35話 回視の儀式
記憶の魔女と夢の魔女は、森の中の開けた地面に円と記号と描いて待っていた。
魔法陣だ。
魔術師は簡単な印を用いて日常的に魔術を使用するが、魔女は儀式のために魔法陣を使い、雑事は使役に任せている。
マリーの話によれば魔女の使役の殆どは悪魔とのこと。
悪魔は自らの意志で、自由に魔法を使う。
そのため、魔女は儀式を行う時と緊急時以外は、ほとんど自らの魔力を使わないのだそうだ。
要するに、普段は悪魔をこき使っているということである。
記憶の魔女はブレスを手招き、無機質な声で告げる。
「今から回視の儀式を行う。省略して説明をすると、お前の中にお前の記憶を召喚する、ということ。故に触媒は、お前自身だ」
「お前は一晩だけ意識を失う。その間、夢に見たものがお前の過去だ」
夢の魔女の言葉に、ブレスは頷く。
記憶の魔女が記憶を召喚し、夢の魔女がそれを夢に見せる。
なるほど、相性のいい魔女たちだ──とブレスが考えていると、マリーが言った。
「あの子たちはもともとひとりの魔女だったんだ。〈不滅の人形〉に詰められる時に、魂をふたつに引き裂かれたんだよ」
「ああ……だからいつも、二人一組で話すんですね」
影の魔女は残酷なことをする。
もうこの世にはいないと聞いたが、その所業が災いしたのだろうか。
ブレスは記憶の魔女に招かれるまま、魔法陣の線を跨いだ。
魔法陣は血で描かれていた。
なんの血だ、と問おうと顔を上げると、近くの木にくびの無い鶏がつり下げられている。
きっと今夜の夕食で美味しく食されることだろう。
「中心へ立て」
「眩しければ目を閉じればいい」
指示に従って魔法陣の中心に立つ。
魔術の印を体に記したことは数知れずあるが、印の中に入ったことはない。
記憶の魔女が詠唱を始めた。
鶏血で描かれた線から、ゆらゆらと影のようなものが立ち上る。
黒い光だ。
「大丈夫。失敗はしない。お前はちゃんと、無傷で明日を迎えられるよ」
「はい、マリー様」
不思議と恐れは感じなかった。
記憶の魔女の声に、夢の魔女の詠唱が混じる。
ふたりはそれぞれ違う呪文を唱えていたが、次第に似たような音が重なり始める。
最後の一節は同音だった。
「開き、招き、閉じよ」
黒い光が鮮血のように魔法陣から噴き出し、ブレスの意識は闇へ呑まれた。
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肖像画が幾つも並んだ回廊を、赤い癖毛の幼子が歩いている。
楽しそうに、跳ねるように歩くその子供は、黒地に銀糸の刺繍が施された上等な服を着ている。
明るくくるめく緑色の目を好奇心でいっぱいにしたその子供は、並ぶ肖像画の一番端で立ち止まり、首を逸らして絵の中の人物を見つめた。
厳しい顔で描かれているけれど、本当はとても優しいことを子供は知っている。
──父上、いつになったら帰ってくるのかな。
ふと母の呼ぶ声を聞いた。取り乱した声だ。
母親の恐怖に駆られた声を聞いているうちに、子供は次第に不安になって駆け出した。
──母上、どこ? 母上!
叫ぶ。走る。
どこかで誰かが、大勢が叫んでいる。
正面から、ローブを着た顔の見えない男が剣を振りかぶって走ってくる。
子供は悲鳴をあげて座り込んだ。
剣がぶつかり合う激しい音がして、誰かが倒れる。
目を覆った指の隙間に見えたものは、床に広がりゆく赤い染み。
──××××様、こちらへ。
ローブを着た男が、怯えて座り込む子供をだき抱えて走る。
喧騒、怒号、悲鳴、狂乱。
その全てに背を向けて男は走り、子供は男の肩越しにその全てを見ていた。
──××××!
母の声。
──ああ、よかった、無事だったのね、よかった……!
──正門と西の門はだめです。ローランとユオンはやられました。
──……そう。ではもう、この子を守ってくれるのはお前だけだということ。
ローブの男の腕から母の腕へ。
子供は母の胸に垂れる豊かな黒髪を必死で掴んだ。
──王はなぜ戻られないのでしょう。ご帰還は昨日のはず。
──あの人は戻っては来られない。
──……まさか。
母の声は硬い。
──先程占ったら見えたわ。もっと早くそうするべきだった。昨夜のうちに……そうすればこの騒ぎに巻き込まれる前に逃げることが出来たのに。
──首謀者は、ガヌロンですか。
──そうよ。この国は乗っ取られる。
ローブの男は沈黙した。
母に強く抱きしめられ、子供は苦しさに身を捩る。
──逃げましょう。一緒に来てくれるわね。この子を守って。
──……いいでしょう。ですが……ご子息の口から秘密が漏れる可能性がある限り、安らぎはない。
──どうしろと言うの。まさか……嫌よ!
──貴女や私が死ねばどうなります。ご子息を失いたいのですか。何も覚えていない方が安全です。
──でも。
──幼いうちはまだいい。ですが万が一、成長したご子息が全てを知り、望んだら。どうなります。おわかりでしょう。命を救いたいのならば、側にいることは諦めなさい。
母の啜り泣く声が聞こえる。
子供は精一杯手を伸ばし、母の頬を撫でた。
──母上、泣かないで。
──……そうね。お前の言う通りだわ。忘れてしまった方がいい。ここでの記憶も、魔術の使い方も。大丈夫よ、怖くないわ……母様はだめね。
──母上?
母の手のひらが目を、額を覆う。
青い光で視界がいっぱいになる。
眩しさに、子供は目を閉じる。
ローブの男が静かな声で詞を詠唱する。
──ごめんなさい……許して。どうか、幸せになって。ごめんね……あなたを、守ってあげたかった。
眠かった。眠気に抗いながら、どうしてこんなことをするの、と子供は思った。
額から手のひらが離れる。
眠りに落ちる間際、ローブの男が子供の顔を覗き込んだ。
魔物のような真紅の眼。
片目が白濁している。
──さようなら、私の可愛い××××。
さよならなんていやだ。
どうして、母上、どうして。
母の泣き声を聞きながら、子供の意識は落ちた。
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気づけば、呆然と天井を見つめていた。
ぼんやりとして、霞がかったように頭が働かない。
その一方で胸の中には様々な感情が渦巻いている。
散漫として、処理が追いつかなかった。
(……そうだ、儀式をしたんだった。目覚めたのか……)
大きく息を吐き、吸う。気づけば頬が涙で濡れていた。
あの女の悲しみのせいだ。
女、母の感情が移ったせいだ。
母親が泣いていれば、幼い子供は戸惑って、一緒に泣くことしかできない。
本当にあれが、奪われて失った己の記憶だというのか。
「どうだった?」
いつのまにか、マリーが寝台の端に座っていた。
「後悔したかい」
「……なんというか……自分が誰なのか、わからなくなってしまいました」
「うん。そっか。それで?」
「……夢で見た記憶の中に、見覚えのある人がいました」
勘違いかもしれない。
見覚えがあると言っても、顔を覗きこまれたあの一瞬を見ただけに過ぎない。
「その人に手紙を書こうと思います」
意識を失う直前に見たものだったから、あの目は鮮明に覚えている。
魔物のような真紅の眼。
白濁した片目。
そんな目を持っていた人間は、ブレスの知る限りひとりしかいない。
人と風精霊の混血、魔術師協会協会長。
その男は、シルヴェストリと呼ばれている。