みんな旅だった
清一
「わたし、最近昔のころのことよく思い出しているんだけど」
新幹線の中でなつが急に言った。
「昔?」
「うん。せいちゃんが隣に引っ越してきた頃のこと」
年の暮れ。僕はなつと二人で仙台に向かう新幹線の中にいた。
「挨拶に来た女の人がすらっとしてびっくりするほどきれいで女優さんみたいでさ。うわーきれいな人って」
「それって、もしかして」
「うん。せいちゃんのお母さん」
「で、横にいた男の子は暗そうな子だなって思った」
「俺か」
へへへとなつは笑った。新幹線はぐんぐんと北へ向かっている。きっとそのうち雪景色が一面に広がるだろう。
「せいちゃんのお母さんがあんなに素敵な人じゃなかったら、わたし、せいちゃんのこと好きにならなかったかも」
「そうなの?」
なんか、おもしろくない話だな。
「暗くて大人しい子だなって思ってたけど、よく見たら、おばちゃんと同じできれいな顔しているなって気づいて」
「うん」
「それで、初めて興味がわいた」
「……。なつが好きなのって俺の顔なの?」
ていうか、顔だけ?
「え?何?」
話したいことだけ話すと、チップスターつまみながら外見ている。
「なつが好きなのって俺の顔なの?」
「う~ん。あんまり考えたことないな」
「なんか、適当だね」
「じゃ、せいちゃんはわたしのどこが好きなの?」
女の人はときどき質問には質問で返す。
「……全部」
「絶対、今考えるの面倒くさいからそう言ったでしょ」
***
駅にはなつのおばさんと茜ちゃんが迎えに来ていた。
「え~。清一君?」
遠目から驚かれた。二人とも目と口をあんぐり開けて埴輪みたいな顔になっている。
「そういえば、おばさんって俺たちのこと知ってるの?」
「知らないよ」
なつはおかあさ~んと手を振りながら歩いていく。僕は荷物を持って後からついていく。
「ちょっと清一君も一緒ならなんでそう言わないのよ。それになんで荷物清一君に持たせてるの?」
「あ、ごめん。自分で持つよ」
僕はなつにボストンバッグを渡した。
「清一君、ほんと見間違えちゃったわ。すっかり東京の人みたい」
「お久しぶりです」
なつと茜ちゃんが賑やかにおしゃべりするのを聞きながら、僕は助手席に乗った。久しぶりの仙台はなんだか以前よりこじんまりとして見えた。東京の街に慣れたせいで、小さく感じられたのかもしれない。
「ご両親はお元気?」
「おかげさまで」
離婚しました。とは言いづらかった。でも、以前まで住んでいた父がいないので、気が付いているのではないかと思う。家へ着くとなつはこっそり後で電話するね。と言い残して隣の家に入っていった。僕はおばさんに送ってもらったお礼を言った後、自分の家へ向かった。
かばんからしばらく使っていなかった自宅の鍵を取り出して回す。うまく回らなくて気が付いた。ドアはもともと開いていた。
「ただいま」
「おかえり」
リビングに入ると、母がいた。
「店にいるのかと思ったよ」
「あなたが帰ってくるって言ったら、タケコさんに先に帰ってくださいって言われたのよ」
ふうんとだけ言って、自分の部屋へあがる。母の声が追っかけてきた。
「夕飯はお寿司とろうかと思うんだけど?」
「うん。いいね」
僕の部屋は、高校生のころ使っていたときと変わっていなかった。荷物だけ置いて、もう一度下へ降りる。ダイニングに入るとテーブルの上に重箱が置いてあった。あけるとおせちだった。
「おせち作ったの?」
「買ったのよ。ないと正月気分が出ないじゃない」
そっと冷蔵庫をあけると、タッパに入れられた栗きんとんがあった。子供の頃おせちで好きだったのはかまぼこと栗きんとんだった。昔は祖母がひとつひとつ手作りをしていて、特に栗きんとんは僕が好きだったので、腕によりをかけて作ってくれた。祖母がいなくなったら、おせちは買うようになったけど、母は一品だけ手でつくる。いつもそっけない母が見せる数少ない僕への優しさの一つだった。
「しめなわや、門松は?」
あ、と母が声をあげた。
「鏡もちもないね」
母はため息をついた。
「そういうのは毎年、あの人がやっていたから……」
少しだけ寂しそうに見えた。
「大丈夫?離婚して、一人になって」
母はぱっとこっちを見た。
「ああ、平気よ」
それが本音なのかどうかは別として、そういう母さんはすごくあっさりとしていて、ここまであっさり言われてしまうと、もし父さんが聞いていたら、複雑な気持ちになるだろうなと思う。
「まだ空いている店あるでしょ。買ってくるよ」
僕は壁にかけてあった車のキーを取った。
「買ってくるってどうやって?」
「俺、免許取ったんだよ」
「やあねぇ。だめよ、だめ」
母は立ち上がって、キーを取り上げた。
「雪道なんて運転させられないわよ。初心者に」
そう言ってかけてあったコートを着て、マフラーを巻いた。僕らは連れ立って出かけた。
「門松はもう、いいんじゃない?」
去年までは父の会社関係の人たちが年賀の挨拶に来ていた。それなりの地位だったので、玄関先もきちんとする必要があったのだと思う。母は、そういう準備はしなかった。お中元もお歳暮も賀状のやりとりすら。父の社会生活のために必要な本来であれば妻が行うであろう事柄を、母はしなかった。また、父はそれを母に頼まなかった。父には秘書の清澄さんという女性がいて、そういったことも含めて彼女が手配をしていた。年始に向けてハウスクリーニングを頼み、予算に応じてお中元やお歳暮を購入し配送する。受け取った物の整理をして記録し、来年送る際の参考にした。年末までに賀状を用意して、一覧のリストにして確認しているのも見たことがある。父が自分で用意するのは、自分のプライベートの友人や親せきだけだった。
父のところへ毎年訪れていた客は今年はどこへ向かうのだろう。
僕たちは近くのスーパーへ行った。母は他人任せだったので、しめ飾りや鏡餅をどんな大きさのものを家のどこに置いていたか覚えていなかった。僕はそれぞれの大きさや置く場所を教えながら、カートに一つ一つ入れていった。
「正月用のお酒買った?」
「ああ、お神酒ね。いいや」
僕は適当に選んで一升瓶を入れた。
「母さんはこっちのほうがいいの?」
僕はワインを何本が見せた。母は白ワインを一本とシャンパンを一本選んだ。母は日本酒を好まない。
「日本酒全部帰る前にあかしてよ」
レジ袋に物を詰めているときに言われた。
「お金払う前に言ってよ。小さいのにしたのに」
母さんは笑った。
「情けないわね。お父さんだったら軽々飲んじゃうわよ。このくらい」
母さんはあまりこだわりなく父さんの話を出す。車に荷物を載せているときに母が言った。
「ちょっと運転してみなさいよ」
「え、いいの?」
運転席に座ってシートベルトを締める。
「ええっと」
ハンドルを握ると、母は僕にいろいろと指示を出した。教習所の先生みたいだ。僕はそろそろと運転した。何度か冷や汗をかいたけど、何とか家にたどり着いた。
「車庫入れは無理」
母に預けて運転席から降り、荷物を降ろして運んだ。
「お帰りー。どこ行ってたの?」
門のところでなつに会った。
「買い物」
母が後ろから来てなつに声をかけた。
「なっちゃん、お久しぶり」
「お久しぶりです。おばさん」
母はにこっとだけすると、すたすたと歩いて行った。母が家に入ってからなつが言った。
「おばさん、いつもと変わらないね」
「そうだね。これでも心配で帰ってきたのに、なんか拍子抜けするよ」
「明日みんなで初もうで行くけど、せいちゃんも来る?」
「何時ぐらい?」
「たぶん、午後になるかな?」
僕はちょっと考えた。
「うん。行くよ」
「わかった。じゃあね」
***
夕方お寿司が届いて、こたつに入りながら、母と二人で食べた。テレビは年末のこれといってテーマのない番組を垂れ流している。生中継なので、このテレビに映っている人たちは大晦日に仕事をしているわけだ。
「少しだけ飲もうか」
と言って母がワインをあけた。意外にお寿司にあった。よく冷えていて暖かい部屋の中でおいしかった。ふいにぽつりと母が言った。
「あなたはもうこの家には帰ってこないのかと思ってたわ」
テレビでは名前を知らない芸人が、声をはりあげて何か叫んでた。
「どうして?」
「去年一度も帰ってこなかったし」
去年は夏はなんとなく帰らず、冬は雪山にバイトとスキーを兼ねてサークルのみんなと籠っていた。
「わたしたちって家族だけど、それぞれが独立した1人じゃない?わたしは清一はもう大人になって旅だったんだって理解してたわ」
母はワイングラスをゆらゆら揺らした。
「お父さんも旅だったしね」
僕は静かに母を見ていた。彼女がグラスをあけたので、もう一杯ついであげた。
「俺、帰ってこないほうがよかったのかな?」
「そんなこと言ってないわよ。帰って来なくてもよかったの。来ても来なくてもよかったのよ」
母の瞳が少しだけ揺れた。
「あなたがしたいようにすればいいって、ただ言ってるの」
テレビの声は僕らと不釣合いにただただ陽気だった。
「この家、売ろうかと思ってるの」
「え?」
「売って、お金を半分お父さんにあげようかと思って。年取ってからまた一人子供を養うんだもの。ちょっとでも足しになるかもしれないじゃない?」
その言葉に棘はなかった。ただ、本当に父の足しになるようにお金をあげたいのかもしれない。かもしれないけどしかし、この人は一体、どんなつもりでこんなことを次から次へと話すのだろう。僕はついていけない。まったくわからない。この年になっても、母のことが……。
「あなたは、どう思う?」
「どうって……」
母には言わなかったけど、僕たちは完全に壊れた、と思った。家は、うまくいかないなりに僕たち家族という形を、箱を保ってきた。それがなくなることで、僕たちは本当に母がいうところの『旅立ち』を迎えて、ばらばらになる。僕らは帰る所を完全に失い、それぞれの方向へ去っていくのだろう。
「一人で住むには大きすぎるのよ。無駄だわ……」
母はいっそすがすがしいのかもしれない。彼女は木の家具と雑貨を扱う店を経営していた。仕事が充実していて、一人で独立して暮らすことができる大人だった。彼女の生活にはもはや父も僕も必要ないのだ。父には新しい子供が生まれる。父にもまた、僕は必要ない。
だから、僕はもう自由なんだ。もう帰って来なくてもいい。きっと新しい母の家には僕が泊まれる部屋はないだろう。そう考えても全く楽しくなかった。ただ、自分の胸のあたりにもともとあいていた穴が大きくなって、風が通り抜ける音が大きく聞こえるような気がするばかりだ。僕はその場で母の顔を見ているのが耐えられなくなって、立ち上がった。
「風呂入ってくるよ」
久しぶりに実家の広い浴槽に身体を沈めた。気持ちよかったけど、いくらつかっても身体の芯がいつまでも凍えていて温まらないみたいだ。
帰ってくるんじゃなかった。心からそう思った。そして、決めた。家がなくなったら、僕はもう用事がなければここにはもどって来ない。
風呂から出て居間に戻ると、母がこたつにつっぷして寝ていた。僕はソファーにおいてある膝掛を肩からかけてあげた。食器を流しに運んで、こたつの天板を布巾で拭いた。ワインがまだ残っていたので飲みながらぼんやり紅白を見た。
『母さんを恨んでいるのかい?』父さんが言った言葉をふと思い出す。それは愛してくれて当然なのに、どうして僕を愛してくれないのか、という怒りだろうか。それなら間違っている。父は理解していない。愛されたことのない子供は、愛されるということがどういうことなのか理解できない。他の人と違うとか羨ましいと思うことはあっても、当然愛すべきだなんて思わない。自分が当然愛されるべき存在だなんていうことは、愛されたことがある人にしかわからないんだ。実感できないことに関して人は怒ったり恨んだりすることはできないんだ。
ふいに携帯がなった。着信をみるとなつからだった。
「何?」
「別に用はないんだけど、なにしてるかなと思って」
「一人で飲んでた」
「一人?おばさんは?」
「こたつで寝ちゃったんだ」
ふうんと言う彼女の後ろのほうから、おじさんや茜ちゃんのわいわい騒いでいる声が聞こえた。
「楽しそうだね」
「うん。なんかみんな揃って嬉しいみたい。お父さん」
羨ましいなと口から滑り出しそうになった。
「せいちゃん、なにかあったの?」
「なんで?」
「なんか、声に元気がないような気がして」
どうしてなつは何も言わないのに、僕の微妙な変化を察知するのだろう。
「いや、別に何もないよ」
なつはまた、ふうんと言った。
「そっちに行きたいな」
「……それはありがたいけど、気持ちだけもらっておくよ」
「今日は一人で寝るの?」
「他に誰と寝るっていうの?」
へへへと彼女は笑った。
「今年は年越しのときにそばにいたかったな。あけましておめでとうって一番に言いたかったのに」
「また、チャンスがあるよ」
そして、僕は想像した。毎年少しずつ年を取りながら、あけましておめでとうと何度も言い合う僕らを。その想像は僕の心の奥のほうを温めた。
「じゃ、また明日ね」
彼女は電話を切った。僕はワインの残りをゆっくり飲み干して、テレビから流れる除夜の鐘をきいた。十二時が過ぎて、僕はテレビを消して、部屋のあかりを消した。母は相変わらずこたつで寝ていた。ゆっくり二階へ上がる途中で、また携帯が震えた。なつからメッセージ。
『二階でベランダに出て』
部屋に入って灯りをつけずにベランダ越しに向こうを見る。彼女が自分の部屋の窓を全開にして僕に向かってにこにこ笑いながら、手を振っていた。不意に僕の中をさまざまな思い出が駆け巡っていった。僕らは幼い頃からこうやってよくあっちとこっちで顔を合わせては手を振ったり、何か話したりしてきた。いつもなつはにこにこしていて、僕は彼女の笑顔を見て、いつも必ず元気をもらった。僕はベランダに出た。裸足にサンダルをはく。吐く息が白い。寒い。半端なく寒い。
「寒いね~」
何を当たり前のことを言ってるんだろう。この人は。
「あけましておめでとー」
彼女は笑いながら僕に手を振った。
「わたしが世界で一番最初に、せいちゃんにあけましておめでとうって言った?今年」
「うん」
「やった。なんか嬉しい」
無邪気だな。
「酔っぱらってるの?なつ」
「わたしにしてはそこそこ酔ってるな」
顔がほんのり赤くて、かわいかった。
「じゃ、風邪引くから。また、明日。ばいばい」
彼女はさっさと窓をしめて、カーテンまで閉めてしまった。最後にカーテンの影に隠れる前にまた、ばいばいと手を振って。カーテンなんか開けとけばいいのに。覗くのは俺くらい。でも、パジャマ姿でぐずぐずしているような気温ではなくて、僕は部屋に戻った。
僕はベッドにもぐりこんだ。家がなくなるってことは、なつと俺が一緒に過ごしたこの部屋もなくなるんだなと思う。よく考えてみたら、二人がここに住まなくなったときにもうこの部屋は半分死んでいた。だけど、思い出があって、だから、なくなると思うと寂しかった。寂しさを抱きながらその夜は寝た。
夏美
わたしはみんなが騒いでいる部屋をそっと抜けて隣の部屋からせいちゃんに電話をかけた。ちょっとだけしゃべって切った。それからみんなのいる部屋に戻ろうと思って、ふすまをあけたら母が立っていた。
「何?びっくりさせないでよ。お母さん」
ほんとうに腰がぬけるかと思うくらい驚いた。
「今の相手、誰?」
「誰って、せいちゃんだけど」
ふうん。そういってしばらく黙る。
「あんた、清一君となんかあった?つきあってるの?」
「……お母さん、もしかして今の会話聞いてたの?」
母は何も言わない。
「もう、やだ。盗み聞きなんかして」
「たまたま通りかかったら、聞こえただけよ」
「もお」
「本当につきあってるの?」
「……」
お母さんに言うのは、ちょっと照れ臭い。
「まぁ、清一君もなんでなつみたいな子がいいのかしらね」
「ちょっと!」
「やっぱりつきあってるの?」
「……」
「まあ、言わなくてもわかるけどね」
「どうして?」
「赤ちゃんの頃からあんたのこと見てるのよ。急にきれいになったら、なんかいいことあったのかなって分かるわよ」
「え?わたしきれいになった?」
「十人並みだけどね」
もう、お母さんたら、絶対素直にほめないんだから。
「振られることがあっても、あんたが振って傷つけるようなことがあったら許さないわよ」
「なんかお母さん、言ってること変」
「どこが?」
「普通は娘が傷つけられるのを心配しない?」
母はころころ笑った。
「あんたは大丈夫よ。しぶといから、わたしの娘だもの」
急に母はわたしの手を取って自分の両手で包んだ。
「ずっと寂しそうな様子を見てきてるからね。清一君には幸せになってほしいのよ」
「……うん」
「その相手がなっちゃんなら、お母さんも嬉しいけどね」
それだけ言うと、ポンポン頭をたたいてから向こうへ行ってしまった。
清一
次の日は少し遅く起きた。下りていくと、母はきちんと起きていて、服を着て化粧もしていた。ダイニングのテーブルの上におせちがきれいに並べてあった。母は僕を待っていてくれたようで、料理は手付かず。コーヒーを片手にタバコを吸っていた。
「あけましておめでとうございます」
僕は言った。
「おめでとう」
母が答えた。
「年賀だからね、お清めの意味もあるんでしょ」
母は正月用の銚子とお猪口を出して、日本酒を入れた。
「熱燗のほうがいいの?」
そのまま電子レンジに入れようとするから、あわててとめた。電子レンジにかけていいような陶器じゃなかった。金箔がだめになっちゃう。
「その酒は常温でいいよ」
最初にお神酒を一杯飲んでから、おせちを食べる。
「まだ、いっぱいあるわよ。もっと飲みなさいよ」
母がお酒を飲ませたがる。正月といえば、仕事で忙しい父が珍しく家にいて、そしてのんびりと酒を飲んでいた。父は日本酒が好きだった。小さい頃からよく僕に大きくなったら一緒に飲もうと言っていた。
彼の不在がしんみりと感じられた。今年は新しい奥さんとお腹の中の子と三人でいるのだろう。やっぱり、お酒を飲んでいるんだろうか。
「今日、午後なつたちと初もうで行ってくるよ」
「そう」
「母さんも行く?」
母は食事を終えて、たばこに火をつけた。
「行かない」
そう答えるだろうと思っていた。母は、日本古来の伝統や習慣にはあまり興味がなくて、そして、僕たちは正月に初詣にいく習慣がなかった。
昼すぎになつが迎えに来て、みんなで車に乗ってでかけた。一度降った雪が晴れて溶けてしまい、それから曇ってまた凍った。足元はあまりよくなかった。滑って転ばないように歩きながら、僕たちはお参りをして、おみくじを引き、甘酒を飲んだ。中にちょっと入れられた生姜が体を温めた。そろそろ帰ろうかという時になつが久しぶりに街へ行こうと言いだした。
「あ、あたしもいく~」
と茜ちゃんが声をあげた。するとおばさんが、
「茜はお母さんと家に帰って」
と言う。
「え、なんで?久しぶりにお姉ちゃんや、せいちゃんと遊びたいよ」
「ちょっと、手伝ってほしいことがあるのよ」
「なんで、わたし?」
そこでおばさんは、何かこっそり茜ちゃんにささやいた。茜ちゃんの表情が変わった。
「あ、じゃあ、わたし帰るね。ばいばーい」
一体何を話したんだろう。おばさん。みんなが車に乗って去っていったらなつが口を開いた。
「お母さんにばれちゃった。わたしたちのこと」
「え、なんで?」
なつはくるりとこちらを向いた。
「ばれるとなんかまずい?」
「いや、別に。でも、なんで?なつが言ったの?」
「昨日の夜の電話聞かれちゃってて」
なるほど……。なつが手をつないできた。そんなに時間が空いたわけじゃないのに、ずいぶん久しぶりに思えた。彼女の手は柔らかくて温かかった。
「どこにいこっか?」
特にあてもなくぶらぶら歩いた。二人ともどこかに行きたかったわけじゃなくて、二人でいたかっただけだからそれでよかった。しばらくするとなつは母の店をみたいと言ってきた。
「休みだから閉まっているよ」
「外からちょっと見るだけでもいいよ」
僕たちは商店街をはじっこへ向かって歩き出した。母の店は商店街から大通りに出る角に位置している。壁も床もすべて木で作られた店で、外壁はモスグリーン。古びた感じに見えるように色あせている。僕たちは閉じた店のウインドー越しに中を覗いた。すると、中に人がいるのが見えた。向こうからもこちらを覗いている様子が見えたが、ふいにこちらへすたすたと歩き、Closedと書かれた扉を開けた。ドアベルがからんと乾いた音をたてた。母と一緒に働いているタケコさんだった。
「もしかして、清一君?」
僕がうなずくと、にっこり笑った。
「あんまり変わってたからすぐ分からなかったわ。よかったら入って。そちらのお嬢さんも。清一君の彼女?」
「ええっと……」
言い淀んでいると、なつが微妙に機嫌が悪くなるのが見ないでもわかった。
「はい」
タケコさんはもう一度にっこり笑った。
「紅茶くらいしかないんだけど」
「すみません」
レジ近くに置いてある売り物のテーブルは、半分店の事務机と長年化していて、きっともうこれは非売品なんだろう。その上にノートパソコンや書類なんかが広げられていた。
「元旦から仕事しているんですか?」
僕が驚くと、タケコさんはお茶を入れながらふふふと笑った。
「家に一人でいるとね、落ち着かなくって」
「わかります。このお店なんか自分の家にいるみたいな落ち着いた気分になります」
横からなつが口を出してきた。
「どうぞ」
タケコさんはお茶を出してくれた。僕たちはこれもおそらく非売品になってしまったのだろう木の椅子に座って、お茶を飲んだ。冬の午後の弱い光が店内の木のいすや本棚。テーブルや机に当たっていた。
「店長から帰ってくるって聞いてたけど、本人に会えるとは思ってなかったわ」
紅茶は温かかった。外を歩き回って冷えた体に心地よかった。
「お店の中、見せてもらっていいですか?」
なつが立ち上がった。
「店長、喜んでいるでしょ?清一君が帰ってきて」
「とてもそんな風に見えません」
「素直じゃないからなぁ、店長」
「両親が離婚したのはご存知ですか?」
「聞きました」
「さすがに参ってるんじゃないかって心配で帰ってきたんですが、全然元気で……」
僕は店の中を楽しそうに歩き回るなつを見た。
「帰ってくる必要なかったのかなって」
「そんなことはないんじゃない?」
普通なら、気にしないのかもしれない。『ありがとう』とか言われなくても。でも、僕は母が苦手で、だから『ありがとう』と言われないことが普通よりも重かった。
「わたし、実は若いころに離婚しているの」
ふいにタケコさんがそんなことを言い出した。ちょっとびっくりして正面から彼女の目をみた。その目は澄んでいた。まるで冬の湖のように清浄だった。
「子供がいたの。当然わたしが引き取れるんだって考えて離婚して、でも、裁判で負けて向こうにとられちゃったのよ。別れたころにまだちっちゃくて、本当にかわいそうで、胸がつぶれるくらい悲しかったわ」
ちょっとだけ、涙ぐんだ。
「自分がそういう経験しているから、店長を見ていると、なんだかおせっかいを焼きたくなってしまうんですよ」
僕は何も言えずに、ただ、タケコさんの前に座っていた。ヒーターの音と、どこかの家の屋根から雪が落ちる音を聞いた。横断歩道が青になって、前へ進めと音楽を鳴らしている。
「店長が離婚した時に、『とうとうみんないなくなって、一人になっちゃったわ』って言ったの。『一人ではないでしょ?離婚しても清一君は店長の息子さんじゃないですか』って言ったら、『わたしには母親の資格がないわ』って……。『あのこが一番そばにいてほしいときに、わたしは何もできなかった。だから、わたしがさびしいからって今更、なにも期待できないでしょう?』そう言いました」
『母さんを恨んでいるのかい?』そう言った父の声がまた、頭の中に響いた。
「だけど、その顔がね、とても寂しそうだったんですよ。わたしも女で母親だからわかるんです。店長、清一君が帰ってきてくれたこと喜んでいると思いますよ。ただ、『帰ってきてほしい』とか『嬉しい』とか言わないのは、塔子さんなりの自分への罰なんです」
「罰、ですか?」
「今回一人になるのは、今まで周りを傷つけてきた自分に対する正当な罰なんだって……」
そして、タケコさんは笑った。
「わたし、それ聞いて子供じみているなって思ったんですよ。けんかして拗ねて親と口きかない子供みたいじゃないですか」
タケコさんが笑ったことで、空気が軽くなった気がした。
「わたしなんか会いたくても会えないのに。塔子さんはまだなにも失っていないのに。どうして素直にならないんだろう?結局自分が勝手だったって反省しているようで、何も変わっていなくて、自分本位なのよね」
それから急に慌てて言い添えた。
「ごめんなさい。ちょっと言い過ぎたわね」
「いや、いいんです」
「大人ってね、若い子が思っている以上に実は子供みたいなところがあると思うんですよ」
「せいちゃん、見てこれ」
なつが二つペアでセットのカップを持ってきた。
「きれいだね~」
クリスマスの絵柄がついている。緑を基調にしたものと、白を基調に水色で絵柄が入ったもの。
「お包みしますよ」
「え、でも……」
「気にしないでください。お二人へのわたしからのプレゼントです」
何度も断ったけど、タケコさんは譲らなかった。結局僕らは紙袋を持って店を出た。
「随分話し込んでたね。何話してたの?」
「うん。いろいろ、かな」
なつがちらっと僕を見た。
「せいちゃん、こっち帰ってきてから何かあったの?」
「う~ん」
どう話せばいいのかなってちょっと迷った。
「母さんがあの家、売りたいって」
「えっ!」
なつは立ち止まった。僕は振り返った。彼女は泣きそうな顔さえしていた。
「なんで?」
「売ったお金を半分、父さんにあげたいんだって。一人で住むには大きすぎるともいってたな」
なつはじっと黙って、斜め下を見て、しばらく動かなかったけど、やがて歩き出した。
「隣がせいちゃんの家じゃなくなるなんて、なんかさびしいな」
「もう、仙台にはあまり帰ってこないかもな」
思わず、ほんとに思わずぽつりと漏らしてしまった。
「なんで?」
なつはまた、驚いて、動揺して、立ち止まった。
「なんで?だって仙台はせいちゃんの育った故郷じゃない。離婚したってお父さんもお母さんもいるじゃない」
「親がいても、帰る家がないよ。僕には」
父さんには新しい家族がいるし、母さんの新しい家には僕が泊まれる部屋はないだろう。きっと僕はその家だか、マンションのチャイムを押す勇気すらないような気がする。
「せいちゃん……」
なつに手をつかまれて、そんな思考から離れた。
「一緒に帰ってこよう。もし、帰る家がなかったらわたしの家に帰ればいいよ」
「なつ……」
「わたしは何歳になったって、自分のお母さんに会いたいよ。どんなに年を取ったってわたしはお母さんの子供だもん」
「でもね、いろいろな事情があって自分のお母さんに会えない人だっているんだよ。小さい頃に親が死んでしまう子だっているし」
「でも、せいちゃんのお母さんは生きてるじゃん。自分の子供に会いたくないお母さんなんてこの世にいないよ」
なつの真っすぐさが好きな僕も、彼女のこの言葉にはいらいらした。僕のその気持ちが顔に出たのか、彼女はそれから何も言わなかった。僕たちは黙って駅に向かって歩いた。
僕は、彼女に対して心を開いた。いわば前に言ったSTAFFONLYの部屋に彼女は入れるようになったんだと思う。だから、なつは前より親密になって、前より余計なことを言う。そして、僕も前だったら見せなかったような負の感情でも隠せずに見せてしまう。
電車が駅に滑り込んで来る。ボタンを押してドアをあける。二人並んで電車に乗る。黙って並んで座っているうちに、さっき激しく揺れた感情の波が下がってきた。向こうの窓ガラスに反射している姿を見ると、なつがしょんぼりとしている。
すぐに全部許したくなくて、でも、ちょっと彼女の様子が気になって、僕は黙ったままでそっと、さっき離してしまった手をもう一度つないだ。
ごめん、さっきはちょっと言い過ぎた、と彼女は言葉にはしなかったけれど、そう思っているのは言われなくても知っていた。彼女は時に真っすぐすぎることが僕を傷つけたり、いらいらさせたりしていることはわかっている。僕たちは、すごく近くに立つようになって、そして、前にはなかったような衝突をするようになって、でも、お互いにお互いをやっぱり学んでいた。
家の前まで行って別れるとき、僕は言った。
「今日は、なんだか気分が落ち込んでて、次はちゃんと元気だから」
「うん。でも、わたしはせいちゃんが元気だから会いたくて、元気じゃないから会いたくないなんてことはないから」
なぞなぞのようなことを言って、やっぱりしょんぼりと帰っていった。いつも元気な娘にしょんぼりとされると、気になって仕方ないのだけど。結局僕の中のいらいらとした怒りは、最後には全部消えてしまう。彼女に対しては、僕は腹を立て続けることができない。
「ただいま」
「おかえり」
母はソファーに座って、雑誌を広げていた。コートを脱ぎながらタケコさんにあったと伝えた。母は顔をあげてこっちを見た。
「どこで?」
「店に行ったんだよ。なつが外からでもいいから見たいって」
「ああ、なっちゃん」
母は少し微笑んだ。
「あの子、ときどき来てくれてたのよね」
「そうなの?」
母は雑誌に戻り、僕はテレビをつけた。
「ね、清一、あなたこっちにいる間に父さんに会っていきなさいよ」
「うん。いいけど」
「それで、この家のこと聞いてみてくれない?売ろうと思うけどって」
「……」
僕はじっと母さんの顔を見た。
「別にいいけど、そういうのは直接話したほうがいいんじゃないの?」
「売るって決まったら、ちゃんと話し合うから最初だけ清一から聞いてみてよ」
「いいよ」
というと、母はまた雑誌に戻った。本当は母は父に会いたくないのかもしれない、そう思った。
父に連絡すると、明日会おうと言われた。お昼をご馳走するから出ておいで。父の声は明るかった。約束の時間より少し早く着いてしまって、暇つぶしに近くの書店に入った。適当に本を出しては読むとはなしに読んで、時間をつぶした。ふと顔をあげてガラス越しに外を眺めたのはどうしてだったのだろう。目をあげた先には広場があって、その端っこに男女の二人組が立っているのが見えた。それは、父と清澄さんだった。二人で買い物をしていたのかもしれない。大きな紙袋を持っていて、清澄さんはそれを父から受け取ったが、父はそれを取り返して、彼女の肩をぽんぽんとたたいて何か言った。彼女は嬉しそうに笑って、それからバイバイと手を振って離れて行った。彼女のおなかは大きかった。
二人は僕のよく知っている人だったけど、だけど、二人は僕のよく知らない二人だった。父の笑顔は別人のようだったし、スーツを着ていない清澄さんは、思ったよりもずっと女らしかった。そうか、父の相手は清澄さんだったのか。そう思って思い返すと今まであった清澄さんに対する記憶がオセロのようにパタパタひっくり返って、そして違う色が見えてくる。あの二人はいつからそういう関係だったんだろう。何も知らない僕と母さんをどんな気持ちで見ていたのだろう。
父にそんな相手がいたことにも驚いたけど、その相手が自分の知っている相手だとは思ってもみなかった。それがわかったときに初めて、父がしてきたことの本当の意味が実感できた。彼は何年かは知らないけど、僕たちを欺いてきた。母はこれを知っているんだろうか。恐らく知っているんだろう。そして、知っていて、それでも尚、父と清澄さんと生まれてくる赤ちゃんのために、家を売ろうとしている。自分はたった一人でこれから暮らしていくというのに。急に母がとてもかわいそうだと思った。
「父さん」
待ち合わせの場所に出て行って、声をかけると、父はいつものように微笑んだ。
「行こうか」
そっと脇にかかえた紙袋の中身が動いた瞬間にちらりと見えた。それは、新生児用の服のようだった。白い柔らかそうな布に、黄色いひよこの絵が描いてあった。僕は何も言わなかった。何も言わずに歩き出した。
僕たちは鉄板焼きのお店に入った。
「なんでも好きな物頼みなさい」
僕はいつものように、注文を父に全て任せた。
「まだ昼だけど、松の内だからいいだろう」
そういってビールを頼む。しばらく箸を動かしてから、僕は切出した。
「母さんが、家を売りたいって」
父は箸をとめた。
「父さんはどう思うか聞いてきてほしいって頼まれたんだ」
少し間があって、それから父さんは言った。
「あの家の権利は全て母さんに譲ったから、母さんの好きにすればいい」
あっさりとした答えだった。
「売った代金の半分は父さんにあげるって言ってたけど……」
父はちょっとむっとしたようだった。
「そんな必要はないよ」
まあ、たしかに男の人が元妻にこんなこと言われたら気分悪いか。
「母さんどんな様子だ」
父さんがぽつりと言った。
「まだ気になるの」
「そりゃ気になるさ」
父さんは困った顔をした。
「別に普通だよ」
「どうして急に家を売るなんて言ったんだろう」
「広すぎる家に一人で住むのは無駄だってさ」
父はため息をついた。
「女の人は残酷なくらい冷静だね」
男というものは不思議な生き物だ。さっきまで一人の女の前であんなにでれでれしていたのに、今度は別の女のことで眉をくもらせる。
「まだ、その、ふっきれてないの。母さんのこと」
父さんは頬杖をつきながら、ぼんやりと店の窓から冬空を見上げた。
「この喪失感はお墓まで持っていくと思うよ」
父は苦笑いした。
「君にはまだそういう経験はないかもしれないけど、何か新しい素晴らしいものを手に入れたからといって、それで、過去に失った物を埋め合わせることはできないんだよ。痛みはいつまでも残る。にぶくね」
「なんかちょっとした詩人みたいだね」
はははははと父は照れて笑った。
「詩人ってのはきっとよくわからないけど、傷ついたことがある人なんだろうな」
食事が終わった後、父は手を振って向こう側へ歩いて行った。背中はもうしょんぼりしていなかった。僕たちは時に二つのうちから一つを選ばなければいけないことがある。一つを選べば、一つを失う。失っても前に進まなければならない。
父は別れ際にもう一度、母のことを僕に頼んだ。
「ときどき顔を見せてあげてくれよ。母さんは君に会えるのを楽しみにしているから。彼女は強がっているけど、もう、家族は君しかいないから」
いろいろな人が母の心配をして僕に声をかけてくるけど、僕にはいまいち実感がわかない。本当にみんなが言うようなことがあるんだろうか。
僕は電車を降りると、スーパーに酔った。カートに物を入れながら、母に電話をかけた。
「今日、鍋にしたいんだけど、いい?」
「二人で食べるの」
「だめ?なんかおせちもあきちゃったし」
「いいわよ。別に」
いつもと同じ平らな母の声だった。
「何か買ってってほしいものある?」
「そうねえ」
母はちょっと考えてから、ティッシュを買ってきてと言った。荷物がそれなりに大きくなってしまった。しょうがなくてくてく歩いていると、横で車が止まった。ドアがあいて、なんかどたばたしていて、ひょいと顔がのぞいた。
「せいちゃん」
なつだった。
「どこいくの」
「うちに帰るとこ」
「じゃ、わたしも歩いて帰る」
なつが車からおりた。後ろからおじさんが
「清一君が乗ればいいじゃないか」
と言っている声が聞こえたが、なつはそれを無視してドアを閉めた。
「すごい荷物だね」
「手伝ってよ。この箱ティッシュぐらいでいいからさ」
なつは僕の買い物袋の中を覗いた。
「カニだ~!」
僕は荷物をもう一度持ち直して歩き出した。
「何?今日は何かのお祝い?」
ちょっと考える。
「母さんの離婚祝いかな?」
「何それ、祝うようなことじゃないじゃん」
僕はふと思いついて言った。
「なつ、暇なら一緒に食べてけよ」
「なんで?」
「二人だと多いんだよね。これ」
なつはちょっと下を向きながら、ためらっていた。荷物は重く、てくてく歩いたおかげで外は寒かったけど、体は温かかった。彼女はなんだか横で小さくなっていて、荷物がなければ僕は彼女と手をつなぎたかった。もう少し寄り添って歩きたかった。声はよく聞こえないし、彼女のにおいもしなかった。
「せいちゃん、昨日わたし余計なこと言っちゃったよね」
「ん?ああ、全然気にしていないよ」
本当は嘘だった。嘘だったけど、蒸し返すつもりはなかった。彼女はまたちょっと黙る。二人で黙って歩く。カニが重い。
「どうする?やめとく?」
彼女はこちらを向いた。
「ううん。行く。鍋一緒に食べる」
僕たちは母さんをテレビの前に座らせて、二人で台所に立った。白菜やネギや豆腐を適当に切って皿に並べていく。カセットコンロを棚から出して、土鍋をのっけた。そこに母がこんぶと水を入れて、日本酒を少しと塩を入れる。
「清一、こんなにいろいろ買って、お金どうしたの?」
母はカニを買ってくるとは思ってなかったらしく、あきれていた。僕たちはテレビをみながら、当たり障りのないおしゃべりをしながら、だらだらとお鍋をつついた。母はシャンパンをあけ、僕には日本酒を飲ませた。
「なっちゃんも付き合いなさい」
母にすすめられて、シャンパンを飲んだなつは途中で倒れて寝てしまった。
「あら、寝ちゃったわ」
「わ、どうしよう」
肩をゆすって起こそうとしたところを止められた。
「寝かしといてあげなさいよ」
「いいの?」
「家に電話しときなさい。隣でも心配でしょ」
電話をかけると、おばさんがでた。
「おばさん、ごめんなさい。今晩なつ借りちゃって」
「別にいいわよ。いつでもどうぞ」
「実はなつ、寝ちゃったんですよ」
起きなかったらこのままこっちで寝かせていいですか?もう遅いですし。というと、おばさんはため息をついた。
「いやねえ。ほんとだらしないわ。若い女の子は危ないこともあるのに、危機感ないんだから」
「いや、なつは悪くないんです。僕が飲ませちゃったんで」
おばさんはころころ笑った。
「あら、清一君とこは危ないなんて思ってないわよ。ごめんなさいね。よろしくお願いします」
屈託なく話して電話を切った。母はなつに掛け布団をもってきてかけていた。なつは気持ちよさそうな顔で寝ていた。そういえばおばさんはなつが危ない目にあったことを知らないんだな。僕はなつの顔をじっと見た。痣が残らなかったところを。
「あなた、なっちゃんと付き合ってるの?」
母の声で我に返った。
「何、急に」
「やだ、本当?」
母は気持ちよさそうに笑った。
「だって今の見つめ方は、お兄ちゃんが妹に向ける視線とはちょっと違ったわよ」
僕は何も答えられなかった。母は寝ているなつの頭を優しくなでた。
「なっちゃんはずっと前から清一のこと好きだったわよね。でも、あなたはいつもそういう目では見てなかったし、なっちゃんの気持ちには気づいていなかったでしょ?」
僕は素直にうなずいた。
「この子たちはこのまま、何もないままそれぞれ別の相手を見つけて、離れていくんだろうなって思ってたわ」
「母さんでもそういうことわかるんだ」
「何よ。人を唐変木みたいに」
「今までそんな話することなかったじゃない」
「男の子の母親だからしないのよ。女の子だったらもっとしてるわ」
「そんなものなの?」
そんなものなのよ、と母は歌うように言って、よかったね。なっちゃんと小さな声で言ってもう一度だけ頭をなでた。母のこんな優しい面を見ることが、僕には珍しいことで、僕はもう少しで泣きそうになった。母が僕たちに関心をもって見ていたことを僕は知らなかった。母はずっと僕に関心なんか……。
「母さんはずっと僕に関心なんかないんだと思っていたよ」
なぜなら、母はそれをことばにも態度にも示さないから。
「関心はもちろんあったわよ。これでもあなたの親だから」
母は片手で髪をかきあげた。
「ただ、あなたが小さいときにあなたの世話を自分でできなかったから、自分に余裕ができたころには、もうあなたはおばあちゃんの子みたいになってたし。おばあちゃんが死んじゃったとき、今度こそ母親らしくしなきゃって思ったけど、母親らしいってどんな感じがわからないのよね。あなたとの間にはもう距離ができちゃってたし」
ふふふと自嘲気味に母は笑った。
「だめな女よね。トウコさんは……」
母は少し酔っているのかもしれなかった。離婚して1人になって、張っていた気がぷつりと切れたのかもしれなかった。
「……だめじゃないよ」
僕がそのとき言えたのはそれだけだった。少しだけ、父やタケコさんの言っていた母と目の前の母が一致した。ずっと昔から冷え切っていた僕の心の奥の芯が初めて、少しだけ温まった気がした。この心の芯はきっとなつでも温めることはできない。父は言った。どんなに新しいすばらしいものを手に入れたとしても、人は過去に失った痛みを忘れることはできない。
僕がそのとき考えていたのは、逃げてはいけないということだった。見たくないものや考えたくないことから、今までずっと逃げていた。だけど、逃げてはいけない。そして、それは僕にとっては母との関係だった。
「母さん」
母はこちらを見た。
「家は売ってもいいけど、新しい母さんの家にも僕が泊まれる部屋を準備してよ」
母さんは何も言わずに僕を見ていた。
「もし、昔のことを悪いと思っているのなら、これからがんばってよ。母親として」
おばあちゃんがいれば母親が要らない子供なんてこの世にいるだろうか。僕はずっと母が手をのばしてくれるのを待っていた。期待は毎日失望に塗りつぶされ、いつか期待することをやめてしまったけれど。母親らしいってどんなことなのか、僕にはわからないし、今から急に普通のいわゆる母親になってほしいとは思わない。ただ、僕から逃げるのはやめてほしい。僕も逃げないから。旅たちなんて言葉をつけて、自分の殻にもう一度閉じこもろうとするのはやめてほしい。
母は驚いて僕を見ていた。
「あなたがそんなにはっきり物を言うなんて思ってなかったわ」
そして、そっと笑った。
「東京へ行って、一人暮らしして成長したのかもしれないわね」
母は結局、僕に対して約束するとは言わなかったけど、だけど、きっと大丈夫だと思う。僕の気持ちも願いもきっと通じたと思う。母さんは笑っていたから