13話 ヘロデーの見えざる目
ヘロデーはあてがわれた神殿の一室で、寝台の上、大きな羽枕にもたれかかりながらぼんやりと窓の外を見つめていた。
墓地での出来事で蒼白だった頬にもいくらか血色が戻っていて、桃色の薔薇のつぼみのような唇からは微かな歌が聞こえている。
その傍らにはロナーがいた。
彼女は無言のまま、私を滅して使用人としての責務をこなしているように見えた。
「おお、ヘロデー……」
サンジェルマン氏は姪を見つけると、そう呻いて言葉を失った。
なんと声をかければ良いのか、わからなかったのだ。
一方カナンは迷いのない足取りでヘロデーの寝台へ歩いてゆく。
「やあ、ロナー嬢」
「魔術師さま……」
ロナーはカナンを見上げ、困惑を隠しきれぬ様子でヘロデーの手を握る。
「何も話して下さらないのです。いえ、話はするのですけど、わたしの声に答えてくれなくて……ずっとひとりで話しているのです、お嬢様自身と」
「そう。そうなってしまったのだね」
まるで予期していたかのような物言いだった。
カナンはロナーにことわってヘロデーの横につき、彼女の額にそっと手のひらを当てた。
(あ)
それを見たロナーは、ふと懐かしい思いにかられた。
カナンと初めて出会ったあの夜の路地で、ロナーもそうやってカナンに触れてもらい、声を取り戻したのだ。
「魔術師殿!」
未婚の娘に男が触れるなど、と思わず一歩踏み出したサンジェルマン氏を、ロナーは無言で止めた。
出しゃばりだと叱られても構わないと思った。
ロナーにとっては古い決まり事を守ることよりも、ヘロデーの状態を知ることのほうがよほど大事だった。
サンジェルマン氏は眉を顰めたが、結局ほかに何を言うでもなくさせるに任せた。
「どちらでもいい。ヘロデーでもメイリーンでもいいから、出ておいで。見てごらん、君たちには肉体があるし、この部屋には君たち以外にもたくさんのひとがいる」
ヘロデーはゆっくりと顔を上げ、カナンを見た。
それまで焦点のあっていなかった彼女の目が、まるで初めてカナンを見たかのように微かに見開かれる。
「あら……とっても美しいかた。いやだわ、わたしったらこんな格好で、恥ずかしい」
ヘロデーらしからぬおっとりとした話し方だった。
「はじめまして。僕はカナンという通り名で旅をしている魔術師です」
「わたくしはロバート・サンジェルマンの息女、メイリーン・サンジェルマンです。どうぞ、仲良くしてくださいね」
「えっ?」
今度はロナーが声を上げた。
サンジェルマン氏に至っては困惑して言葉もない。
ヘロデーの体でメイリーンと名乗った娘は、微笑みをたやさずにカナンを見つめている。
「わたくしには姉もいるのですけれど……ああ、ちょうどいいですわ、姉とかわります。あなたとお話しがしたいのですって」
かくん、と娘の首が垂れ、沈黙が落ちた。
そして再び娘が顔を上げた時、彼女の表情はたしかにヘロデーの顔をしていた。
「お前たちは失敗したわ。失敗したのよ。メイリーンはまだ、わたくしと一緒」
ヘロデーは嘲るように笑い、己で己をきつく抱きしめた。
息を飲むロナーとサンジェルマン氏をよそに、カナンは冷静に娘を見つめ返している。
「やあ、ヘロデー嬢。先程、君の中のメイリーンにも挨拶をしたよ」
「そうでしょう? わたくしにはまだメイリーンがついているの。独りじゃないわ。まだ力がある。人だって殺せる。まだわたくしには価値がある」
言い放つヘロデーのその目は狂気じみていた。
寝台のうえで己を抱き、凶悪な、しかし追い詰められた笑みを浮かべて、ヘロデーは奥歯を噛み締めている。
「それはどうかな」
カナンの言葉は、その場にはあまりにも不釣り合いに穏やかだった。
「なんですって」
「はたして今の君に、君の言う価値があるかな。試してみたのですか。いま、僕を殺してみてもいい。出来るのならば」
「……だぁーめ。だめよ、ヘロデー」
ヘロデーは不意にくすくすと少女めいて笑い出した。
とたんに鋭い視線が甘く柔らぐ。
彼女は微かにため息を吐き出し、そっと頬に手を当てた。
「はあ……ごめんなさいね、魔術師さま。姉は、みんなが嫌いなの。あなただけじゃないのよ。好きな殿方に裏切られて……それについてはわたくしも、このロナーも同じなのですけれど。
裏切られて、でも彼を嫌いになれなかったから……それがまるで世界に、運命に彼を取り上げられたように感じたの。
だからこの世界を憎んで、人々の幸福を憎んで……わたくしを使って人殺しを始めてしまった。憂さ晴らしだったのよ。
依頼者は大金をくださったし……わたくしは人の目には映らないから、とても便利な姉の目だったわ。
魔術の遠視のように、見たものをなんでも姉に伝えて、姉が殺したいと思えばそのまま命を奪ってきた。
でももうそんなことできないわ。わたくしはしない。約束するわ、魔術師さま。
わたくしが世界の雨せる苦痛から、ヘロデーを守るの……そうすれば姉は、安らかに過ごせるもの……」
夢を見るようにうっとりとつぶやく娘は、再び自分自身を抱きしめた。
そこに先程のしがみつくような強さはなく、慈愛と憐れみがあるだけの優しい抱擁だった。
(まるで恋人でも抱いているかのように、己で己を抱くひとりの娘、か)
カナンはひっそりと立ち上がり、ロナーを見、サンジェルマン氏を見た。
ロナーはお嬢様が壊れてしまったのだと思って目に哀れみの涙を浮かべている。
一方、サンジェルマン氏の表情には、理解と覚悟の色が浮かんでいた。
「サンジェルマン卿。出来れば今後、姪御さんの側にいてあげてください。それから、できればロナー嬢を彼女の侍女に。
たえず彼女を見守って日々を共に過ごすことです。時間はかかるでしょうが、ヘロデーの傷が癒えた時、彼女の身体は再び彼女だけのものとなるでしょう」
カナンは氏にそう告げて、ヘロデーの寝台に歩み寄る彼を背に、静かにその部屋を後にした。




