23話 追憶
真珠の色の髪をした子供たちがもてなしを尽くそうと動き回る風景を、カナンは窓際の椅子に腰掛け、物思いに沈みながら眺めていた。
聖王シャファクをはじめ、案内役であったカトルとトレーズ、そしてあの菫色の目の少女ヴァイラ。
それ以外にも、この白き塔には多くの白子が住っていた。
幾年かけて集めたのだろうか。
それとも、この国には白子の血族が多いのだろうか。
あるいは魔術師の髪紐に類似する魔術で、髪の色を変えられているのだろうか。
「冬の君」
菫の目のヴァイラが、カナンの足元に座り込んでそっと呼びかけた。
少女はまるで、主人を一途に慕う仔犬のようだ。
カナンは白子の子供たちから目を逸らし、足元の少女を見つめる。
「なに? ヴァイラ」
「この塔の暮らしは、お気に召しませんでしょうか……」
おずおずとした声でそう問われ、思わず苦笑がこぼれる。
「僕は魔術師だ。魔術師にとって石の壁に閉じこもる生活は、不自由そのものなのだよ。風が通り、命が芽吹き、水が流れ、太陽や月や星々の光が降り注ぐ環境こそが魔術師の命綱なのだから」
「ですが、冬の君は不滅であらせられます。風も光も、本当は必要ではないはずです」
「僕は、魔術師として人に混じって生きていくことにしたのだ、ヴァイラ。冬の名を掲げていたのは過去の話だ。もうなにも滅ぼしたくない。
強すぎる冬はこの箱庭の益にはならない。ライラやサハナやエッタが育て上げたこの世界を、僕は壊したくない。……君はどうなのだ、ヴァイラ。君のその目は」
目をそんなふうに壊されて、この塔での暮らしに不満はないのか。
そう訊ねようとしたカナンの言葉を遮り、衣の裾を引いて現れた男が言った。
「冬があるからこそ春の芽吹きは美しいのです。それに、ヴァイラの目は彼女が望んだことですよ。私の役に立ちたいから、と」
「……シャファク」
その場にいた白子たちが一斉に胸に手を当てる動作をした。
カナンは僅かに口の端を上げて、悲しげに笑った。
「やっとか。随分と回復に時を食われたな。よほど魔術が負担だったと見える。石の壁の中に閉じこもっている人間が、魔術など使うからだ」
「あなたも少しくらい、待つものの想いを味わえばいいのです。ですがまあ、お陰様で再び立ち上がることができるようになりました。やはりあなたの術はよく効く」
「そうか、それはなによりだ。もっとも君が僕にくわせたあの大量の白蛇の毒のおかげで、僕はもう数日まともに歩けそうにないが」
皮肉げな顔で嫌味を吐くカナンに、シャファクは無言で目を伏せた。
カナンは嘆息と共に窓の外に視線を移す。
「お前の苦痛だが、今回は取り除けたかもしれない。だが次はないだろう。僕の力にも欠落がある。シャファク、肉体の病は取り除けても精神を蝕む闇のすみかは変えられない」
「ええ、よくわかっている。だから私は、この体で終わりにしたいと思ったのです」
いくぶん顔色の良くなった聖王は、ゆっくりとカナンの座る肘掛け椅子に歩み寄った。
開け放たれた窓の光に照らされる一歩手前で立ち止まり、その場でゆっくりと跪く。
「一度は既決された事柄ではありますが、もう一度私の話を……降り積もったこの願いを、父神サタナキアの四番目の子、カナリアの君に捧ぐ慈悲を希う」
カナンはこうべを垂れるシャファクの白い頭を、黙して見下ろした。
どれほどそうしていただろう、やがてカナンの唇からこぼれ落ちたのは、諦念に満ちた諾の応えだった。
「いち信徒としてそう正式に祈られては断るすべもない。良いだろう、話すが良い。もう一度だけ、お前の願いを聞いてあげよう。叶えるかどうかは約束しない……あまり、期待してくれるなよ。僕に出来ることなど、本当に少ないのだから」
シャファクは俯いたまま瞼を震わせ、安堵の微笑を浮かべた。
彼は己の首にかけてあったエメラルドの首飾りを外し、カナンへ捧げ持つ。
力のある宝石のなかに印を刻めば、魔道具の一種、記憶の石となる。
エメラルドの輝きの向こうには、微かにシャファクの刻んだ印が銀色に光っている。
「……これを、僕に読めというのか」
カナンはそれを受け取ると、そっと石の印に触れた。
次に目を開けた時、彼は過去──シャファクの記憶の中にいた。
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シャファクは、母親の腹から出て数日目に、当時の聖王に貢ぎ物として献上された捨てられた子供だった。
三十路を半ば過ぎた、王冠を被った巻き毛の男は、捧げられた赤子の血のように赤い目と真珠色の髪を見るなり、満面の笑みを浮かべてこう告げた。
「この子は神の徴を授かった子供だ」
それは、神々や精霊に祝福を受けた子供は身体にその徴を刻まれている、という言い伝えに基づいた言葉だった。
聖王は乳母に子供を預けて育てさせ、己の子供、それも特別な王位継承者として扱うことを決めた。
シャファクという名は、天に現れる神の衣の裾が翻る時に発せられる波打つ光、オーロラという意味を持つ古い言葉から名付けられた。
しかし、シャファクはあまりにも脆弱な子供だった。
目は弱く、肌は日の光で瞬く間に赤く爛れ、耳も良く聞こえない。
外に出られないということは、民衆の前に姿を見せることも出来ず、次世代の国王として政治を執り行うことも難しい。
臣民の言葉を正しく聞き取ることが出来なければ、いったい誰が彼を王だと認めるだろう。
シャファクの不自由を取り除くために、聖王は魔術師を雇い、あらゆる魔術を施した。
目が見えぬのならば〈目〉の魔術を、耳が不自由ならば〈耳〉の魔術を、肌が灼けるのならば塗り薬を調合し、それでもだめならば結界を。
そうまでして聖王がシャファクに固執する様は、彼の妻や、ほかの子供たちにとっては到底理解し得ないものだった。
しかし、現人神として祀られているにもかかわらず、己が神性の欠片さえ持たぬただびとである事実に葛藤と罪の意識を抱え続けて生きてきた聖王にとっては、徴をもつシャファクこそが「人が神を名乗る罪」に終止符を打つ可能性を秘めた唯一の希望だったのだ。
「主神サタナキアは海と大地を妻にむかえ、ふたりの息子とふたりの娘を生み出した。彼らは父なる神のためにこの世界を創り上げたのち、彼らを象徴する創造物を冠してこう呼ばれた。
春の乙女プライラルム。夏の風雷ヘリオエッタ。秋の娘サハナドール。そして、冬の翼カナリア。
シャファクはカナリア神と同じ雪の髪を持っている。これこそが神の御徴の証である。カナリア神に愛されしこの御子が真の聖王である!」
聖王が高らかに教会でそう宣言をした時、民衆は沸きたち、涙した。
七歳の誕生日を迎えたシャファクは、その父の傍に立ち、熱狂する民衆を前に、ただ立ちすくんだ。
誰よりもシャファク自身が知っていた。
自分など、魔術に雁字搦めにされなければまともに生きていくこともできないような、弱いだけの子供に過ぎないのだと。
聖王は貢ぎ物として偶然己に差し出されたシャファクに徴を見出した。
それこそが真実だと、思い込みたかったのだ。
そして彼は、現人神であることの重圧から己と、己の子供たちを解放した。
その役割を、シャファクに押しつけることによって。
七歳の生誕祭以来、シャファクは己の殻に閉じこもるようになった。
シャファクが聖王の位についたのは十二歳の頃だった。
父であった前聖王が逝去したためである。
毒殺だった。
王を演じるつもりなど、シャファクには微塵もなかった。
臣が現れ、あなたの住まう塔を造っていますと言われた時、シャファクの頭を過ぎったのは危機感と諦念だった。
シャファクは己が閉じ込められることを悟った。
王を演じる必要など、始めからなかったのだ。
神は自ら国を治めはしない。
それは人間の役割だ。
現人神の役割は、国の安定のため、人心掌握の道具となることだけ。
閉じ込められることを知り、しかし反発心は産まれた途端に消えた。
一生を塔の中で、人々に崇められながら暮らす。
何もする必要はない。
ただ存在するだけでいい。
衣食住は十分に与えられる。
もともと捨て子だったのだ。
その人生の、何が不満だというのだろう。
恵まれている。そう、己に言い聞かせた。
十八歳を過ぎた頃から、皮膚に異変が現れ始めた。
これまで塗り薬や結界で日の光から身を守っていたが、その効力が薄くなっているようだった。
発疹が現れ、やがてそれは腫瘍に育ち、増え、皮膚が破れ、血が流れた。
肉が腐るような悪臭を嗅いでいるうちに、己の命が残り少ないことを察したが、シャファクの心は凪いでいた。
塔に住まうようになって以来、シャファクの心は止まっていた。
このまま土に還るのなら、それが己の人生だと思った。
病は身を焦がした。
苦痛のあまり、塔から身を投げようと幾度思ったことか。
しかし実行をしようと床を這いずったところで、見張りの者に拘束され、薬で眠らされるだけだった。
痛みに蝕まれ、眠ることが出来なくなると、部屋には常に香が炊かれるようになった。
香は痛みを鈍らせたが、意識を混濁させ、シャファクは多くの夢を見た。
やけに鮮やかな花々のなかには、蝶に紛れて妖精が棲んでいた。
美しい湖面を覗けば、そこに映るものは己の姿の反射ではなく青白い肌の魚の尾を持つ女だった。
森へ踏み入ると、高く伸びゆく木々は風に合わせて歌っていた。
やがて大きな枝のひとふりに、シャファクは純白の翼を休めて宿る巨鳥を見た。




