お母さんにしてもらえなかったこと
お母さんにしてもらえなかったこと
夏美
けがはしていたけど、夏休み前の試験が迫っていて、そんなに学校を休むわけにはいかなかった。わたしはマスクをして髪をおろして、せいちゃんの家から学校に通った。二日休んでいたので、クラスメートにどうしたのかと聞かれ、風邪をひいたといった。夏風邪。みんなにうつるといけないから、試験期間中だし。と言って、お昼ご飯も一人で食べた。屋上でパンとかおにぎりとか。
そして、夏休みが始まった。本当は一週間の約束だった彼の家にわたしは居続けていた。わたしの唇は順調に治り、頬の痣も日を追うにしたがって薄くなってきた。ある日、外で待ち合わせして映画を見てから帰ってきて、急に夕立が降って、傘を持ってなかったので二人とも濡れてしまった。家に着いてから二人でそれぞれタオルで髪や体をふいていて、何を思ったのか彼は急にわたしにキスをした。驚いて目を閉じたわたしの耳に雨音がざあざあと響いた。雨に閉じ込められて、二人っきりで、わたしはとても幸せだった。今まで生きてきて今がいちばん幸福だと感じた。
わたしたちは寄り添って、一緒にテレビを見て、ときどきキスをして、手をつないでスーパーで買い物をして、一緒に料理をした。そうやって静かに過ごした。とても幸せで、そして、ちょっと物足りなかった。
最初はただ、手をつなぐだけ、次にキスをして、それでもちろん満たされるんだけど、段々それが普通になると、物足りない。相手が好きな人だけに。ただ、彼のほうにも事情があるので、待とうと思ってる。女の、わたしのほうが。
***
「痕にならなくて、ほんとうよかったわね」
バイトをしているときに、えりさんに言われた。学校の同級生には隠したけれど、えりさんには心配をかけたくなかったので、マスクを外して顔を見せ、事情を話してあった。
「でも、そんな風に大変なことがあった割には、小野田さんなんか幸せそうに見えるのよね」
えりさん、やっぱりあなたの勘はあなどれない。
「当ててみましょうか」
えりさんはいつかのようにまた人差し指を一本立てた。
「例の彼と何かいいことがあったんでしょ」
「ええっと……」
「やっと手出してきたの?」
「いや、それが……」
わたしは事情を説明した。もちろん、彼の事情については省略して。
「まあ、大切にされてるってことよね。昨今では珍しいくらい奥手なのね。赤いスイートピーの人みたい」
赤いスイートピー?
「でも、小野田さんのほうが待てないんだ」
「……そういうことですかね」
「じゃあ、自分から迫っちゃえばいいじゃない」
「いや、それは、ちょっと」
前回それをやってひどいことになった。えりさんはいたずらっぽい目をした。
「じゃ、ちょっといいものプレゼントしてあげようか」
清一
バイトを終えて戻ると、彼女はもうお風呂を済ませていて、寝間着姿でソファに座って乾いた洗濯物をたたんでいた。僕は彼女の横に座り、テレビをつけた。
「おかえり」
「ただいま」
テレビをつけたけど、(深夜のニュースがやっていた)そのうち、テレビではなくて横で洗濯物をたたんでいる彼女の背中をじっとみつめるはめになった。見たことのないキャミソールとショートパンツを穿いていて、色は薄紫色でてれんとした生地、サテンというのだろうか。いつもだったらコットンのTシャツと短パンなのに、なつらしくない格好。
大体こういうつるつるした生地というのは、男に体を触らせるために着るんじゃないの?この子、誘ってるのかな?そういえば俺、何か月セックスしてなかったっけ?そんなことが悶々と浮かんでくる。二人しかいない部屋で夜で女の子がこんな服着てたら、九十九%誘われてるんだって思う。でも、たぶんこの人は一%に入る。そこまで考えると、どうしても試してみたくなってしまった。
なつは洗濯物をまとめて立ち上がる。
「なつ」
僕は立ち上がると、彼女のうなじにキスをして、後ろから抱きしめると、そのてれんとした生地の上から彼女の胸をなでた。やっぱり最高のさわり心地だった。彼女はびっくりして洗濯物を取り落とし、そして怒った。時間かけてたたんだのに、だってさ。
「だって、そんな服着て隣座られたら、触ってくれって言われてるんだと男は思うよ」
やっぱり……。予想通りでちょっと笑えた。
「もう何笑ってるのよ」
「いや、なつらしいと思って」
ああ、俺もう何か月もセックスしてないなぁ。どうしよう。僕はまだちょっと怒っている彼女の横に座って、手をのばし、彼女の髪の先っぽに自分の指をからめた。しばらく彼女の髪を弄ぶと、からめていた指先をほどいて、彼女の後頭部に手を差し込み、頭と気持ちのいい生地と一緒に体を抱き寄せ、いつもよりもゆっくりとキスをした。唇を離して、今度は首すじにキスをして、彼女の香りをかぐ。なつがかわいい声をあげた。やばい。僕は手を止めた。やばい。とても我慢できそうにない。どうしよう。
「せいちゃん?」
もし、途中でできなくなったら?でも、頭とは裏腹に手が勝手に動いて、彼女の身体を服の上からなでた。そのとき、彼女がまたかわいい声をあげたので、それで、僕の理性は完全に飛んでしまった。彼女をソファに柔らかく押し倒すと、体のあちこちを撫でまわして、唇で触れていく。段々二人とも興奮してくる。そんなとき、ふと僕の中で冷たい声が聞こえた。
『触らないで。あっち行ってなさい』
僕は手を止めた。彼女は閉じていた目を開いて僕を見た。頬がほんのり赤く染まっていて、目がしっとりとぬれてきらきらして、とてもきれいだった。
どうしよう、やっぱり……。
「せいちゃん?」
この娘とはできないのかもしれない。なつは身を起こしてしばらく僕の様子を見ていたが、そのうちすたすたと歩いて部屋の電気を消した。
「もう、寝ようよ」
僕は薄い闇の中で彼女の表情を見た。いつものなつだった。彼女は僕の手を取った。
「俺、風呂入ってないんだけど」
「明日の朝入ればいいじゃん」
僕は服を着替えて、ロフトで彼女の隣に横になった。
「ごめん」
「何が?」
「途中でできなくって……」
彼女はちょっと笑った。
「初めて。せいちゃんが何かできないところみたの」
「どういう意味?」
「だって、勉強はずっとできてたし、運動は一通り人並みにできるじゃん。何かできなくて困っているところ見たの初めてかも」
「……」
「人間うまくいかないことだってあるよ。ときどきはね」
なぐさめてもらった。
「あのさ、その服どうしたの?」
「なんで?」
「なんかいつもの好みと違うなって思って」
「……買ったの」
「自分で?」
「うん」
夏美
わたしは初めて自分で図書館へ行って、専門書を検索して読んだ。難しくて結局役に立たなかったけど。両親も喜ぶだろう。娘が珍しく勉強しているのを知って。だけど、その内容が勃起不全となると、話は別かもしれない。表紙をほかの人に見せられない。それに借りられない。こっそり棚でみつけてこそこそ隅っこで読んで、そしてさっぱりわからなかった。わかったのは一つだけ。男の人って結構繊細なんだなってこと。もう一個幼少時のトラウマについて書かれた本もいくつか読んだ。そして、迷路に迷い込んだ。
それは彼の問題であって、わたしの問題ではない。他人であるわたしにできることってなんかあるんだろうか?
自分は生まれてから今までの間に何度母親に抱きついてきただろう?小さい頃はいつだって、一日に何回も母親にくっついていたと思う。それができない生活なんて想像がつかなかった。せいちゃんは、優しくて穏やかで、だからそんな秘密があるなんて全然、そばにいたのに知らなかった。きっと隠して生きてきたんだろう。そんな自分を恥に思って。泣きながら、わたしの家を出て行った彼を思い出した。胸が痛んだ。心から。
でも、わたしに何ができるんだろう。考えはそこに戻る。彼のためにわたしは何ができるんだろう。自分がとても無力に思える。
***
「ねぇ。せいちゃん」
夜、寝る前に、彼はいつもみたいにテレビを見ていた。
「小さい頃お母さんにしてもらいたくて、してもらえなかったことって何?」
せいちゃんの表情が消えた。顔から表情が全部消えた。
「なんでそんなこと急に言うの?」
ここですでに壁にぶつかった。最初の一歩で。でも、わたしは進む。進みたい。
「できなかったことを今からしよう。わたしがせいちゃんのお母さんの代わりになるから」
それが、わたしの頭で考えたわたしなりの答えだった。
「思い出したくない。それに、誰かに話したくもないよ」
すごく硬い怖い顔をさせてしまった。
「向き合うべきだとわたしは思う。もし、今日がだめでも、明日や明後日もっと未来でもいい」
彼は顔を伏せた。
「いくらなつでも踏み込みすぎだよ」
やっぱり、だめかな……。このまま今日はあきらめたほうがいいのかな。でも、今日できないことが明日できるって保証もない。きっと難しさは先延ばしにすることで軽減できない。
「一人で持っている荷物を、二人で持てないかな?」
せいちゃんはこっちを見ない。
「その代り、わたしの荷物も半分持って」
彼は顔をあげた。
「僕の心のずっと奥は、僕しかいない。そこに入り込んだ人なんて今までいないよ。そういうのはみんなそれぞれ、あるでしょ?」
「わかるよ」
「だから、STAFFONLYで入れない扉みたいなもんなんだよ」
「じゃあ、STAFFにして。あなたの」
せいちゃんは顔を手で覆ってた。しばらくそのまま黙ってた。
「生きててほしかった。無事に元気に」
え?
「僕はね、一度自殺しようとして薬を大量摂取した母親を小学生のときに発見しているんだよ」
「……」
「ひくだろ?こんなの経験した人にしかわからないし。共有なんてできないよ。なつと僕はなつが知らないだけで、こんなに違うんだよ」
ショックだった。わたしでは、この人を理解できない。でもじゃあ、この人は誰とその恐怖や悲しみを共有できるんだろう。それは、やっぱりわたしじゃないんだろうか。
「なつ?」
そのときわたしの涙は卑怯だったと思う。だって、わたしの涙は、彼のために泣いたのではなかったから。自分が彼の役に立てないことに対して悲しかったから。
「参ったな」
「ごめんなさい。わたしが泣くところじゃありませんでした」
そういって、頭を下げて、ロフトへあがってしまった。しばらくすると、彼がゆっくりあがってきた。
「ごめん。嫌な言い方しちゃったかな」
背中で彼の声を聞く。
「なつ?」
彼の声がわたしの名前を呼ぶ音が好きだ。どんな時も、例え二人でけんかしてぶつかってしまったときだとしても。彼の柔らかい声でただ呼ばれたい。わたしは彼のほうを振り返った。
「俺のことかわいそうなやつだと思ってる?今?」
「思ってないよ。ただ、悲しいの」
せいちゃんはわたしを胸元に引き寄せて抱きしめてくれた。
「女の子の涙はいつも卑怯だよ。王手までもってっても、勝負ひっくり返しちゃうんだから」
そこで、せいちゃんはため息をついた。
「それに、さっきまで自分が絶対正しいって思ってても、君に泣かれるとよくわからなくなる」
「そんなに、すごいつらい経験してて、そんなの一人でどうにかなるってならないと思うよ」
「でも、今までずっとそうしてきたし」
「……どうしてせいちゃんのお母さんはそんなことしたの?」
「実は、知らない」
「え?」
わたしは顔をあげて彼の顔を見た。
「どうして子供のときあんなにそばに寄せ付けてくれなかったのか、どうしてうちの母親は普通の母親と違うのか、どうしてある日いきなり薬をたくさん飲んで病院に運ばれたのか。全部知らないんだ」
「誰にも聞かなかったの?」
「子供だったし、聞ける雰囲気じゃなかったんだよ。ある程度大きくなったら、今度は過去の話すぎて、聞けなくなった。母親はある時から回復して普通に生活できるようになったから、それでもういいかってね。普通になった母親を見ていると、昔のころの母親のほうが嘘で、長い悪夢みたいなもんだったんだって思ったほうが楽だったんだよ」
「ねえ、せいちゃん。そういうの全部ほっておいたら、いけないと思うよ」
彼はため息をついた。また。
「結構偉そうにいうね。君も」
「ごめんなさい」
また、怒らせちゃった。目をつぶった。でも、彼は怒っているのと反対のことをした。わたしにキスをした。
「今のキスは何のキスなの?」
「緊張を解くための。争いを避けるため?かな」
素敵なキスだった。
「今晩はここまでにしておこうよ。君とあまりぶつかりたくないんだ」
わたしは折れた。仕方なく。先延ばしにしたから解決の難易度が下がるとは思ってないけど、あのキスに買収された。彼はわたしの涙に買収された。だから、中途半端なままにその日は寝ることで合意した。