38話 故郷、ウォルグランド
ウォルグランド。
シルヴェストリが過去に仕えた国であり、ブレスが産まれた国の名である。
その国は小国であった。
海に面し、川沿いには森がしげり、森には獣と木々を束ねる緑の精霊が棲む、美しい国だった。
精霊は民にとって身近なものだった。
時折森に棲まう精霊に気に入られて、友情や愛情を育む人間もいた。
そうした関係は、国に王がたつ以前から脈々と受け継がれていた。
ウォルグランドには産まれながらに精霊の魔法が使える者や、肉体をもたない子供、人間でありながら森の中で精霊たちとともに生きる者など、様々な人々がいた。
その生き方が異端と断じられることのないおおらかな国民性が、シルヴェストリには居心地が良かった。
風妖精と人間の間に産まれたシルヴェストリが、迫害される事もない。
戦に傷つき疲弊していたシルヴェストリは、このウォルグランドに流れ着いて以来、百年余りを町や森に交じって静かに暮らしていた。
その日々に終止符をうった者がいた。
彼女は、シルヴェストリが森の精霊と言葉を交わしているところをたまたま覗き見てしまった、間の悪い女だった。
精霊の血の混じるこの国の民であれ、精霊と言葉を介して意思疎通のできる者は皆無も同然。
その常識が覆された女は、シルヴェストリの素性を探ろうと躍起になった。
彼女はただの女ではなかった。
ウォルグランド王妃に仕える、女魔術師だったのである。
当初シルヴェストリは、己にしつこく纏わりつくこの女が疎ましくて堪らなかった。
彼が望んでいるものは、何者にも脅かされることのない静かで穏やかな暮らし。
古木や岩と一体となれるのならば、それが一番だと思っていたのだから、権力と保身を背負い込んだ女にあとを付け回されるとなれば、心中は穏やかではない。
それは森の精霊にとっても同じだった。
女の振る舞いが気に障って、精霊の巻き起こす突風に吹き飛ばされることさえ幾度か起こった。
土や岩に叩きつけられるたびに、女は腹を庇った。
よくよく目を凝らせば、女の腹には生命の光が見えた。
問い詰めると懐妊していることがわかり、しかもそれが王の子であるという。
王妃に仕える女魔術師は、王の愛人だった。
女の方はどうでもいいが、赤子を殺すとなると、流石のシルヴェストリも気が咎める。
事情を精霊に話すと、精霊は「森を出よ」と言い放った。
精霊にとっては己の護るべきものが全て。
腹に赤子がいようといまいと、女が森を脅かすのならば容赦はしない。
シルヴェストリも森を追い出された。
とばっちりに腹の煮えたシルヴェストリではあったが、女魔術師も腹の子を守るため必死だった。
王妃は美しいが酷薄で、腹の子の存在が知れれば間違いなく殺されてしまう。
今はまださほど膨らんでもいないが、女は王妃に仕えているのだ、ことが発覚するのも時間の問題だろう。
女はシルヴェストリに助けを求めた。
夫、愛人、名前はなんだっていい。
とにかく腹の子の父になってくれと涙ながらに訴えた。
初めは知ったことかと思っていたシルヴェストリも、やがて懐柔され、仕方なしにその役割を引き受けることにした。
王妃は疑うだろう。
だが、もっともらしい相手がいるのならば、断定は出来ないはず。
安堵できるだけの言い分が用意できれば、女はそれでよかったのだ。
シルヴェストリは追い出された森の代わりに城の庭に魔術師として住み着いた。
女に仕える者、そしてその連れ添いとして。
幸いなことに、産まれた子供は母親の目の色を受け継いだのみで、王にも似ていなければ女にも似ていなかった。
当然シルヴェストリにも似ていないが、この頃になるとシルヴェストリが精霊と人間の間に産まれた〈古きもの〉であることは城中にしれ渡っていたため、子供が似ていないことを気にする者はいなかった。
ただひより、王妃を除いては。
王と王妃の間に子はなかった。
嫁いで数年にもなるのに、懐妊の兆しもない。
一方で、己に仕えていたあの女魔術師の子供は、健やかに育っている。
ああ、なんと妬ましいこと。
なんと憎らしいこと。
許せない。許せない。
ある日、王妃はそれを呪いだと断じた。
誰かがこのわたくしに呪いをかけて、世継ぎができぬように画策をしている。
その一言によって多くの魔術師が吊し上げられ、罪なき罪で裁かれた。
離宮に押しやられていたシルヴェストリの「妻」もその憂き目にあったが、命は取られずに済んだ。
なぜか。
国王そのひとが、目に余る、いい加減にせよと王妃を抑え込んだからである。
それは、王妃にしてみれば、不貞の告白と同じだった。
己の子可愛さに、妃たるこのわたくしの顔に泥を塗るとは。
王妃の怨嗟は夜毎にその昏さを増し、やがて彼女は魔女に落ちた。
魔女になった彼女が真っ先に行ったことは、隣国、兄の治める帝国へ文を出したこと。
文を受け取った帝王は、妹の不幸に怒り、彼女の憂いを晴らすべく、妹を愛さなかったウォルグランドの王を自国へ招き、殺した。
女はそれを知るや否や、子供を抱きシルヴェストリを伴って亡命。
海を渡る長旅を乗り越えると、シルヴェストリの目立つ外見を気にしたのか、ある朝目が覚めるとその女と子供の姿は消えていた。
シルヴェストリが〈古きもの〉でなければ、あるいはその女を恨んだかもしれない。
子が生まれる前から、産んだ後も六年近く、彼女のそばにいたのだから。
だが数百年を生きる〈古き者〉にとって、それは普遍的な世の中の常だった。
情を抱こうが、愛着を持とうが、それらが報われないことなど数えきれないほどに経験してきた。
少しの寂しさも抱かなかったといえば嘘になる。
しかし、シルヴェストリは事実を受け入れ、旅の果てにたどり着いた辺境の土地で、新しい生活を始めた。
ウォルグランドの精霊への敬意から立ち上げた「緑の精霊を祀る魔術師協会」に、数年後、その女の子供が魔術師として派遣されてくるとは思いもせずに。
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「……じゃあ、協会長は俺のお父──」
茶化そうとするブレスをシルヴェストリは怖い顔で睨んだ。
別にブレスだって父親と呼ぼうとは思ってはいない。
ただちょっと彼の話に、頭が追いつかなかっただけだ。
父親という名義ではあったかもしれないが、回視の儀式の夢の中に現れた幼い頃の自分は、肖像画の人物を実父と認識していた。
母親がシルヴェストリを父親だと言い張っていたことは事実なのだろうが、己の子供には本当の父親を教え込んでいたのだろう。
王妃付きの女魔術師と、女魔術師に仕える立場であったシルヴェストリ。
その上下関係が目の前で繰り広げられれば、幼いブレスはシルヴェストリを父親だとは思うまい。
「それにしても、散々助けてもらったのにある日突然姿を消すなんて……俺の母さんはひどいですね」
「それだけお前が大切だったのだろうよ」
「……協会長は、許せたんですか。本当に。俺を見て、その人のことを思い出して、不快な気持ちになったりとかはしなかったんですか」
「フローリスと出会っていなければ、あるいはそうなっていたのやも知れぬ」
ああそうか、と思った。
ブレスがシルヴェストリの前に現れた時には、彼女はすでに過去の女性だったのだ。
実際に母とシルヴェストリの間に、そういう感情があったのかはブレスには知りようがない。
けれど、守ってもいいと思えるくらいには、絆もあったのだろうと思う。
フローリスを女神のように愛しているシルヴェストリの気持ちが、なんとなくわかった気がした。
ブレスの問いかけに思うところがあったのだろう。
ふと彼は、その美貌に後ろめたそうな表情を浮かべた。
「私はお前に厳しかったな」
「……はい。誰にでも厳しかったですけど、そう思います」
率直な言葉に、思わずブレスも苦く笑う。
「私がお前に厳しかったのは、お前が魔道に進まないことが彼女の願いだったからだ」
「願い、ですか」
「王城の離宮を出る際に、彼女はお前に呪いをかけた。記憶を奪う呪いだ。だが、それだけではない。
彼女はもうひとつ……あるいは無意識だったのやも知れぬが、お前に呪いを残した。魔術の使い方を忘れてしまうように、と」
「あ…………」
──忘れてしまった方がいい。ここでの記憶も、魔術の使い方も。
夢の中の記憶、母の声がよみがえる。
カナンも言っていた。
そこに穴があいた水壺のようだ、と。
「で、でも。俺は使えます、魔術」
「だが伸びない。そうだろう」
「それは、俺が未熟だからです!」
大声がでた。認めたくなかった。
呪いのせいで、魔術の道が閉ざされているも同然なのだとしたら。
「……なぜ母は、そんなことを……」
悔しさと苦しさに任せて俯く。
シルヴェストリも赤眼を伏せ、それでも尚、言葉を続けた。
「お前の母は、もとはただの商家の娘だったのだそうだ。しかし、彼女の系譜には精霊と交わった者がいた。その血のために彼女の魔術の才は花開いた。
同年代の誰よりも、年嵩の者さえも圧倒するほどの力が彼女にはあった。だが、結果として王家に取り入れられ、彼女は不幸になった。
彼女にとっては膨大な魔力を持つということはそういう柵に囚われるということだったのだろう。……あながち間違いとも言えぬ」
シルヴェストリは戦争に利用された過去がある。
望んで得た力ならばともかく、生まれ持ったものが望まぬそれであったのならば、疎ましく思うこともあるはず。
しかし、それはあくまでも本人の意思を無視した、母の願いに過ぎない。
「そう落ち込むことはない。私とて始めこそどうにかしてお前を諦めさせようと言葉を尽くしたが、今はむしろ逆だ。
お前は忘れろと呪われたにも関わらず魔道に進み、わずかではあるが力を取り戻しつつある。
なによりもカナン殿がお前の前に現れた時、私は悟ったのだ。運命は本人のもの。お前が望む限り、それは不動だ。
諦めるな。呪いはいつか解かれるだろう。力を得たその時に力の使い方を誤らぬよう、鍛錬することだ。今できることをする。後悔のないように」
冷たくなった胸に、仄かな灯りが灯った気がした。
(そうか。希望が、呪いが解ける希望がまだ残っているのなら……)
まだブレスは生きていける。
俯けていた顔を上げる。
はい、と覚悟を決めて肯諾する。
明るい緑色の目を見たシルヴェストリは、どうやら無駄足にならずに済んだようだ、と微苦笑を浮かべた。
想いが報われないことは多々あれど、やはり、志あるものの努力は実ってほしい。
苦渋を舐めてきたシルヴェストリにとって、それは切なる願いだった。




