32話 彼女曰く
彼女、マリダスピルの家の中では、何もかもが目まぐるしく動いていた。
キツネとウサギとイタチが同じテーブルでおしゃべりし、絵筆が勝手に壁画を描いている。
籠の中のオウムにカラスが言葉を教え、古いオルガンは勝手に音楽を演奏して、長毛の黒猫が「もっとマシな曲は弾けにゃいのか!」と文句を言う。
蝋燭は勝手に火を分け合い、薄暗いと思えば親切に周囲を照らした。
目が回ったブレスが書棚に目を向けると、本が紅茶を飲んでいた。
いったいどういう仕組みなのか定かではないが、とにかく本のなかに紅茶が消えるのである。
意味がわからない。
「獣って喋るんでしたっけ? なんで筆が勝手に動いているんですか? 幻ですか? だとしたらなんでこんな無意味な魔術を編んでるんです?」
「深く考えてはいけない」
カナンはにべもない。
複雑な刺繍の布地が掛けられたソファに腰をかけて、気だるげに本を読んでいる。
「魔女のやることに理由があるとすれば、そのほうが愉しいから、だ」
「愉しいからって動物が喋ってたまるか!」
「仕方ないじゃないか、喋るんだから」
と返事をしたのは賢そうな顔をしたウサギだった。
「そうだそうだ、喋るんだから仕方がない」
「仕方がないから喋るんだ」
「好きで喋ってるとでもおもってるのか?」
「人間はこれだからだめだ」
「頭が硬すぎる」「石頭め」「解らずやめ」「バカめ」
キツネやイタチも口々に賛同し、ブレスは多数決で敗北した。
「こんな……こんなことって」
「おやおやお前たち、あんまりお客に無礼を働くんじゃないよ」
服を着ろと言われたマリダスピルは、ゆったりとした黒い薄衣のドレスを纏って現れた。
露出は大幅に減ったものの何しろ布が薄いので、背筋を伸ばせば胸元が悩ましく、椅子に座れば太腿のラインが悩ましい。
翼のあるカナンの姿を見た時の数倍、ブレスは目のやり場に困った。
たしかに、魔女は若い魔術師を誑かす魅力に溢れている。
豊かに波打つ赤毛を艶っぽいしぐさで背中へ流したマリダスピルは、壁を向いて精霊に祈り始めたブレスの顎を容赦なく掴み、くっと上向かせてその目を覗き込んだ。
金色の両眼。
蜂蜜のように甘く、しかし獅子のように獰猛なその目。
ふっくらとした唇が薄く開き、ちらりと舌を覗かせた。
蛇のように裂けた舌だった。
目が離せない。
「坊やの名前は、なんていうのかな」
彼女は問う。甘い声だ。
首筋から奇妙な痺れが広がってゆく。
「あたしにも、教えてくれないかなぁ?」
意識の片隅で警鐘が鳴り響いた。
小さく遠い、警鐘だ。
「……名前……名前は……」
「そこまで」
今にも告げてしまいそうだったその時、カナンの声で我にかえった。
舌打ちしたマリダスピルが手を引っ込める。
解放された途端、寒気と恐怖で心臓がばくばくと暴れ始めた。
カナンはソファで寛いだまま、指先をワタリガラスに突きつけている。
「僕の生徒を害するつもりなら、君のいちばん可愛がってるカラスを殺すよ」
「えー。もー、わかったよ。あたしが悪かったよ。だからムニンは殺さないでよ。
このあたしでも滅多に会えないお前と、旅をしてるってこの坊やがちょっと羨ましかっただけなのにさ」
「ちょっと羨ましいからって、呪わないで欲しいものだね」
会話の内容の物騒さとは裏腹に、ふたりの間に緊張はない。
カナンは相変わらずソファで本を読んでいるし、マリダスピルは唇を尖らせて頬を膨らませている。
ブレスは脱力し、その場に座り込む。
この短時間で頭に叩き込まれた教訓がある。
「魔女、こわい……」
子羊のように震えるブレスを見下ろして、マリダスピルがけらけら笑い、カナンがため息をついた。
本を閉じたカナンは、ブレスを手招いて己の横を指差した。
師の情けに感謝しつつ隣に座ったブレスは、改めてマリダスピルを観察した。
若い──否、若く見えるだけで実年齢は定かではないが、マリダスピルは若々しい娘だった。
つやつやとした肌は白く滑らかで、炎のような赤い波打つ髪に、甘く妖しい金色の目をしている。
背は高くも低くもなく、体つきは女のものではあるが、すらりと伸びた手脚は引き締まって無駄がなかった。
長く綺麗に伸びた爪は赤い。
ふっくらとした唇もまた赤い。
目尻にさした色もまた、赤い。
その赤い娘はいま、肩に止まったカラスの羽を愛しげに撫でている。
「それでマリー。他に客人は来るのか」
本の背表紙を撫でながら、カナンが問う。
「もちろんさ。あたしは友達が多いからね。お祝いが何日続くかわかんないけど、んー、半月くらいは毎日誰かしら来ると思うよ。みんなが集まったらパーティーさ」
「そう。僕たちは最初に来てしまったということか……先は長そうだね」
「いいじゃないの。ゆっくりしていきなよ。色々あったんだろう? 塔からお姫さまを助け出した王子さまには、休息が必要だよ……あたしの可愛い歌い鳥」
カナンから表情が消える。
マリダスピルが金色の目を細めて、やさしげに囁く。
「あたしはなんでも知っているんだよ。たくさんいる友達が、なんでも教えてくれるからね」
「……魔女め」
「そうさぁ。世の中の無念をぜんぶ背負って、あたしは魔女になったんだ。だから甘えていいんだよ。
いまのあたしに耐えられないことなんか、なーんにもないんだから」
カナンはしばらく黙っていたが、やがて細く嘆息するとひとつ頷き立ち上がった。
息を詰めてことの成り行きを見守っていたブレスには、何が何だかわからない。
だがマリダスピルには、どうやら害意はないようだった。
むしろふたりの間には、ある種の絆のようなものさえ感じられる。
立ち上がったカナンに、マリダスピルは階段を指差して言った。
「二階の左奥の部屋が空いてるよ。この赤毛の坊やはあたしが預かっとくからさ」
「では、呪ったり唆したりしないでください。あまり苛めないように」
「信用ないなぁ、わかったってば、ほら。何かあったら呼びに行くからさぁ。大丈夫だよ。おやすみ」
カナンは示された階段を上がり、マリダスピルはひらひらと手を振って見送った。
マリダスピルと共にカナンを見上げていたブレスは、今更ながら己が魔女とふたりきりになっていることに気づいてしまった。
非常にまずい状況だ。
「……あれ?」
カナンが座っていたソファに、今度はマリダスピルが座る。
あの猫のような金色の目が間近に迫る。
冷や汗が止まらない。
「えへへ。それじゃあ坊や、これからあたしとなにして遊ぶ?」
「そ、そうですね……」
「ああ、よく見ると可愛い顔してるじゃないの。赤毛の子は大好きだよ」
「そ、それはよかったですね……」
ご機嫌に擦り寄る魔女の肩に止まったカラスが、馬鹿にしたようにカァと鳴いた。
喋れるくせに。
全身を緊張に強ばらせ「そうですね」と「そうですか」しか言葉を発しないブレスに、マリダスピルはそんなに怖がる必要はないのに、と笑った。
彼女の言うことには、
「いい? たしかにあたしたちは快楽主義だよ、それは認める。でも無理強いはしないさ、相手があたしたちを害そうとしないかぎりはね。
だって望まないやつを相手にしたって愉しくない。だからそういう時は、相手から望むように、自ら求めるように言葉を吹き込んで唆す。それはある。
だけどそれさえ効かない相手には、あたしたちはなにもしない。堅物には興味ないのさ。なんでかわかる? そういう奴らを誘惑すると、後で魔女狩りの憂き目に合うからさ。
で、さっき上に上がっていった奴は、その堅物だ。さっき見てたよね、あたしのカラスを殺すって言ってたのを。
魔女だって大事なものはある。カラスが殺されたら悲しい。だからあたしは、坊やを無理強いしたり唆したりはしない。わかった?」
とのこと。
ブレスはこの言葉を信じることにした。
相手がどういう生き物なのかを知らないから恐ろしいのだ。
彼女の言うことは理屈が通っていたし、いい面も悪い面も詳らかに話した。
それに、理屈だけでは信用できないが感情が伴うとなると話は別だ。
連れ添ったカラスが殺される悲しみと、会ったばかりの人間を誑かす愉しさを天秤にかけたら、どちらが重いか。
そんなことは考えるまでもない。
魔女は情が深い生き物だ。
「エミスフィリオです。先生が……カナン先生がつけてくれた呼び名です。本来の名前は言えませんけど、もしよければそう呼んでください」
ブレスがそう言って手を差し出すと、マリダスピルは屈託なく笑った。
「信じてくれてありがとう! 何番目の名前でも嬉しいよ。エミスフィリオかー、長いなぁ。坊やのことはフィーって呼ぼう。あたしのことはマリーでいいよ」
マリダスピルは両手でブレスの手を取り、握手を交わす。
こうしてブレスは、魔術師でありながら魔女の知り合いができてしまったのだった。
協会長が知ったら、どんな顔をするだろうか。
マリダスピルは基本的に、面倒見の良い感情豊かな女だった。
面倒見が良いと言っても、実際に働くのは彼女ではない。
彼女の家に住み着いている、言葉を喋る奇妙な動物たちである。
掃除や修繕、花瓶の花を飾ること、音楽を奏でることが動物たちの主な仕事だった。
出会った初日に彼女が粉砕していたアーチドアの窓もネズミたちがなおした。
着替えを用意したり、庭の畑から野菜を取ってきたり、森へ入って食卓に並ぶ「肉」を狩ってくることもあった。
マリーがあれこれと動物たちに命令し、動物たちはそれに応えて仕事をする。
この家はそうして諸々の雑事をこなしている。
マリーとの最初の数日は、食事とお茶の時間を繰り返すうちに飛ぶように過ぎて行った。
彼女の食卓にはさまざまななものが並ぶ。
甘い焼き菓子やチョコレート。
サンドイッチなどの軽食から、王族の食卓に並んでもおかしくはないであろう手の込んだ肉料理やパイの数々。
果実と酒はいつも切れることがない。
ブレスは魔術師であるから、酒や菓子には手を出すことができない。
砂糖や小麦などの精製された加工物を摂取すると、体内の魔術回路が滞ると言われているからだ。
ブレスは若年で成長期であるから、この時期にそういうものを摂取すると回路の成長が止まり魔術師として大成出来なくなってしまう。
そのブレスの目の前で、マリーは見せつけるように甘味を頬張り笑み崩れ、酒に酔って恍惚とする。
若い魔術師が魔女に近づくと道を踏み外すと云われる理由を痛感した。
こんなふうに快楽に耽る者が目の前にいれば、普段禁欲を強いられている若い魔術師たちは、試してみたくもなるだろう。
だが、ブレスは耐えた。
同じ家の二階にカナンがいるからである。
初日以来部屋にこもって顔を見せないとはいえ、師がすぐ側にいるのに誘惑に負ければ、カナンの顔を潰すことになる。
そんなことをして万が一カナンの気に障れば、凍死する可能性も無くはない。
無いと思いたいが、無くはないのだ。
そんなことを考えていたある日、ブレスはふと疑問を覚えた。
「マリー様」
「なんだい、フィー」
飛んでくるカラスのために窓を開けていたマリーが、酒盃を傾けつつ振り返った。
「マリー様はもとは魔術師だったんですよね?」
「そうだよぉ、賢女だった。大昔のはなしだけどね」
「こんなに魔術を使っているのにこんな食生活で、魔術回路は壊れないんですか?」
「魔術回路?」
マリーは不思議そうに首を傾げる。
「魔術回路ってなに?」
「……ええと」
なに、と訊かれると難しい。
ブレスにとって魔術回路は魔術回路である。
言葉を探しながらブレスは説明した。
血管のように体内を通っているが目に見えず、血液の代わりに魔力が流れる。
生まれた時は弱過ぎて使い物にならないため、魔術を使うために鍛える必要がある。
鍛えるためには、鍛錬と食制限が欠かせない。
なぜならば食べたものが肉体と魔術回路を構築し、鍛錬が回路を安定させるからだ。
ふーん、とマリーは頬杖をついた。
「それって本当なの?」
「えっ、嘘なんですか? 魔道学では一応、そういうことになっているのですが」
「どうなんだろう。あたしは知らなかったなぁ。知らなくても、使おうと思えば使えたし……変だな。時代の違いか? ねぇフィー、あいつはなんて言ってた?」
「先生ですか? 先生は……特になにも言っていなかったですが、旅中は教典の教え通りに生活をしていました、知る限りは。魔術師として模範的な生活を」
「……うーん。あいつは駄目だ、参考にならない」
だったらどうして訊ねたのか。
「ま、いいや。友達が集まったら訊いてみよう。魔女の宴の話題にするにはちょっと真面目過ぎるけど、たまにはこういうのもいいだろう。
そうだね、先に質問に答えとくと、あたしはそういう生活制限をかけたことはない。それでも不便は感じなかった。賢女だった頃も魔女になった後も。あ、でもこの子たちは」
マリーは喋る動物たちを見やった。
「闇の生き物、いわゆる悪魔だから勝手に魔法を使うんだ。あたしが操ってるわけじゃないから」
「悪魔ってこの動物が!?」
「なんだよう、魔術師だって夜の生き物を使役に使うじゃないか。魔物、魔獣。悪魔だって似たようなものだろう?
精霊の裏側みたいなものだよ。精霊は信じるのに悪魔は信じないのかい」
「……たしかにそうですね」
言われてみればその通りだ。
ぐうの音も出ない。
だいたい、おかしいとは思っていたのだ。
獣の口の構造で人間の言葉を喋るのだから。
「大丈夫。怖くないよ? あたしも怖くなかっただろ。この子たちだって同じさ。それにこの子たちは、あたしの使役だ。下僕も同然よ。
この家の女王であるこのあたしが命じない限り、噛みつきやしない。そうでしょ、お前たち」
「もちろんさ」「言うまでもない」「言いなりさ」「無害だよ」
マリーの言葉にカラスやウサギやキツネたちは口々に同意する。
嘘くさいことこの上ないが、彼らがマリーに服従していることは確かなようだ。
とにかくマリーの機嫌を損ねないことを肝に銘じよう。
味方ならば心強いが敵に回せば根の国逝き。
この魔女はそういう類のものであると本能が告げている。




