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僕の幸せな結末まで  作者: 汪海妹
8/9

あなたにできて僕にできないこと

 













   清一













 五日に僕が東京へ戻ると聞くと、なつも一緒に帰ると言い出した。


「おじさん寂しがるんじゃないの?もうちょっとそばにいてあげればいいのに」

「いいの。今はわたしお父さんよりせいちゃんのほうが大切だから」

「……」


素直に喜んでいいのかどうか、悩む。いつか自分も家庭を持って、父親になったとき娘にこんなふうに捨てられるのだろうか。


駅までまたなつの家の車に乗せてもらうことになった。荷物をまとめて下に降りると、母さんがリビングの観葉植物に水をあげてた。時間をもてあました僕はインスタントのコーヒーを淹れてテーブルに座った。光の中でのんびりと動く母を見る。


「母さんも、新しい人見つけたら?」


彼女はちらりとこちらを見た。


「馬鹿なこと言うんじゃないわよ」


歯牙にもかけない。しばらくたつとふと付け足す。


「男なんかいらないけど、犬でも飼おうかしら」

「大きいの?」

「そうねぇ」


母はのんびりと話した。


「お金や手間がかかるっていうけど、大きい犬がいいかしらねぇ」


僕は時計を見た。コーヒーを飲み終わってテーブルを立つ。ふと、そのテーブルを撫でた。


「ずいぶん使ってるよね。これ」


このテーブルは母が今の店で働き始めたまだバイトだったころに買った物だった。


「そうねぇ。そのテーブルを気に入ってなかったら、今の仕事はしてなかったわね」


あれは、僕がまだ中学生の頃だったと思う。母が急にアルバイトをしたいといった。父はしぶった。


「清一がひとりになるだろう?」


しぶる父に構わないといったのは僕だった。母が自分から何かをしたいということがとても珍しかったから、それは母にとっていいことだと思ったんだ、あの時。

僕はテーブルを撫でた。


「このテーブルは新しい家にも持って行ってほしいな」


母はそうね、と言った。


***


残念ながら今日は雪がちらついていた。雪が降ると世界はすぐに憂鬱な色合いに代わる。なつはちょっと不機嫌だった。新幹線にのって車内販売でお菓子を買って機嫌を直そうとしたけれど、あまり効果はなかった。(お菓子は食べた)しょうがないので、ほっておこうと読みかけの小説を読んだ。


「お母さんと仲直りしたの?」


唐突になつが話し出した。


「はい?」


けんかなんかしてたっけ?母さんと。


「もう仙台には帰らないって言ってたから、けんかしたんじゃないの?」

「ああ……」


新幹線は南へ向かってぐんぐんと進んでいて、だんだん雪が少なくなる。


「家を売って、新しいところに住むことになるって言ってたけど、これからも時々は帰ると思う。そう約束したから」


なつはちょっと怒った顔でそれを聞いた。


「そう、よかった」


ちっともよくないような声でそういうと、窓の外に顔を向けて黙ってしまった。


自分が心配させていたことに、このときまで気が付いていなかった。僕にとっても、母と会わなくなるということはつらいことだけれど、普通に育ったなつにとってのそれは、隕石が地球にぶつかるような出来事だったに違いない。きっとなつみたいな子にはわからない。あの薬を大量に飲んで倒れている母を発見した日から、僕は常に心の一部分で『母と会えなくなるかもしれない』という覚悟みたいなものを積みながら生きてきた。そういう人間にとっては、それは、隕石がぶつかるようなそんな派手な出来事ではない。もっと静かで、もっと深いものなんだ。


そして、僕はそういう僕の心を、なつみたいな子に説明できる気がしない。


***


新幹線は東京についた。僕たちは電車を乗り換えて、家へと向かう。新宿についたときなつはついてこなかった。今日は自分の家へ帰ると言って。僕はがっかりした。わざわざ日を合わせて一緒に帰ってきたから、今日は当然久しぶりに二人きりで過ごせると思ってた。何も言わなくても彼女もそういう気持ちだと思ってたのに。一旦電車に乗って、一人で家へと向かったが、彼女の不機嫌な顔が心に浮かんできて、それで、電車を降りた。もう一度新宿まで戻って、彼女の家に向かう。


家に彼女はいなかった。僕は合鍵で中に入ると、電話をかけた。


「帰ったんじゃなかったの?」

「うん……。帰ろうと思ったけど」

「すぐ帰るから待ってて」


しばらくしてなつは帰郷の荷物とコンビニの袋を抱えて現れた。


「何買ったの?」

「……おかし、とか」


おかしとかシュークリームとかいろいろ入ってた。


「誰か来ることになってるの?」

「いいや」


それ全部一人で食べるつもりなの、と聞かないだけの分別は持っていた。


「嫌なことがあるとやけ食いするものなのよ。女子は」


なつは開き直った。


「俺、邪魔だった?」

「……邪魔じゃないよ」

「なんか今日怒ってたみたいだったから」


僕は彼女のすぐ隣に座りなおした。


「よくわからない。自分でも」


彼女はそういうと僕から離れて、ベッドにうつぶせに転がった。


「せいちゃんのお父さんとお母さんが離婚したって聞いて、わたしずっと心配してた」


彼女はここでいったん休んだ。


「それが急にもう仙台には帰らないかもなんて言い出して、どうしたんだろう。何があったの?大丈夫?とか思って」

「うん」


だんだん日が暮れてきた。ひざしがゆっくりとオレンジ色に変わっていく。刻一刻変わっていく光の色を見ながら、つっぷしたまましぶしぶ出してくるなつの次のことばを待った。


「だけど、いつの間にか大丈夫になってて。きっと本当は何かいろいろあったんだろうけど、せいちゃんはそれを一人で解決したんだよね」

「はい」


また、黙ってしまった。


「こんなこと考えるのは結局自分勝手なのかもしれないけど、もう少し頼ってほしいというか、信頼してほしいというか」


彼女の髪の色も今はオレンジ色に輝いていた。その柔らかい髪を撫でたかった。


「もっといろいろ話してほしい」

「うん……」


髪の毛の先っぽのほうにそっと触れた。


「わたし、なんか欲張りになっちゃったみたい。初めはただつきあえただけで嬉しくて、一緒にいられて満足で、だったはずなのに……。今はそれだけじゃやなの。体だけじゃなくて心もほしいよ」


思わず吹き出してしまった。


「何、ここ笑うとこ?」


彼女が怒って身を起こす。


「ごめん。でも、体がほしいって言い方はなつには似合わなくって、つい」


もお、と彼女は言ってもう一度枕に顔をうずめてしまった。


「自分でも言ってること滅茶苦茶だってわかってるもん」

「ごめん。笑って悪かったよ」


彼女の頭を撫でた。あの夜母がしたみたいに。シャンプーの香りがした。


「前、なつのどこが好きなのって聞かれたとき、すぐに答えられなかったけど、自分の気持ちをまっすぐ人に言えるところはすごい好きだし、すごいなって思ってるよ」

「本当?」

「うん。本当。だけど、すごいし好きだと思うのは、自分がうまくそれをできないからだ」


なつは顔をむくりとあげた。


「そうなの?」

「俺のこと子供のころからよく知ってるだろ」

「……そうだね」

「なつにとっては好きなものを好きとか、嬉しいとか楽しいとか嫌だとか悲しいとか言うのは簡単だし普通のことだからわからないかもしれないけど、そういうのがすごく難しくてできない人もいるんだよ」


なつは野生の動物が警戒を解いておそるおそる近づくように、身をおこしてそっと僕の横によりそって座った。


「僕がいろいろな特に嫌なことや悲しいことを君に話さないのは、信頼してないからじゃなくて、できないんだ。うまく。ずっと一人で抱えて人に見せずに解決してきたんだ。恥ずかしくて見せられないよ」

「裸は見せたのに?」

「……そうだね」

「どんなつまらない話でも、ばかにしないで聞くよ?」

「……」

「だめ?」

「努力するけど、本当に苦手なんだ」


彼女は納得できない顔をする。腕にしがみつかれてそういう顔をされると、男は弱い。


「きっと長い時間をかければ不器用な僕も少しは器用になるかもしれない。だけど、君ほどに器用には結局なれないと思うけど、残念ながら」

「ふーん」

「僕の心を全部見てしまったら、つまらない男だなって分かるだけだよ」

「それは私が決めることだよ」

「つまらない男だってわかったらどうするの?」

「どうしようかな?」

「捨てないで」


僕がふざけると、彼女は笑った。久しぶりに彼女の笑顔を見た気がした。


「わたしレベルの女なんていくらでもいるよ」

「自己評価低いんだね」


僕は彼女をひきよせて抱きしめ、キスをした。


「こういうのは反則だよ」

「まだ、怒ってる?」


彼女が返事を言うまえに、もう一度唇をふさいだ。


「許したくなくても許さざるをえなくなっちゃうよ。これじゃ」

「じゃあ、許しちゃいなよ」


なつは僕の髪を指で梳きながら、僕の目をすぐ近くからまっすぐ覗いた。


「すごく心配したんだよ」

「うん」

「わたし、せいちゃんには傷ついてほしくないの。一人で悩んだり苦しんだりしているのを見ると、わたしも苦しいよ」

「うん」


僕はいつも一人だった。一人で全部決めて生きてると思ってた。だけど本当は自分が気付いていなかっただけで、僕にはちゃんと僕を心配してくれる人が周りにいたのかもしれない。自分の心にばかり集中していて、周りが見えていなかった。


「ありがとう」


僕は彼女の目を見つめた。


「許してあげる」


彼女はそう言った。それは素敵なひびきだった。小さなさざ波のような興奮を僕にもたらした。



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