにつれ、美人が着古した旅装束を着ていて、かなり背が高いことがわかった。
身につけているものが何から何まで男物であることに気づき、ぎょっとする。
(メリメリより美女っぽいのに男!? うそだろ!?)
思わず立ち止まって顎を外していると、美人はすぐ目の前までやってきた。
本当に人形のような顔をしている。
この生き物は人だろうか、とエドはふと思った。こんなに不自然な同性を、エドは見たことがなかった。
なにより、この男の眼ときたら──。
「林檎はいかがですか」
すれ違わなかった。
彼はエドの目の前で立ち止まり、旅装束のしたからかごを差し出している。
低い声。
目の前の口は紛れもなく動いているのに、エドには彼の声だという実感がまったく持てなかった。
なにか、もっと自然に近いものがたてる音だ。
風のざわめきとか、水の流れる音とか、そんな。
背筋を冷や汗が伝う。
目の前のなにものかに、完全に萎縮してしまっていた。
気づいた時にはその男は消えていて、エドの手には赤い林檎があった。
一本だけ赤い実をつけるようになった、宿屋の裏庭のあの赤い林檎だ。
林檎を手のひらで転がすと、皮に文字が書いてある。
──未来の同胞に祝福を。
ドアに体当たりをするような勢いですみかに戻ってきた弟子を、サラバンはやれやれと出迎えた。
エドはひどく興奮した様子で、手にした赤い林檎を差し出して「本物に会ったんだ!」と叫ぶ。
「宿屋の林檎を赤くした魔術師がくれた! 俺に会いにきてくれたみたいに──全然イメージと違ったけど、想像してたよりずっとすごかったんだ! いつか俺もあんな魔術師になれるかなあ、まるで精霊様とか、神様みたいだったんだよ!」
顔を紅潮させて夢を語る弟子の言葉に、サラバンは思わず苦笑してしまった。
考えがあって言ったことでは無かろうが、弟子の言葉はおそらく当たっている。
「人は身なりによらぬもの」
サラバンは林檎を受け取ると、夕空のもとへ出て庭の一角にポンとそれを放り投げる。
林檎はふたりの目の前でみるみるうちに成長して、あっという間に若木になり、白く可憐な花を次々に咲かせた。
「俺、今日のことは絶対に忘れません。挫けそうになったら、この木を見て今日のことを思い出すよ。そんで、ちゃんと魔術師になっていつかあの方にまた出会えたら、どうして林檎を赤くしたのかって、訊くんだ」
ちょうど自分の同じ高さの木を、エドは決然とした眼差しで見つめている。
サラバンはそんな弟子の背を見守りながら、穏やかに感慨に耽るのだった。
2 エドとサラバンと林檎の木 終
エドが赤い林檎の秘密を知るのは、二十数年後のこと。