29話 罪と罰と遺言
いったいどうしてこんな事に?
赤々と燃える家々を、ブレスは茫然と見つめた。
「この国はもうおしまいだ」
燃え盛る炎に背を向けて走る人々が嘆く。
「聖王陛下、なぜお隠れになってしまわれたのですか」
「お言葉も遺さずに」
「お世継ぎもなしに」
「何を信じて生きてゆけばいいのですか」
燃え盛る炎に武器を掲げた人々が走る。
「魂なくとも、せめてお身体だけは取り戻さねば」
「白き御子たちを捨て置けるわけがない」
「大司教を殺せ! 簒奪者め!」
(聖王が死んだ。大司教が簒奪者? 何を……聖王位か!)
ブレスは息を呑んだ。
暴動だ。反乱だ。内戦だ。
聖王が死んだ?
確かにシャファクは心身共に病に侵されていた。
いつ死んでもおかしくはなかった。
その死に乗じて、神官のひとりが王位を奪ったということか。
聖王は次の聖王を公表せずに死んだのか?
あのカナンをやり込めるほどの力を持った聖王が、そんな不手際を?
とても信じられない。
ブレスでも信じられないのだから、人々が信じないのも道理だろう。
「──と言うか、先生は何をしているんだ!」
連絡の途絶えたカナンを思い、ブレスは宿を飛び出し走り出した。
シャファクが落命したのならば、カナンを封じる印も力を失ったはずだ。
どこにいる。
まさか、あの炎のなかにいるのだろうか。
友人の亡骸を抱いて。
失意の底に落ちて。
やりきれなかった。
ブレスは走る。
熱風が肌を焼く。
印を描き、風の盾を纏う。
風は炎を受け流してくれる。
やがて城門にたどり着いた。
門は開け放たれ、門番もいない。
炎は神官たちの住まう屋敷から立ち上っていた。
赤から始まり赤で終わる、奇妙な色の家々。
〈白き塔〉を囲う色、暴徒、神官たちの全ては、いま炎と血の一色に染まっている。
赤。始まりと終わりの色。
(ああ……確かに、この国は終わるのかもしれない)
足元に倒れる白い髪の子供。
抱き起こすが、既に息絶えている。
その傍らで死んでいるのはこの国の民か。
争いは絶えず、いまこの瞬間にも人が命を落としている。
嘆き、叫び、嘲り、嗤う。
悪魔が笑っている。
紺色の神官服を着た悪魔が。
ブレスに振り下ろされた剣が、風の盾によって逸れる。
大地を抉る剣は、血に塗れて濡れている。
記憶の石の中で、シャファクが恐れていた未来がいまここにある。
ブレスは子供の亡骸を抱いて、無力感に打ちひしがれた。
「聖王の言う通りだった。こんな国、滅びてしまえばいい……」
その時、炎に満ちた城壁の中で、凍てつくような冷気がブレスの頬をなでた。
長く豊かな白髪を風に巻かれて、塔から降りて現れた人影があった。
背の高く、細身で、白い衣を靡かせた男の姿をしていた。
腕の中には、同じく白い髪の痩せた青年が抱かれている。
銀糸の刺繍が施された純白の衣を血で汚した、聖王シャファク。
シャファクを抱き、エメラルドのような両眼を爛々と輝かせて歩むその男の周囲には、吹雪が荒れ狂っていた。
城門の中で争っていた人間たちは、男の振りまく冷酷な怒りに瞬く間に圧倒され、言葉もない。
吹雪は炎を制圧し、城壁の中を凍えるような冬で満たした。
『我が忠実なる眷属の声を聞け』
男が口を開いた。
それは人の言葉ではなかった。
心臓を直に撫でられるような、背骨を凍り付かせるような、肌の粟立つ神々の言葉だった。
音を介せずとも意味を理解させられる、思念の類だった。
神の啓示。
神官たちは目の前に立つ人影が何者であるかを悟った。
膝を付き、平伏し、赦しを乞うた。
恐れと極寒にがちがちと歯を鳴らし、指先の凍りつく痛みに顔を歪め、吹雪の痛みに目を閉じ、蹲る。
なすすべもない。
ブレスは放心して、吹雪を纏うカナンを見つめた。
冬のカナリア。
サタナキアと大地の合間に生まれし第四の神精。
シャファクの記憶のなかのカナリアは額に目のある有翼の姿であったが、この人ならざる気配、もはや疑いようもない。
聞けと命じたカナリアの言霊によって、その日シャムス聖王国の国民全てがシャファクの遺言を聞いた。
聖王の成り立ちと真実。
冬のカナリアの知を借り、魔道学を確立して国家の立ち位置を確固なものとしたこと。
病におかされていたこと。
高位神官らが増長し、国益を私物化していたこと。
そして、病に弱った彼の身では、その暴挙を正すことが出来なかったこと。
『私は、一国の王としてはあまりにも脆弱だった。目の前の誤ちを正す力もない、過ちを民に開示することもできない……ただ、当初は虚言であった冬の君の加護を得た。その意味において、私は聖王足り得る者であったと言えるだろうか?』
『私の命は残り少ない。だが、皆のものよ。どうか嘆かないでほしい。私は数百年、生涯をかけて慕った神のもとへ逝くのだから』
『今日、私は役割を終える。美しき冬の化身とともに歩んだこの国は、私と共に今日をもって滅びる』
そんな、と悲鳴にも似た声で女が泣いた。
女の身で炎の中で戦っていた、果敢な女がブレスの前で泣き崩れた。
彼女だけではない。
塔を目がけて集ったシャファクの民は、皆涙を流していた。
シャファクはカナンの腕の中で静かに微笑んでいた。
優しい声で、彼は続けた。
『聖王国は滅びる。けれど、世界が終わるわけではない。明日は来る。光ある明日だ。私の愛する子供たちよ、自らの力で立ち上がれ。歩め。生きよ。神は去り、私ももうじき死ぬけれど、皆がつくりあげる新たな国の繁栄と幸福を、私は、信じている……』
慈愛に満ちた穏やかな声が途絶え、遺言は終わった。
沈黙。
啜り泣く人々の嘆き。
追悼の祈り。
悲しみにくれる人々に、冬のカナリアの静かな声が容赦なく降り注ぐ。
『聖王は死んだ。遺骸はこのカナリアが連れてゆく。シャファクは楽園で安らかに眠るだろう』
最後にそう告げると、カナリアは吹雪と暴風を散らして宙へ舞い上がり、天の彼方へと消えていった。
命の火の消えた、聖王シャファクの身体を抱いたまま。
後にはただ凍りついた城壁と塔が、出来事の証として残されただけだった。
翌日、早朝。
夜通し人々と協力して城壁内から死者を運び出し、怪我人には治療を施し、神官たちを追い出したブレスは、〈白き塔〉の前に立っていた。
塔は未だ凍りついている。入口も窓も氷で封じられ、まったく溶ける様子がない。
(これは……結界かな。幻と、防音も)
人気のない広間を振り返り、周囲を確かめる。
誰もいない。
よし、と覚悟を決めてブレスは氷の壁に触れた。
「開け」
目の前の像が揺らぎ、影を残して質量が消えた。
試しに軽く押してみると、手首から先が壁を通り抜ける。
幻像と結界を組み合わせることによる錯覚。
氷の塔のように見えるが、実際は凍っても冷えてもいない。
ブレスはするりと塔へ入り、再び結界を閉ざした。
歌が聞こえた。
低く滑らかな音の連なり、それは鎮魂歌だろうか。
その声に誘われるように、ブレスはゆっくりと塔を登り始めた。
階段の所々で人が死んでいた。
石の壁には血の飛び散ったあとが生々しく残っている。
塔の中で白子たちの世話をしていたであろう、黄色のトーガを着た巫女。
聖王を取り戻そうと塔に押し入り、殺された老人。
農具を背に突き立てられた神官。
そして、年端もいかない白い髪の子供たち。
死臭はしなかった。
死体が閉じ込められているためだろう。
虫を閉じ込めた琥珀のように、水晶のような氷の柱に人が閉じ込められていた。
階段を登るにつれ、歌声が次第に大きくなっていく。
やがてブレスは、その扉の前に立った。
「先生、居るんですか」
呼びかけると、歌が止まった。
応えはない。
沈黙。物音ひとつしない。
深く呼吸をし、覚悟を決める。
ブレスは扉に手をかけ、そっと押し開いた。
壁際に寄せられた寝台の上に、聖王の遺骸が横たえられている。
そしてその寝台にもたれかかるようにして、額に目のある白髪の天使が座り込んでいた。
その姿は、シャファクの記憶にあるカナリアそのものだった。
足元に渦巻く白く長い髪、一対の広い翼、眉間から額へ開いた白眼のないエメラルドの眼。
人の形に似た人ならざるものが、うつむけていた頭をゆっくりともたげてブレスを見た。
突き刺さるような視線に指先ひとつ動かせなかった。
ブレスは畏怖した。
カナン。これが?
面影はある。だが、違う。
何が違うのだろう。纏う異様な気配か。
「僕が怖い?」
カナンの声だった。
話し方も、声の調子も、響きも、声は変わらなかった。
「……そうですね。どうやら慣れが必要なようです」
その答えがよほど意外だったのだろうか。
カナンは暫し沈黙し、やがて困ったように苦笑して、おいで、と言った。
シャファクの遺骸は、まるで眠っているかのようだった。
安堵しきった静かな表情。母に抱かれた幼い子供が、そのまま眠ってしまったような顔をしていた。
招かれるままカナンの側に寄ったブレスは、石畳に広がる長い髪を踏まない位置に座った。
ここにシャファクの体があるということは、昨日のあれは芝居だったのだろう。
シャファクの最後の言葉を伝えるために、仰々しい言葉と気配を纏い、この国で信仰されている神としてのカナリアを演じたのだ。
そんなことを考えながらも、ブレスは目のやり場に困っていた。
神や精霊の類を前にする機会など滅多にないが、魔術師として好奇心の赴くまま観察するのはいくらなんでも無礼というもの。
畏れや敬意もあった。
自分はこんなひとと旅をしていたのかと思うと、心中は複雑を極めた。
葛藤の末、ブレスはいまひたすら石畳とカナンの翼の境目を凝視している。
しみひとつない純白の翼は鳥のようだった。
それはいま、石畳を覆うように広げられ、伏せられている。
ふと、その合間から見えてはいけないものが見えた気がした。
裸足の子供の足だ。
それも、ひとりやふたりの数ではない。
「……あの、先生。羽の下になにを隠しているんですか?」
考える前に思わず問い詰めていた。
カナンは首を傾げ、ああ、と呟いた。
恐る恐る顔を上げると、カナンは人差し指を立てて「静かに」と示した。
ゆっくりと翼が持ち上がる。
カナンの膝や髪を枕にして、白子の子供たちが眠っていた。
頬に残る涙のあとから察するに、皆でシャファクの死を悼んでいたのだろう。
カナンは再び翼を伏せた。
そうしていると、卵を守る親鳥のようだった。
「……生きているようで安心しました」
「なんです。君は僕が人間の幼子をどうにかするとでも思っていたのですか?」
「ええと……まあ、そうですね……。先生はちょっと人間と感覚がずれているので、無くはないかな、と思っていました」
「正直だね」
気に障った様子はなかった。
知らずに詰めていた息を吐く。
カナンは変わらず静かで、みじろぎひとつしない。
思い切って視線を上げる。
カナンは何も見ていなかった。
ぼんやりと覇気のない顔で、じっと何かを考えていた。
「……確かに僕は、人間の考えることがよくわからない」
やがてカナンは、ひどく頼りなげな様子でぽつりと呟いた。
「シャファクは満足して死んでいったけど、僕はあれで良かったのか自信がない。そもそもこの国がこんな状況になってしまったのも僕のせいだ。シャファクが長い間苦しんだのも、子供たちが死んでしまったのも、ぜんぶ僕と関わり合ってしまったからだ。僕なんかいなければよかったんだ。なのにシャファクは、ありがとうと言って死んだ。どうして……」
どうしてそんなことを言ったの、シャファク。
弱々しい問いかけに答えられる者は、もう息をしていない。
再び沈黙が流れた。
ブレスに答えられる問いではなかった。
シャファクが死の間際にどんな気持ちで居たかなど、他人であるブレスにはわかるはずもない。
だが、ただひとつ確かなものがあった。
ブレスは懐から取り出したものを、そっとカナンに差し出した。
エメラルド。
シャファクの人生の記録とも言える、記憶の石。
カナンはそれを見つめ、わずかに表情を歪めた。
薄い唇を結び、石を受け取ると、大切そうに胸元にしまった。
大きく息を吐いたカナンは、この国を出ないと、と言って翼をしまい、額の目を閉じた。
白い髪はそのままだが、そこに座っていたのは見慣れた顔の魔術師のカナンだった。
旅立つことに、もちろんブレスに異論はない。
「でも、この子たちはどうするんです? 連れて行くんですか?」
翼の温もりを失って眠い目を擦っている白い髪の子供たち。
聖王の象徴である色を持っている以上、この国にはいない方が良いだろう。
「お前たちはどうしたい?」
カナンが問いかけると、子供たちは困惑したように顔を見合わせた。
この塔だけが居場所だったのだ。
本来ならば母離れも済まないはずの、幼い子供である。
「……シャファクさまの身体は、どうなさるのですか……?」
おずおずと声を上げたのは、紫色の瞳を持つヴァイラだった。
少女はカナンしか映さないその両眼で、眩しそうにカナンを見つめている。
「シャファクは、僕の領域に連れて帰るつもりだ。僕の森の一部になるだろう。人の世界に肉体は残らない」
「それならば、わたしも、シャファクさまと共に行きたいです」
はっきりと言い切った少女に、カナンは虚をつかれた顔をした。
「解っているのか? 〈古きもの〉であるのならともかく、ただの人間であるお前が僕の領域に行ったところで、自我を失い肉体を保つことも出来ない。
よくて獣になるか、悪ければ分解されて森の養分になるだけだ。人であったことも忘れる。何もわからなくなる、シャファクのことも」
「それでも良いのです。シャファクさまが行かれるのなら、たとえ虫や塵になったとしても、わたしはシャファクさまのお側にいたいと思います」
「だが……」
言い淀むカナンをよそに、子供たちはヴァイラの言葉に顔を輝かせた。
「カナリアさま、僕もヴァイラ姉様と同じ気持ちです」
「シャファクさまと一緒がいい!」
「僕たちも、どうか連れて行ってください」
「カトル、トレーズ……本当にそれでいいのですか。髪や目の色を変えて、孤児院で人間の子供らしい生活を送ることも出来るというのに。もう二度と戻ってくることは出来ないことを、きちんと解っているのですか」
「……先生。たぶんこの子達には、戻って来たい場所なんてないんだと思います」
ブレスの声に、カナンは顔を上げた。
ヴァイラが微笑む。
「それに、わたしたちは生き方を知りません。外の方々の喜びを知りません。外の方々の悲しみにも、怒りにも、きっと何一つ共感できないでしょう。
わたしたちは外の方々にとって異物なのです。わたしたちの幸福は、暮らしは、生きがいは、すべてこの塔の中にありました。シャファクさまが、わたしたちの塔でした。だから」
声が震えていた。
シャファクを亡くし、行き場もない。
それでも。
「お側にいられるのなら、お側にいたいのです」
願うように泣きながら、ヴァイラは微笑んでいた。
「ブレス君。君も彼女に賛成するのか」
「俺は部外者ですけど……それが当人の希望なら。叶えてあげられるなら、叶えてあげて欲しいと思います」
「おまえたちも、それでいいのですか」
子供たちは無邪気に笑い、否を叫ぶ者はひとりもいなかった。
「……わかった。そこまで言うのなら、好きにするといい」
「ありがとうございます……カナリアさま」
幸福そうに笑ったヴァイラの歓喜の表情を、カナンは一生忘れないだろうと思った。




