45:答えは最初から決まっているよね
明日ボクたちが東京に行くという予定があるけど、今日特に予定がない。しかもまた雨が降っているしね。昨日は出掛けてこの町や金沢を案内してもらったから、今日はゆっくりと家の中で家事とかを学習することになった。まだまだチオリからいろんなここでの生活について教えてもらわないといけないのだからね。
「チオリ、何をしているの?」
今チオリは『パソコン』という機械を弄っている。画面の中には何かの動画が見える。
「今あたしは線上遊戯をやってる。この3ヶ月ずっとゲームやれなかったから久しぶりだね。嗚呼懐かしいよ。レベルは他の人に追い付かれちゃって悔しい」
「根棘? 何? 猫蜥蜴の略?」
「いや、猫も蜥蜴も全然関係ないよ。今あたしがやっているこれは『ネットゲーム』、略して『ネトゲ』と言うんだ。パソコンでやるゲームの一種……ううん、パソコンだけではなく、スマホでやれるネトゲもあるね」
「スマホでも?」
「まあ、あたしはパソコンゲームの方が好きかな。スマホの画面は小さすぎるから。でも外にいる時はスマホゲームの方が便利だな」
「画面の中には本当の人間なの?」
このパソコンの画面の中に人間のような姿が映っている。だけど、詳しく見たらなんか微妙にどこか違和感がある。どこが違うか上手く説明できないけど、とにかく本当の人間とはちょっと違う。
「いや、これは現実と酷似させる3Dモデル。見ての通り、現実とはちょっと違うよね」
「そうだよね」
「これはあたしが使っているキャラ」
画面の真ん中で走っている少年はチオリによって制御されているようだ。
「これ、男だよね?」
「うん、ゲームの中ではあたしが男だ」
「どうしてゲームではチオリが男キャラやっているの?」
やっぱりチオリって本当は男なりたい?
「このゲームは男キャラと女キャラどっちでも選べるよ。リアルとは違う性別を選んでも問題ないし。男キャラを選ぶ理由は、そうだね……、多分特に理由がないかもしれないけど、ただ自分とは違う何かになってみたいからかもな」
「自分とは違う何か?」
「このようなゲームはRPG……ロールプレイングゲームと呼ぶんだ。プレイヤーはこのゲームの中の誰か一人だと仮定して遊んでいく。このゲームはどのようなキャラも設定できるし。性別や身長や体型も自由。だから自分とは違うキャラをやってみた」
「だから男キャラを?」
「うん。性別を変えるなんて、現実ではあり得ないことだからね……。いや、あり得ないはずだと思っていたけど……」
ここまで言ったらパソコンを弄っているチオリの手が止まって、ボクの方に視線を向けた。今彼女は何を言いたいか大体見当がつく。
「ボクの場合、その……あれはあっちでも非常識だよ。お師匠様の魔法がすごいから」
ボクに性転換の魔法をかけたのは上級な賢者であるお師匠様だ。魔法のことは誰よりも優秀で、あんな非常識のことまでできたのだ。でも結局ボクが世界を渡ったことで、元に戻ってしまったね。
「確かにそうだよね。普通に考えたらこれはあり得ないはずのことだ。そもそも神様と会話できたり、異世界へ渡れたりするなんてことも、誰だって思いもしなかったよね。あれはあたしにとって本当に存外な経験だった」
確かに、そもそも魔法のことも神様のことも異世界のことも、この世界の人間にとって非常識だから。
「やっぱりチオリもできればあそこで男になってみたいと思っているの?」
「まあ、そうだね。よくわからないけど、そう考えた時もあるよ。男になったらいろいろ便利だよね」
「大変なこともいっぱいあるよ」
「何が大変なの?」
「それは……女の子には言えないよ」
「そう言われるともっと知りたいかもね。あ、まさかあれか? あそこに弱点があることとか?」
「うっ……」
そんなこと言われるとなんか怖じ気がついてきた。いきなりそんなこと言うなんてチオリも意地悪だな。
「そこまで嫌がりそうな顔をされるとはな。やっぱりイヨヒくんも痛い経験があるよね?」
「そ、そんな話はもういいから!」
「え……」
そんなことを女の子と軽々しく話すべき話題ではないと思うよ。
やっぱり女の子も男の子に好奇心を持っているよね。確かにボクも昔女の子だったから最初は男についてよくわからなくて、好奇心があって時々勝手に思い込んで、あれこれについて勘違いしていたこともあるね。実際に自分が男になっていろいろわかって、誤解も解けて、好奇心がなくなってきたけど。
「とにかくだ、男にもいろいろ困難だからね」
「そうか。なら、イヨヒくんは女に戻れてよかったと思うの?」
「え? いや、そういう意味ではないけど」
そもそも女の子に戻るつもりなんてなかった。これはボクの意思とは関係なく起きた流れだよ。
「ね、チオリは……、ボクがまだ男のままで女に戻らない方がいいとか思っているのかな?」
「え? そ、それは……」
なんか最初はチオリが女の子になったボクを見てすごくがっかりしたから、それってやっぱり実はチオリもボクが男のままの方がいいと思っているのでは? 昨日から気になっていた。
「そんなことは、あたしが決めることではないはずだけど」
「そう……だよね」
しばらく躊躇して考え込んだ挙げ句、結局チオリは答えにならない答えを選んだ。そんな答え方はなんか狡い気がする。結局答えたくないのかな?
「でも、そもそも決めるのもボクではないし。8年前に男になった時も、昨日いきなり女に戻った時も、全部不本意だよ」
「そうだよね。誰が決めたことかな? もしかして神様が勝手に?」
「さあね……」
「イヨヒくんは本当に大変だったね」
「でも、選べるのならやっぱり……女に戻りたくない……かもね」
女の子に戻っていいこともあるかもしれないけど、やっぱりできればまだ男でいたいよね。理由はもちろん、ボクはチオリのことが好きだから。
「そうか。実はあたしも、正直言ってね、やっぱり……その……男のイヨヒくんがいいと思っているよ」
「本当?」
チオリからそう聞いてボクはなんか嬉しいけど、同時に実際に自分が女に戻ったことでチオリをがっかりさせるというもどかしさも湧いてきた。
「あ、でももちろん、今のイヨヒくんも素敵だよ。やっぱりこっちの方がいいかも。 いや、でも確かにどっちのイヨヒくんも可愛いよね」
結局どっち? なんか『可愛い』という台詞はもう聞き飽きたよ。
「でももしあたしは、イヨヒくんが男のままで女に戻って欲しくない……、なんて思うのなら、多分一番の理由は……」
チオリはボクの顔を見つめて何か言おうとしたが、途中で口を噤んで目を逸らした。
「チオリ?」
「いや、何でもない」
今チオリの顔は少し赤くなってきた? ううん、きっと気の所為だよ。
「何? 気になる」
「とにかく、結局のところこんなことを決めるのはあたしたちではなく、神様だよね。あたしがいきなりあっちへ召喚されたことも」
一番の理由って何なの? チオリはきっと何か考えているけど、上手く言い出せないみたいだね。少し気になっているけど、本人が言いたくないことならボクももう訊かない。
「そうだよね。神様の勝手だよね」
「まあ、あたしが自分で選べることは『ここに戻るかどうか』くらいかな」
「あ、確かにそうだね。でも、チオリはこっちの世界に戻ることを最初から決めたと言ったよね?」
一昨日みんなと話していた時に確かにチオリはそう言った。ううん、あっちにいた時から彼女がずっとはっきりとそう言っていた。
「うん、その通りだね。確かに自分とは違う何かになって違う世界で冒険することが楽しかった。でも、ずっと死ぬまでそのままなら嫌だと思う」
「そうなの?」
「だって、あたしの本当の世界はここだから。しかも家族もここにいるから。時々あっちの出来事はただの夢なんじゃないか……、とか思ってしまうよ」
「そうだよね。チオリにとってこの世界の方が大事だから……。あっちの世界はただ……」
やっぱり『何があっても元の世界に戻る』、それはチオリにとって当たり前で合理的なことで躊躇う必要がないものだよね。
もしボクとこの世界どちら一つしか選べないのなら、チオリは逡巡することなくこの世界を選ぶのだろうね。ボクが付いてこなくてもチオリは最初から一人でここに帰ってくるつもりだ。それって『ボクよりこの世界を選んだ』っていうことだよね。
それは当然だよね。チオリにとってボクやあの世界のことなんかただ夢みたいなものにすぎないよね。
「え? どうして泣いてるの? イヨヒくん」
「あれ? ボクなんで……」
チオリに言われて気付いた。いつの間にか、ボクの目から涙が零れ落ちている。
「あたしがもしかして余計なこと言った所為か? ごめんね。本当にごめん。さっき言ったのは、別にイヨヒくんが要らないとかそんな意味ではないよ。イヨヒくんの存在を否定しているわけじゃない。もちろん、出会えて本当によかったと思ってるよ。大切な友達だよ。イヨヒくんがここまで付いてきたこともすごく嬉しいよ」
チオリはボクの様子を見て必死に宥ようとしている。
「うん、わかっているよ。ありがとうね。チオリ」
と言っても涙はまだ止まらない。多分ボクが泣いているのはそんな理由だけではない……と思う。自分でもよくわからない。なんでまだ泣き続けるのだろう。
「ね、チオリ……ボク、本当にずっとここにいていいのか?」
「なんでそんなこと訊くの? あたしも家族のみんなもイヨヒくん大歓迎だよ」
「うん、本当にありがとう」
でも、ボクはまだ泣いている。
「でもね、あの神様はこのまま放っておくのかな?」
「イヨヒくんがここに付いてきたことは神官長に相談して許可をもらったことだよ」
「でも、最初とは違って直接神様と話したわけではないよね」
本当にボクなんかはずっとここにいることが許されるのか……そんなこと考えたら……。
「まあね。まさかそんなこと不安に思ってるの?」
「うん、多分そうだよね。今のボクは本気でずっとここに暮らし続けていきたいのだから。いつまでも一緒にいたい。絶対に帰りたくない。たとえ本来のボクがあそこの世界の人間だとしても」
そうだ。わかった。ボクがまだ泣いている理由……、それはボクがチオリと違って、自分の世界で満足していたわけではなかったから。だから過去を捨ててまでここに来たいと思うようになった。
だから自慢げに自分の世界や自分の願望を語っているチオリを見て羨ましくて、眩しいように見える。なんで自分がこの世界の人ではないのだろうな、と悔しく思ってしまって。
そして何より、ボクがいつか帰らなければならないかもしれないということとか、もうここにいられなくなったらどうしようとか、そんなことで不安に思っている。
「そうか。そうだよね」
今は涙でボクの視界は曇っていてよく見えないけど、ひょっとして今ボクはチオリに抱かれている? なんか温もりを感じているから。
ううん、どうやら違うみたい。今温かくなったのは肩だけ。チオリはただ両手でボクの肩を掴んでいるだけ。それでも温かく感じる。
やっぱりそう簡単に抱いてくれないよね。それでも彼女の両手からの温もりだけでも、ボクが落ち着いたみたい。
「ならずっと一緒にここにいてよ。大丈夫だよ。あたしもイヨヒくんにずっとここにいて欲しいから」
「チオリ……」
「もし神様がイヨヒくんをこの世界から引き出そうとしたら……、あたしは必ず何とか方法を探してもう一度あの神様と話して説得してみるよ」
「本当に?」
「もちろんだよ」
「ありがとう。本当にありがとう。チオリ」
もしも本当にあの神様はボクを元の世界に戻そうとしたら、多分本当はどうしようもないと思う。そしてボクの思い描いたここでの生活は単なる絵空事になるだろう。
チオリだって神様相手に説得するなんてできないかもしれない。だけど、チオリがこのように言ってくれてボクは本当に嬉しい。
だから、ボクは決めた。ずっと死ぬまでここにいられることを前提として、暮らしていく。
たとえ帰る日が訪れたとしても、今ここに来たことを後悔しないように。




