14話 後日、フローリスの花園で
「俺は結局、メイリーンの昇魂に失敗したのでしょうか……」
穏やかな午後である。
あのヴィリスたちの舞踏会と、怪異の分解を終えた夜からすでに数日が経っている。
ヘロデーを引き取りたいというサンジェルマン氏の申し出を、神殿はあの後あっさりと承諾した。
これ以上神聖な神殿で騒ぎを起こされては堪らない、というのが表向きの言い分だったが、殺人の力を持つメイリーンの亡霊を失ったヘロデーを手元に置いていても何の利益も生み出さない、と言うのが彼らの本音であろう。
ヘロデーはその後サンジェルマン氏と養子縁組を交わし、ロナーはヘロデー付きのレディ・メイドとしてサンジェルマン氏に雇われる運びとなった。
今は他の使用人たちに囲まれて、サンジェルマン氏の屋敷で静かに暮らしている。
一方、ブレスはといえば、騒ぎを聞きつけた魔術師協会の一同が神殿へ赴き、そのまま協会の魔術師たちに引き取られていったようだ。
疲労困憊で意識のない彼はしばらく協会の治癒室に保護、もとい強制入院させられていたが、先日意識を取り戻して日常生活に戻った。
カナンは、ブレスの身柄が彼の所属する協会の仲間に渡ったことを確認すると、そのまま平然と神殿の正門から出ていった。
そのしれっとした振る舞いを「神への冒涜」だの「礼儀知らず」だのと言及できる余力のあるものは誰一人として神殿には残ってはいなかったので、神官や巫女たちはただただ数々の野蛮な侵入者が安寧の聖域を立ち去ったことに胸を撫で下ろすばかりであった。
そして再会したふたりの魔術師はいま、憩いの店であるフローリスの花園「ボーメイン」で茶を飲みながら、あの夜の出来事を振り返っている。
「ヘロデーは気がおかしくなってしまったようだと協会で聞きました。自分をメイリーンだと思い込んでいると」
「君は失敗などしていない」
落ち込むブレスを前に、カナンはティーカップを優雅に傾ける。
「君も見たでしょう。メイリーンの魂が君の言葉によって光の鳥となり、天へ昇ってゆくあの光景を」
「そうですけど。でも、だったらなぜ? なぜヘロデーはあんなふうに」
「それは、ある種の防衛機能が働いたためです。彼女は妹に去られてひとりきりになる事実を、受け入れられなかった。
それこそ彼女自身の自我が脅かされるほど、ヘロデーはそれを恐れたのです。
だから、彼女の脳は咄嗟に己の中に妹の疑似人格を作り出した。
いまヘロデーの中にいるメイリーンは、ヘロデーの人格を守るために生じた新しいメイリーンであり、それはヘロデーの魂の一部なのですよ」
「ええ? うう……」
「人の心は時に不思議な状態を作り出す、ということですわ」
お茶請けを運んできたフローリスが、テーブルに皿を並べながら言う。
蔦の絵に縁取られた白い器の上には、蜂蜜に漬けられた桃が金色に輝いていて、なんとも美味そうだ。
これを甘みのない、清涼感のあるハーブティーと共に提供するのは、特別な客へのとっておきのおもてなしである。
カナンはその桃にすんなりとナイフを入れながら、
「わかりやすく言うのなら、ヘロデー嬢は多重人格の状態にあるということです。一種の反応の定着……病と言ってよいでしょう。亡霊や呪いとは無関係のね」
と言い、そのまま流れるような滑らかな動作でフォークを口に運んで、顔を綻ばせた。
「すばらしい出来栄えですね、フローリス」
「うふふ、カナンさまの喜ぶお顔が見たかったのよ」
「人が悩んでるっていうのにいちゃつかないでください!」
ブレスは憤然とテーブルを叩いた。
「大体ねぇ、フローリス様にはもう夫がいるってこの前も言ったでしょう! 人目がないのをいいことに、これ以上そういうやり取りを俺の前で繰り広げるって言うなら俺にだって考えがある。うちの協会の冷徹無慈悲な人でなしの協会長にカナンさんのことを言いつけますよ!」
カナンとフローリスはにこにこと微笑んでいる。
「……あの……?」
不自然な沈黙に不安に駆られ、ブレスは怪訝に首を傾ける。
ふと嫌な予感がした。
背筋に悪寒がはしる。
「だ・れ・が、冷徹無慈悲の人でなしだ?」
凄まじい凶悪さをはらんだ低い声が、背後に立った。
不意に毒々しい気配が立ちのぼり、ブレスは恐怖に凍りつく。
白魚のごとき五指が深々と肩に食い込み、身じろぎも出来ない。
「……ひぇ」
一気に血の気が引いた。
刻々とめり込み続ける指が肩を抉る痛みよりも恐れが勝り、ブレスは痛みも感じなければ振り返ることも出来なかった。
動いたら死ぬ。
蛇に睨まれた蛙が如く硬直するブレスの背後には、ひとりの男が立っていた。
そして男は、片眼鏡の奥でにこにこと微笑みつつ、全身から殺気を放ちながらこう言った。
「お初にお目にかかりますカナンとやら。私は森に棲まう精霊を祀る魔術師協会の協会長をしております、シルヴェストリ。
人と風の精霊の混血ハーフシルフにして貴方に微笑みかけているその女性の夫ですが、貴様、私の妻になにか余計なことをしなかったでしょうねぇ?」
その男は一目見て判別できるほど、人ではないものの血が混じっていた。
すらりと背が高く、艶々と腰まで伸びた髪は淡い若菜色で、日光を透かしたように微かに光を放っている。
滑らかな肌に覆われた整った目鼻立ちはやや吊り目でふさふさとしたまつ毛に囲まれ、その片眼鏡の奥の目は真紅。
もう片側の目は盲ているのか瞳は白く濁っているのが玉に瑕、と言えようか。
それでもなおその男は美麗だった。
ブレスと同じ緑のローブを身に纏い、首から魔術師の証を下げているが、左胸には銀製の勲章がいくつも輝いていた。
それは軍に属し、王に従事していた過去があることを示している。
「……ハーフシルフ。これは珍しい。人間もさまざまな人種の血が混じるほど容姿が整う、と聞いたことがありますが、人と精霊が交じり合うとこうなるのか。しかし……」
カナンは男、シルヴェストリの目をじっと観察した。
片目は失明しており、片眼鏡の目もかなり視力が落ちているようだ。
「あなたの肉体は、その身に流れる精霊の魔力に害を受けているのではありませんか?」
「なんだと?」
「あなた。落ち着いてくださいな」
カナンを睨む赤眼がさらに鋭く細められる。
その警戒心も露わな夫に、フローリスはそっと寄り添った。
「カナン様はあなたが疑うようなかたではないわ。私を信じて」
そうして立ち並ぶと、フローリスの全身から発せらる生命力が、シルヴェストリの肉体の摩耗を癒しているのがわかる。
妻から夫へ移りゆくエネルギーの流動が、カナンの目にははっきりと映るのである。
彼女が彼を、かろうじて生かしているのだ。
「ブレス魔術師、私はこの者と話がある。席を外していろ」
ブレスが文句を言うはずもない。
シルヴェストリは職員を追い払うと、瞬時に周囲を遮断の結界で覆い、テーブルに片手を突いてカナンを厳しい赤眼で見下ろした。
「貴様はいったい何だ? 人でも精霊でも妖精でも魔人でもない、得体の知れぬ強き者よ」
「僕は魔術師ですよ。今は旅人にすぎませんし、例え多少強くとも敵意があるわけではないのだから、それで納得して頂けませんか。そんなことよりも」
カナンは動じず、真正面からシルヴェストリを見つめ返しながら、状態を見定めるかのように微かに眼を細めた。
「僕にはあなたの方が、よほど問題を抱えているように見える」
エメラルドの双眸が一瞬、きらりと光を増す。
「今のままでは半年もたずに視力を失ってしまうだろう。そのあとは内臓が少しずつ機能を失い、壊れて、やがて肉体は死ぬ。
しかしあなたは精霊との混血だ。肉体は死ぬが、同時に不完全な精霊の魔力がこの世に解き放たれることになる。次の怪異は、あなたかもしれませんね」
シルヴェストリは一瞬、気圧されたような面食らったような顔をした。
彼からすれば無理からぬことだった。
大抵の人間は、シルヴェストリの居丈高な物言いとその外見、特に魔物を思わせる鋭い赤眼に萎縮してしまう。
こうもはっきりとものを言い、そのうえ正確に彼の状態を診察した者など、現在の妻であるフローリスくらいだ。
シルヴェストリは不覚にも、在りし日のフローリスとの出会いを思い出してしまったのである。
そばに居ると早死をするから寄るなと追い払っても、これっぽっちも物怖じせずに「私は毅いのよ」と強情に言い張って、輝くように笑ったフローリスを。
「そうだな」
シルヴェストリはカナンの目を見つめながら、ゆっくりと首肯し、カナンの見解を肯定した。
「そんなことは私とて解っている。だが初見でそれを言い当てたのは貴様がはじめてだ。カナンとやら、私は貴様を認める」
「それはどうも、ありがとうございます」
相も変わらず静かに微笑むカナンと夫を見比べたフローリスは「もう、仕方のない人だこと」と呟いて、くすりと笑った。
そして、再びシルヴェストリに呼び戻されたブレスは、彼曰く冷酷無慈悲な協会長シルヴェストリと、得体の知れない自称旅人兼魔術師のカナンに挟まれる格好で席につき、分不相応な相席にひとり冷や汗をかいていた。
「あのー……お、俺ごとき弱小魔術師なんかこの場に居てもお邪魔なだけでは……」
と恐る恐る意見を述べてはみたものの、
「居ろ」
と一喝されて今に至る。
シルヴェストリはその片方だけ鮮やかに赤い鋭い目でじっとカナンを凝視し、カナンはそれをそよ風のように受け流しているが、挟まれたブレスはたまったものではない。
フローリスはといえば、彼女の夫に薬茶をいれるために席を外していた。
要するに唯一の安らぎである彼女が不在ということである。
これは厳しい。
(ここはこんなに綺麗なのに)
ブレスはたそがれ、現実逃避をして頭上を仰いだ。
白いガゼボの柱に咲き乱れる花々も、この空気に耐えかねて花を閉ざしてしまいかねない──と、詮無いことを考えていると。
「貴方は僕を捕らえに来たのですか?」
カナンが突然、そんなことを言った。




