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冬のカナリア とある魔術師の旅路  作者: 鹿邑鳩子
4 シャムスの人柱
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28話 死にゆく君へ

 

 目を覚ませば、カナンは寝台に横たわっていた。


(……天井が回っている)


 なるほど、これが目眩か。

 かつて感じたことのない感覚に気分が悪くなって目を閉じ、己の身に起こったことを考えた。


 〈眠りの森〉に迷い込む人間は、稀ではあるがいる。

 しかし、あの領域において主であるカナンの意に反するような出来事は、何一つ起こらない。


(起こらないはずだった、それなのに)


 弾き出されたと思った。

 あの不可侵の森から、支配者である己が。

 だが、そんなことがあり得るだろうか。

 カナンがあの森に拒絶されることなど、あり得ないはずだった。


 現実的に考えるのならば、カナンの意志によって眠りの森を閉じたとする方が理にかなっている。


(そうだ。僕は彼の言葉によって、意識を強制的に変えられたのだ)


 メイリーンの魂の欠片を言葉によって天へ導いた時のように、ブレスはカナンの無意識に〈言霊〉の力で命令した。


 命令を受けたカナンは何がなんだか解らないうちに、無意識にその命令に従った。

 その結果、森を閉じ、この肉体に戻ってきてしまった──ということか。


 もう一度肉体を離れようと試みたが無駄だった。

 ああ、これは参った。

 ぼんやりと瞼を上げ、再び天井を見る。

 もう視界は回っていない。


 微かな衣擦れの音がして、近くに誰かがいることに気がついた。


 横たわったままわずかに首を動かすと、カナンの寝かされている寝台に寄りかかるようにして、真珠色の髪の男が床に座り込んでいる。

 ツンと鼻をつくアルコールのにおいが、幾重にも纏わりついていた。

 

「……やめなさい、酒なんて。君らしくもない」


 酔い、項垂れていたシャファクが顔をあげる。

 髪はほつれ、目の下は黒ずみ、生気のない顔をしていた。

 自暴自棄になり、部屋に閉じこもって絶望に暮れている。


 聖王は──聖王に祀りあげられた男は、虚ろな目でカナンを見、自嘲に歪んだ顔をふいと逸らした。


「もう、目覚めないつもりだとばかり思っていましたよ。私の生きている限りは」

「すまなかった」


 言葉は自然と溢れた。

 酩酊するシャファクは首を傾げ、困惑した。

 己が聞き間違いをしたのかと思い、聞き返した。


「……なんて?」


「僕が悪かったんだと思う。シャファク、すまなかった。これまでずっと、数百年……人間にとっては、長すぎる時間だった。

 僕は、君に死んでほしくなかったんだ。本当にそれだけだったんだ、あの時は。

 人間にとって、数百年生き続けることがどんなに苦しいことか、知らなかったんだ。僕は愚かだった。シャファク、すまない」


「……はは」


 どうして笑っているのか、シャファクは自分でもわからなかった。

 カナンは口を閉ざした。

 静かな部屋の中、シャファクの渇いた笑い声がむなしく響く。


 やがて笑い声は、嗚咽に変わった。

 声を押し殺し、涙を袖に押しつけて呻く様にシャファクは泣いた。


 すぐそばで蹲るシャファクの頭に、カナンは横たわったまま指先を伸ばした。

 力の入らない腕を持ち上げて、ゆっくりと頭を撫でる。

 

 シャファクの涙が止まるまで、カナンは静かに寄り添っていた。

 今のカナンには、それしか出来なかった。




 それからふたりは話をした。

 殆どが取り止めのない話だ。

 

 カナンはそれを素直に聞き、シャファクは胸に空いた穴を満たした。

 他人の介入がない時間。

 こんな時間は滅多に訪れない。

 言葉は止まることを知らなかった。


 やがてシャファクは、カナンが肉体を離れそして肉体に戻るまで、数日の空白があったと言った。


「よほど私が嫌いなのだと思いましたよ。顔も見たくないと言われているような気がして……もう、今年の旅を諦めてしまったのだと思った。このままこの塔で冬を迎えることを選んだのだと」


 その考えに至った瞬間、最後の時が訪れるまでカナンの側にいる事を、シャファクは選んだ。

 ヴァイラへその旨を伝え、人払いをして扉を封じ、冷たくなったカナンの側に座り込んだのだ。


 この国が、この土地が冬に襲われて滅びるのだ。

 滅びる国のことなど知ったことか。

 政を放棄して何が悪い。


「そんな気はなかったんだけどな。僕は一応、君を説得するなり逃げ出すなりの方法を考えようとしていたんだけど。あちらとこちらでは、時間の流れが違うから、それで何日も経ってしまったのだろう」


「それは……思いもしませんでしたね。私はてっきり、無かったことにするのかと思った……私との関わりも、存在も」


「君の中の僕はそんなに人でなしなのか」

「ええ。だって貴方は、そもそも人間ではない」


 シャファクの即答に、カナンは苦笑いを浮かべた。


「僕はわりと、君のことが好きだったんだけどな」


「貴方はご存知でない。この世界に残されている神話のなかで、神々がどれほど気まぐれで、その寵愛が移ろいやすいものとして描かれていることか」


「正確には僕は神じゃない。サタナキアと大地の間に生じた、半神半精霊のようなものだ」


「我々人間には同じことです。主神サタナキアとその息子と娘は人、間が書き残した聖典のなかでは神々であると明記されている。


 ……そうですね、いま思えば私も愚かでした。事実は数々の神話に示されていたのに。寵愛を受けた人間が、幸福や平穏な生を得ることなど殆どなかった。

 恋人がいるのに純血を奪われた娘の話や、木や花に姿を変えられた娘の話、それから──」


「待ってくれ、それは全部エッタのしわざだ。僕じゃない」


「村いちばんの臆病者が勇敢になりたいと願った末に、身に余るほどの怪力を授けられて人里で暮らせなくなった話もありましたね。

 彼はただ、ちょっと名を上げて好きな娘と結ばれたかっただけだったのに」


「……それは多分、サハナの逆恨みだと思う」


 夏を作ったヘリオエッタは生真面目だが空回りが多く、秋を作ったサハナドールは惚れやすくて嫉妬深い。


「慢心した人間が古城に住まう怪物に挑みかかるも返り討ちにあい、修練を重ね後の世に名を残す聖剣の騎士となった、という話もありましたね。

 死の間際にその男は『あれは神の啓示であった』と言い残したとか」


「……怪物ね」


 カナンは遠い目をした。

 あの時は驚いた。

 見晴らしの良い廃墟で心地良く眠っていたら、突然目を血走らせた人間が剣を振り下ろしてきたのだ。


 そうか、彼は怪物と戦っていたつもりだったのか。

 その後もしつこく付き纏われ、散々斬りかかってこられたものだが、聖剣を持つとは、カナンを魔王の係累かなにかだと思っていたのだろうか。


 最期まで勘違いをしたまま逝ったらしい。

 彼とも話をすれば、分かり合えたのだろうか。

 いま話をしていなければ、シャファクもカナンを憎んだまま、逝ったのだろうか。


 沈黙に何を思ったのだろう。

 シャファクは残り少なくなった酒壺をもて遊びながら、ぽつりと呟く。


「神々は人間の都合など考慮するはずもないのに、なぜ人間は追い詰められると願い祈り助けを求めてしまうのだろう」

「きっと君の国の神官や民が、君に救いを求めた理由と同じだろうね」

「……そうですね。そうだった」


 寂しげに微笑したシャファクの手から、カナンは無言で酒壺を取り上げる。

 寝台の上で行儀悪く中身を飲み干し、シャファクの手の届かない位置へ壺を追いやった。


 起き上がり、片膝を立てて胡座をかいて座ると、シャファクが困った顔で見上げていた。


「君が飲むのをやめないなら、僕が飲むしかないだろう」

「……かりそめにも魔術師の生き方にこだわっている貴方が、いいのですか。毒でしょう」


「肉体には毒だろうね。まあ、魔術師でなくとも、誰が飲んでも酒は毒になりうる。君の体に障るものなら、僕が飲んだほうがましだ」


「……そうですか。ですがその壺は、底から絶え間なく上等な酒が湧き出る魔術具ですから、カナン様は永久に飲み続けなければなりませんね」


「なんだと。そんなたちの悪い物を作り出す人間が存在したのか」

「私です」


 戦慄の表情を浮かべるカナンを見上げ、シャファクは肩を震わせて笑った。

 

 笑い声に咳が混じる。

 次第に笑みは失せ、シャファクは苦痛にうずくまって咳き込んだ。


 カナンはそっとシャファクの背に手のひらを当てた。

 やがて咳がおさまったシャファクは、口元の血を拭うとまた静かに微笑んだ。

 何事もなかったかのように。


「民が、私へ献上するために、人手と大金をかけて毎年酒を作るのです。彼らも貧しいというのに。


 どうも神官たちが、それを煽っていたようでね。私が、国を清めるために神酒が必要だと。実際は、神官たちが消費していたようですが。


 私は……見ていられなくて、この壺を作って商人の荷馬車に紛れ込ませました。そして民に壺を献上させ、酒造りの必要性がなくなり、民は無駄金を使わずに済むようになったというわけです」


「……シャファク」


「彼らは健気なのですよ、私のような穢らわしいものを無垢に慕い、聖なるものであると信じ……せめてその想いに報いなければ、私は彼らを騙して金品を巻き上げた悪人になってしまう。貢いだ甲斐もない悪党にね。だから」


「……ああ」


「どうか、私を悪人にさせないでください。民が……彼らの想いが踏み躙られるようなことがあっては、あまりにも報われない……」


「もういい」


 言葉が途切れ、シャファクの喉がヒュウと鳴った。

 指先が力無く空を掻く。

 カナンは寝台から降りてシャファクのその手を掴んだ。


「──だめです。聞いて……私には時間が、もうない。お願いします、カナン様……どうか、神官を廃してください、あの者たちはこの国を壊しかねない……民が、彼ら自身の力で国を運営してゆけるよう、どうか、っごほ!」


「シャファク」


「…………せ、いおう……として……最後に‥‥やり残すわけには……」


「わかった」


 後半はほとんど譫言のようだった。

 それでもカナンには、シャファクの言わんとすることがわかった。


「……そうか。だから君は、国を滅せと言ったのか」


 無垢な民が神の名を振り翳した神官たちに搾取されることのないように、聖王を祀るというこの国の体制を廃す。


 聖王であったシャファクは玉座を追われる。

 また、彼の残りの命も残り少ない。

 すべては潮時だった、ということか。


「君の望むようにする。約束する。だからもう喋るな」

「……あなたが、石を読んでくれさえすれば……いま、話さずとも済んだのですよ……?」

「最期まで嫌味とは、まったく口の減らない子だね」


 シャファクを見つめ、カナンは苦笑する。

 シャファクの口元もまた、力を無くしていく体に反して笑っている。


 己を抱き抱えるカナンの黒髪に触れたシャファクは、緩慢な動作でカナンの頭を引き寄せた。

 タールのように黒い、束縛の印が刻まれたカナンの額にそっと口付ける。

 解呪の詞を囁く。


「……あなたは、自由だ」

「必ず君の遺志を遂げるよ」


 頼みました。


 そう言いかけたシャファクの声を遮って、部屋の扉が激しく叩かれた。

 子供たちが、カトルとトレーズが、泣きながら大声で叫んでいる。


「聖王さま! 大変です、開けてください、みんな燃えています!」

「……なに?」


 カナンが手のひらを翻して扉にかけられた封を破ると、ヴァイラや双子を筆頭とした白子の子供たちが駆け込んできた。

 子供たちは怯え、シャファクに寄り縋る。


 カナンは無表情のまま障壁を編み、寄りつくものを阻んだ。

 弾かれたように子供たちが尻もちをつく中、血の気の失せた顔で、ヴァイラがよろよろと跪く。


「大司教が、聖王崩御の報せを……大司教は王位は己が継ぐと仰せになり、それに反発した民が蜂起しました」

「……なぜ……」


 なぜ、人間はこうなのだろうか。

 カナンの胸のなかに苦いものが広がっていく。

 腕の中で、シャファクが微かに息を吐いた。


 ──ああ、そうだな、間に合わなかった。


 カナンは、シャファクが諦めたのだと思った。

 もう一時間も待っていてくれればシャファクは安らかに逝けたのに、とも思った。

 

 苦渋と共に冷たい怒りが込み上げてくる。

 皆殺しにしてやろうか。


 何も冬を呼ぶ必要はない。

 ただこの塔の窓を開けて、あの目立つ色のトーガを纏う神官たちの生命を、砕くだけ。

 そうだ、容易いじゃないか。


 殺そう。

 シャファクが生きているうちに。

 シャファクが憂いることのないように。


「カナン様」


 腕の中からシャファクが呼んだ。

 カナンはすっと視線を下ろし、友を見つめた。

 

 シャファクからは笑みが消え、瞳に力が戻っていた。

 末期のものであれ、生気があった。

 なぜだ。

 理解ができなかった。


「命がもって良かった。私はまだ、生きているではありませんか」


 ぎりぎり間に合いましたね、とシャファクは呟いた。



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