確かにそれは婚約破棄だけれど。
セレス : 公爵家令嬢。王太子ミハイルの婚約者。
ミハイル : 王太子。公爵家令嬢セレスの婚約者。
ユリア : 元平民の男爵家令嬢。
「セレス、きみとの婚約を破棄させてもらう」
貴族の子息、令嬢や王族の通う学園で定期的に催されるパーティーも終わりに近づいた頃、公爵家令嬢のわたくしセレスの婚約者であり、王太子殿下であらせられるミハイル様からパーティーに参加する皆に宣言があると言われ、口にされた言葉がそれでした。
その傍らには、養子として男爵家に迎えられた元平民のユリア様が、さも当然というような表情で寄り添っています。
「なるほど。殿下のご命令とあらば」
これは、半ば予測できていたこと。なれば、淑女として無様を晒すことはするまいと、臣下としての礼をします。
「我が父である陛下ときみの父君との連名の誓約証がこれだ。これにより、双方の親が決めた婚約は正式に破棄された」
「承りました」
目の前に書状を広げられますが、一瞬だけ目を通し、そのときに見えた情報だけで十分理解に及びました。
国王陛下と父である公爵の印璽が捺された書状です。この国において、指折りの強制力を持つ書状でした。
そんなものを持ち出されては、わたくしは従う他なく。
せめてもの抵抗として、目を閉じて視界から嫌なものを消すことくらいしかできませんでした。
「手回しの良いことでございますね」
このくらいの皮肉は、許してくださいませ。
わたくしは、後に国王陛下となるミハイル殿下を生涯支えるために努力を重ねて参りました。
あなた様の隣に並び立つにふさわしいのはわたくしという自負もあります。
そんな、わたくしの誇りと存在意義を粉々に打ち砕いてしまったのです。
この程度の反目、かわいいものと鷹揚に流してくださいませ。
「そうだろうそうだろう。私の父はあっさりとしたものだったが、きみの父君は難物だったぞ」
楽しげに弾むような声に、俯いていた顔を上げれば、齢18の成人一歩手前の精悍な顔立ちが幼く見える、あどけない満面の笑み。
それほどまでに、わたくしとの婚約を破棄したことが嬉しいのでしょうか。
「そもそも、私は、この婚約には不満があったのだ」
周囲を見回して、続ける殿下。
「そんな時、こちらのユリア嬢が良い案を出してくれてな。元平民といえど、本質を捉えた良案は採用しない手はない」
「おそれ多いことですわ、殿下」
熱のこもった演説に、ユリア様は頬を染めます。それは、まるで……。
「その後も、一度ならず何度も相談に乗ってくれてな。その度に、王族や貴族には無い視点からの意見をくれた」
「お役に立てて光栄ですわ」
頬に手を添えるユリア様の肩にかかる長さの髪を、わちゃわちゃとかき回す殿下。
ああ、いけません殿下。淑女の髪を、そんな、犬を愛でるかのように乱雑に……。
……なのに、ユリア様は、嬉しそう? 楽しそう? で……?
……もしかしたら、市井では、そのように髪を雑に扱うことは信愛の証になるのでしょうか? だとしたなら、確かに王族や貴族にはない視点でございます。
わきゃーっ。と楽しげに声を上げるユリア様と、犬猫を愛でているような恍惚とした表情の殿下という奇妙な光景を、しばし呆然と眺めていましたが、どなたかの咳払いでわたくしも殿下たちも正気に戻ります。
「話を戻そう」
改めて咳払いしてみても、時は戻りませんわ殿下。
「こちらのユリア嬢と協議を重ねた結果、セレス、きみとの婚約を破棄することにして、しばしの間駆けずり回っていたのだ」
先程と一転して、誇らしげな表情で胸を張る殿下は、改めて惚れ直してしまいそうです。けれど、それももう叶わないのでしょうね。
「そもそも私は、きみとの婚約の内容に不満があったのだよ。見たまえ、こちらの書状が、婚約の内容の記された誓約証だ」
それによると、わたくしセレスとミハイル殿下は、20歳の誕生日に行われる戴冠式で結婚を発表し、パレードを行って国内外に大々的にアピールするとあります。
王太子殿下の20歳の誕生日と、
王位を継承する戴冠式と、
結婚を発表し披露する宴と、
国威を示すパレードと、
他の諸々も合わせて盛大な式典が執り行われることでしょう。
周辺国の代表なども招き、それはそれは絢爛で荘厳で立派な式典になることでしょう。
それに、不満が?
「セレス、私はね、…………あと2年も、きみと愛し合うことができないのが、堪らなく辛いっ!」
…………………………はい?
「セレス、私は、歳を重ねる度に、きみと一定の距離を保たなければならないのが、とても辛いっ!」
…………………………はい?
「幼い頃のように、きみのそばでなんの遠慮もなくきみに触れてきみと抱き合っていちゃいちゃチュッチュしたいのだっ!」
…………………………はぁ?
「よって、私ミハイルは、王太子としてではなく、ただのミハイルとして、一人の男として、一人の女性のただのセレスに、今ここに、結婚を申し込む! 婚約ではなく!」
…………………………ええっ?
「セレス、今ここで返事を。私からのプロポーズ、受けてもらえないだろうか?」
…………………………えぇ…………。
「お気持ちは嬉しいですわ、殿下。わたくし、幼少の頃あなた様と初めてお会いしたその時から、殿下を……いいえ。一人の女として、ただのミハイル様をお慕いして参りましたもの」
「では、セレス。受けてくれるのだね。このプロポーズを」
「それとこれとは違います」
満面の笑みに、ピシャリと叩きつけてあげます。
「殿下、王太子の成婚ともなれば、周辺国へ黙ってことを進めることはできませんわ。周辺国へ連絡の方は?」
「だ、打診はしている」
「相応の贈り物をするのが通例ではありますが、晴れの日に相応しいものを突然用意することになる周辺国の皆々様は、それはそれは大変でしょうね」
外交を担当する父が難色を示すのは当然ですわね。
「披露宴などはどうなさるおつもりですか? 国民への宣言は?」
「国民には教会を通じて宣言してもらえばよいだろう。披露宴は、身内だけの静かなものでよいと、以前にセレスが言っていたから……」
尻すぼみになる殿下の言葉に、頭を抱えたくなります。
教会から人を寄越してもらい、あとは家族だけで、静かに、気楽に。そんな結婚は叶わないでしょうねと呟いたことを覚えていてもらえていたのは嬉しいですわ。
ですけどね、殿下?
「他にも、問題はたくさんありますが……。改めて聞きます。なぜこんなことを?」
しょんぼりした殿下も可愛らしいと思うわたくしは、もうどこかおかしいのかもしれませんわね。
「…………それはだから、セレスと早く結婚したかったからだよ。言っただろう? セレスといちゃいちゃチュッチュしたいって」
「だからといって、殿下? 事には順序というものがあるでしょう?」
「………………セレスは、セレスは、私といちゃいちゃチュッチュしたくはないのか?」
「したいに決まっているでしょうっ! ずっとお慕いしておりました! あなた様のためにこのセレスの人生捧げます! 病める時も健やかなる時も、二人で手を携え、ともに、この国の平和と発展のために尽くしてまいりましょう! 子どもは二人は欲しいです!」
淑女らしからぬ大声を張り上げると、周囲からは拍手喝采、祝福の言葉が飛び交います。
これもまた、殿下の書いた筋書き通りなのかもしれません。
「きみの髪の色に合わせた金のリングと、瞳の色に合わせたルビーで作った指輪だ。今日この日のために無茶を押し通したんだ。気に入ってくれると嬉しい」
殿下は、ミハイルさまは、わたくしの手を取り指輪をはめて、
「セレス、きみのことを生涯守り幸せにすると誓おう。私と結婚してくれ」
満面の笑顔で、なによりも欲しかった言葉をかけてくれます。
想いが通じ合ったのです。嬉しくない者などいるはずがないでしょう。
「はい。喜んで」
それ以外の言葉があるのなら、教えてほしいですわ。
……それは、そうとして。
わたくしの意向は一切無視ですのね?
殿下、ちょっと、おはなしいたしましょう?
どうか安心なさって? 痛いこととか一切いたしませんから。
ですから、そんな怖がる必要なんてないのですからね?
この後めちゃくちゃ説教した。