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僕の幸せな結末まで  作者: 汪海妹
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転がりこめる場所












   転がりこめる場所












   夏美













「ちょっと古いですけどね。でも、駅からそんなに遠くないですし、おすすめですよ」


不動産屋さんがそういうと、


「二階はないんですか?」


せいちゃんがそういった。


「ええっと、この物件は一階しか空き部屋ないですね」

「一階じゃだめなの?」

「一階は誰でもベランダとか入れるじゃん。のぞきとか下着ドロとか出るんだよ」

「え!」

「さっきみた部屋はここまで古くないし、二階の部屋だったじゃん」

「でも、家賃が一万高いんだよ~」

「おじさん、どう思います?」


三月末、東京でわたしの部屋をお父さんとせいちゃんと探していた。


「うーん」

「安いほうがいいよね」

「うーん」

「安全なほうがいいですよね」

「うーん」


わたしは第一志望に落ちたけど第二志望に受かって、四月から東京で女子大生になる。


「もう、せいちゃん来ないほうがよかった」

「心配なんだよ」


結局お父さんは娘の意見よりせいちゃんの意見を聞いてしまった。


「それにあの古い方、なんか出そうだった」

「え?」

「俺、けっこうそういうの見えるし」


ニヤニヤした顔で分かった。


「もう、絶対嘘!」


ばしばしたたいてやった。


「やめろって」

「仲いいですね。ご兄弟ですか?」


不動産屋さんがいう。こんだけ顔似ていないのに兄弟はないでしょう、と思っていると、お父さんが


「いとこみたいなもんです」


といった。


「清一君のところからも近いよね。ここ」

「うーんと、乗り換えあるけど三十分くらいです」

「じゃあ、安心だね」

「なんか、保護者みたい」


お父さんとせいちゃんは顔を見合わせてちょっと笑った。


桜がもうそろそろ咲きそうだ。三十分。一年間ほとんど会えなかったけど、これからは三十分の距離だ。嬉しくてたまらなかった。夢を見ているんじゃないかと思った。


「散歩がてら、街の様子みてみようか」


コンビニがあって、ケーキやさんがあって、ちっちゃなパン屋さんがあって、本屋があって……。


「せいちゃんの家ってどっちのほう?」

「うんと、この道をずっとまっすぐいってちょっと曲がったところかな?」


彼は手をのばして説明する。わたしはせいちゃんの横顔をみつめた。こんなに近くでみつめるのは久しぶりだった。


「ん?どうしたの?」

「なんでもない」

「お~い」


お父さんが前のほうで手をふった。


「なんか食べに行こう」


それを聞いて、二人でお父さんに向かって歩いた。


***


「ねえ、お父さん」


ホテルで父親と二人になって、それぞれのベッドの上に転がって電気を消したときに声をかけた。


「なに?」

「東京行くのお母さんに反対されたとき、味方してくれてありがとう」

「ああ、あれね」


お父さんはのんびりとした声を出した。


「なんかあのとき、『無理にいってもわたしは言うこときかない。君の娘だもの』ってお母さんに言ってたじゃん?あれ、どういう意味だったの?」

「そんなこと言ったっけ?」


お父さんはとぼけた。


「教えてよ」


わたしはベッドに起き上がってまくらを抱いて座り込んだ。


「お母さんって、若い頃なっちゃんにそっくりだったよ。これって自分で決めると頑固で一途でね。何度もおじいちゃんとおばあちゃんとけんかするんだけど、絶対曲げない。ただ、自分で決めたことだけは途中で投げ出さないし、最終的にはやり遂げちゃうんだよね」

「そういうところが好きなの?」


はっはっはっはと父は笑った。


「親をからかうのはよしなさい」


時計が十二時を指した。


「なっちゃんにもお母さんの強さがある。お母さんは君のことをまだ幼いって思いたいみたいだったけど、お父さんは信じてあげるべきだってお母さんに言ったんだ。あなたの娘だからきっと大丈夫。親が信じてあげないとってね」

「お父さん……」

「ただ、危ないことはしないでね。こういってもお父さんも内心はなっちゃんを一人で東京なんて離れたところにおくのは、心配でたまらないんだ」


それだけいうと父はもう黙って寝てしまった。


***


「本当についてくるの?」

「コーヒー飲みたいんだよ。ちょうど」


お店のドアをあける。からーん。ドアの上についた金色のベルがいい音で鳴った。ずっしりとしたドアを抜けると、焦げ茶色の木を基調にした落ち着いた店内が目に入った。そんなに大きな店じゃない。カウンターといくつかテーブル席があるのみだ。カウンターの上にはきれいな花が飾ってあった。


「いらっしゃいませ」


三十代くらい?ふわふわとカールした髪をきっちりと一つに束ねて白いシャツに黒のエプロンをかけたバリスタスタイルの女の人が、カウンターの中から声をかけた。


「お好きな席にどうぞ」


二人で窓際のテーブル席に座った。


「メニューです」


グラスに入った水とメニューを置いて、女の人はさがった。


「ちょっと高いね」


と言いながらせいちゃんを見ると、じっとさっきの女の人の後ろ姿を見ている。


「なに?せいちゃん、なに見てるの?」

「ああ、制服」

「なんで?」

「いや。短いスカートとかじゃないかなってさ」


さっきの女の人はくるぶしまでのパンツをはいていた。


「バイトって床に物が落ちたりしたら、しゃがんだりかがんだりするじゃん。そういう時に、のぞこうとするやついるんだよ」

「そんな人いないよ」

「いや、いるって。なつが知らないだけ」

「もう、心配しすぎだよ」


最寄駅から大学へ向かう坂道の途中に素敵なカフェがあって、バイトを募集していた。生活費で奨学金と仕送りから賄えない部分はバイト代が必要で、申し込んでみようかなっていったら、店の下見をしようといってせいちゃんがきた。


「何にする?」

「この一番高いの」


ぷっとふきだした。


「コーヒーの味なんてよくわからないんでしょ?もっと安いのにしといたら?」

「お決まりですか?」


せいちゃんは店員さんを見上げた。


「コーヒーとかよくわからないんですけど、何かおすすめありますか?」

「普段はどんなもののまれますか?エスプレッソ、カプチーノ、カフェオレ、ブレンド、アメリカン?」

「ブレンド?かな」


本当はインスタントだと思うけど。


「ちょっと珍しい味のコーヒー、お持ちしますよ。そちらの方は?」

「えっと、じゃあ同じ物を」


お姉さんはにこっと笑った。


カウンターの奥から豆を挽く音がして、その後何とも言えないいい香りがしてきた。しばらくすると、店員さんがトレイの上にコーヒーを二つのせて持ってきた。


「どうぞ。お好みでお砂糖をお入れください」

「うわー。かわいい」


せいちゃんのカップとわたしのカップは違った。わたしのには白地に小鳥が飛んでいてところどころに花模様があしらわれていた。カップの縁と持ち手は金縁で飾られている。


「せいちゃんのも見せて」

「おい、慎重に扱えよ。これ、きっと高いぞ」


わたしのカップに比べてもっとシンプルなすとんとした形で、白地に上のほうに濃紺の帯がぐるっと入っていて、その上に金色で星がちりばめられていた。


「これもかわいい」


向かい合ってコーヒーを飲んだ。外の喧騒がちょっと遠のいて、お店の中の柱時計がかちこち鳴る音が不意に近くなった。


「なんかすごいのんびりした。そんな長い時間いたわけじゃないのに」


お金を払ってお店を出てから、駅まで並んで歩く。


「決めた。わたしバイト申し込んでみる」

「あんな高い食器、なつ、扱えるの?」

「……。そんなに高いの?」

「たぶん」


***


「そうね、何人か面接受けたけど、あなたが一番よさそうね。とりあえずはたらいてみよっか」

「え?こんな簡単に?」


お店に入ってきて十五分くらいしかたっていなかったと思う。


「簡単じゃないですよ~。あなたの前に何人か落としていますから。小野田さんは気に入りました」

「ええっと、どこが?」


ちょっと聞いてみたかった。わたしのどこが気に入りました?


「さあ、なんとなく。勘です」


あの日、わたしたちにコーヒーを入れてくれた店員さん(実は店長さんだった)はニコッと笑った。 


「わたしの勘はあなどれませんよ。わたし、店長のえりです。みんなえりさんって呼ぶの。よろしくね」


***


「結局、あそこでバイトすることになったの?」

「うん」

「じゃあ、あそこにときどきコーヒー飲みに行っていい?」

「あそこ学生がコーヒー飲むような店じゃないよ」

「ふうん」


せいちゃんは、テレビに視線を戻した。せいちゃんは最近、夜急に電話をかけてきて、当たり前のようにうちにきて、冷蔵庫開けて、テレビの前に座って、気づいたらソファで寝てしまう。一度やったら癖になってしまったみたいで、ときどき来るだけでなく来たら必ず泊まるようになってしまった。


「せいちゃん、朝だよ」


もぞもぞと起き上がると、しばらくそのままぼうっとしている。


「歯もみがかないで、おふろも入らないでねちゃうんだから」


彼は朝の光の中でゆっくりのびをする。


「じゃあ、歯ブラシ買っといてよ」


それじゃあ、まるで同棲しているみたいじゃない。


「女の子の部屋に泊まったなんて、彼女にばれたらまずいんじゃない?」

「いや、彼女とかいないし」


せいちゃんはテーブルにのってたヨーグルトに手をのばす。


「顔くらい先に洗ったら?」


はいはいといって洗面所にいく。わたしは冷蔵庫からもう一個ヨーグルトを出した。


「なつ、タオルここにあるの使っていいの?」

「それはだめ」


わたしが昨日、おふろの後に使ったタオル。新しいタオルを出して渡す。顔を洗うと、彼は座ってヨーグルトを食べだす。


「彼女いないの?」

「ふられちゃった。この前」

「ふうん」


せいちゃんは彼女と長続きしたことがない。












   清一











なつは知らないけど、この前のふられ方は結構すごかった。


「中條君」


振り向きざま、ばっしーん。火花が散って、手に持ってたパンが床に落ちて滑って行って、僕が尻もちをついて、隣にいた同じクラスのやつがおい、大丈夫かよっていう声が聞こえて、その視界の中に肩をいからせて去っていく女の子の姿があって、そして僕は学食で女の子に平手打ちされた男として有名になってしまった。


「ねえ、中條君。あんた何やったの?聞いたわよ。学食できれいな子にひっぱたかれていたって」


ゴシップ好きの相澤さんが早速噂を聞きつけてやってきた。僕は静かな生活を好む人間なのに。ひっぱたかれた痛みよりも、人前でやられたことで学校中の噂になってしまったことのほうがつらい。


「彼女が過激すぎるんだよ。たいしたことしてない」

「みんなは子供おろさせたんだって噂しているよ」


どうしてそうなるんだ。泣きたい。


「で、どうなの?おろさせたの?」


こころなしか相澤さんは楽しそうだ。


「誕生日忘れてて、バイト入れてて、で、バイト交替してもらって会いに来いって言われてたのを、もう一回忘れたんだよ」

「……」

「女の子って、なんでそんな程度でここまで怒るんだろう?」

「うーん。平手打ちに値するかどうかは別にして」

「平手打ちじゃなくて公開処刑」

「公開処刑に値するかどうかは別にして」


相澤さんは律儀に言い換えてくれた。


「やっぱ、彼氏としては零点だよ、君」

「……」

「どうせ、平手打ちされたあと、怒らせてごめん的なフォローの電話も入れていないし。このまま別れる気でしょ?」

「……」

「悪かった、とか、反省してる?」

「……あんまり」

「つまり、どうでもいい子な訳だよね。中條君にとって」

「……はい」


なんか俺今、めっちゃ説教受けてるな。


「もう、そういうどうでもいい恋愛するの、やめたら?」

「……」

「そういえば、あの中條君がせっせとつくしてた女の子って今どこにいるの?」

「また、その話?」


相澤さんはよくなつの話を聞きたがる。


「大学合格して、今年から東京にいるよ」


ふうん。相澤さんはにやにやした。


「時々、会ったりしているの?」

「時々ね」


本当は、時々ではないんだけど。


「その子とはやっぱり付き合わないの?」

「だからそういうのじゃないよ」

「でも、好きなんでしょ?」

「そういう好きじゃないから」


ふふふふふと、相澤さんは笑った。


「中條君って、その子の話になると妙にむきになるわよね」

「相澤さん、俺のことからかって遊んでいるでしょ?」


相澤さんはふいにしんみりとした顔をした。


「女の子ってね、高校生から大学生になると、一気に大人っぽく変わるのよ。男の子の比じゃなくさ」

「うん」

「だから、うかうかしているとあっという間に他の男の子に横からかっさらわれちゃうよ。お兄ちゃん役確定でいいの?」

「ええっと……」

「しっかりしろよ。忠告はしたからね」


そういって彼女は去っていった。


***


なつが東京に来て僕の生活は変わった。僕には気軽にころがりこめる場所ができた。約束して待ち合わせてではなく、自分が会いたいときじゃないときに、電話で呼び出されるようなのでもなく、帰り道にふと人恋しくなって、電話して会いに行くような。高校生のころまでは、なつが呼ばなくても僕の部屋にいた。今度は僕が呼ばれなくてもなつの部屋にしょっちゅう入り浸った。そしてあるとき、部屋で寝てしまった。気づくともう薄明るくて、ソファで縮こまっていた僕の身体にはタオルケットがかかっていた。体を起こすと目の前でなつがかわいい顔で寝てた。


本当は相澤さんに言われなくてもわかっていた。友達としての境界線を僕が越えてしまっていることを。妹だと呪文のように自分に言い聞かせ続けてきたことを。思えば、あのとき僕の中には二人の僕がいて、1人の僕はある程度の距離を持って彼女と関わろうとしていて、もう一人の僕は彼女をほしがっていた。その本能のままに進もうとする僕を、もう一人の僕は恐れていて、思い切りぎゅっと手綱をしめているんだけど、もう制御がきかないんだ。












   夏美













外は雨が降り出した。さっきまでいい天気だと思ったのに。天気予報を注意深くみない人たちは傘を持っていなくて、サラリーマンはかばんを頭に駅の方へかけていく。ぼんやりとそれを眺めていた。


「どうしたの?ぼんやりしちゃって」


えりさんに見られた。


「すみません」

「当ててみましょうか」


雨のせいかどうか、お店の中にお客さんは1人もいなかった。


「恋の悩みでしょう?」

「え!?」

「当たったわね」

「なんでわかるんですか?例の勘ってやつですか?」

「こんなのは確率論よ。あなたぐらいの年頃の子が悩むって言ったらたいていは恋愛って決まってるわ」


えりさんはにっこり笑った。


「もう一個当ててみましょうか」


わたしは販売用のコーヒー豆を種類ごとに在庫チェックしながらえりさんのおしゃべりを聞いていた。


「あなたを悩ませているのは、いつかお店に一緒に来た男の子じゃない?」

「あれ、面接の前にお店に来たことあるの、気づいていたんですか?」


一言もそんなこと言ってなかったのに。


「うちは常連さんが多いし、あなたたちみたいな年代のお客さんは少ないからね。ばっちり覚えてたわよ」

「じゃあ、なんでそのこと言わなかったんですか?」

「あなたが言わないから、わたしも言わなかった、のかな?」


わたしは在庫チェックを終わらせて、販売用の棚のガラス戸を閉じた。


「ね、彼、彼氏なんでしょ?」

「いいえ」

「そうなの?付き合ってるみたいに見えたけど」

「そうだったらいいんですけどね」


エリさんは目を輝かせた。


「なに?なに?相談乗るわよ。今日暇だし」


エリさんは新しく仕入れた豆をひいて、コーヒーを淹れてくれる。時々なにかを確かめながら進む彼女の作業は、よどみなく美しい。彼女はコーヒーを淹れているときが一番きれいだ。


「彼、幼馴染なんです。小さい頃からお互いの家を行き来するような。わたしが今年から東京出てきて、で、時々二人で会ったり、彼が家に来たりするんですけど、なんか最近わたしたちの関係って一体なんだろうって、よく分からなくて」

「女の子の一人暮らしの部屋にあがるなら、それは彼氏じゃないの?普通」

「普通はそうなんですけど、なんか彼にとっては昔お互いの部屋を行き来していた時の延長なんですよね。きっと。何もしないで寝ちゃうし」

「あら、それって朝までいるってこと?」

「……はい」

「それで、何もしないし、彼氏でもないの?」

「……はい」

「かなりの困ったちゃんね」

「……」

「そんな男の子がいたら、小野田さんに彼氏ができないじゃない。家から閉め出したら?」


わたしは想像した。当然上がれると思って電話してくる彼を断ったら?彼がすごすごと踵を返して帰ってく映像は、胸が痛んだ。


「わたしには閉め出せません」

「小野田さんは彼のことが好きなのね」


わたしはエリさんが淹れてくれたコーヒーを口に含んだ。心地よい香りとほのかな苦み。


「でもね、その彼も小野田さんのこと好きだと思うわよ」

「そうですか?」

「あなたの所にせっせと通ってくるのは、あなたのそばが安心するからでしょ?」

「じゃあ、なんで何もしてこないんですか?」

「好きなのに、一線越えてこないのは、あなたを失うのがこわいからよ。拒絶されるかもしれないって不安なのかもしれない」


そんなふうに考えたことなんて一度もなかった。


「男の子って……」

「そんなもんよ。男なんてすっごい臆病なのよ。本当に好きな子に対しては、ね」


わたしはカップの中のコーヒーを見ながら思った。なんか、大人だなぁ。エリさん。


「わたし、どうすればいいんでしょう?」

「小野田さんはどうなりたいの?」

「普通につきあいたいです。彼氏彼女として」


そうねえ。えりさんは人差し指をあごにあてて考えた。


「まあ、あなたに他の男の子の影がないからいけないんじゃない?ほっとくと他の男のものになっちゃうって思ったら、一線 こえてくるかもよ。」


***


「ねえ、着替え買っといたげたし、シャワー浴びてきなよ」


床に座って雑誌を見ていたせいちゃんがこっちを見た。


「どうせ今日も帰らないんでしょ?」

「ああ、ありがとう」


せいちゃんは洗面所に向かう。


「それとこれ、タオルとはぶらしね」


せいちゃんがシャワーを浴びてる水音を聞きながら、冷蔵庫から白ワインを取り出した。栓をぬいて、グラスになみなみとついで、ぐいっと飲んだ。そんなにお酒強いわけじゃないけど、飲まなきゃやってらんない。タオルで頭をふきながら、彼が出てくる。


「何?酒?」


びっくりした顔で横に座る。彼の髪からわたしと同じシャンプーのにおいがした。


「どうしたの?酒飲むなんて珍しくない?」

「つきあってよ」


準備しといたグラスにとぽとぽついだ。彼は黙ってわたしに従った。


「なんか、怒ってる?」

「いいえ」


そのまま二人で黙ってテレビを見る。二杯目をあけて三杯目をつごうとしたとき、止められた。


「そんなに強くないだろ。もうやめとけよ。気持ち悪くなるよ」


わたしはボトルをおいた。


「どうしたの?今日なんかおかしいよ」


せいちゃんが普通に心配している。


「わたし、今日言いたいことがある」


思わず正座してしまった。勢いで。


「わたし、もう十九歳なった」

「はい」


え~と、どんな風に話そうと思っていたんだっけ?頭の中が急にぐるぐる回りだした。


「今まで残念ながら一回もそういう機会なかったけど、わたしも普通に彼氏とかつくって、世間の女の子がしてるようなことがしたいの」

「……うん」

「でも、男の子ってせいちゃん以外よく知らなくて怖いんだよ。だから」

「だから?」

「練習台になって」

「練習台って何の?」


いつのまにかせいちゃんも正座している。


「言わないとわからない?」

「……冗談でしょ?」


わたしはせいちゃんをじろりと見た。酔いのせいで目が座っていたかもしれない。


「冗談じゃありません」


わたしは深呼吸した。今、酒臭いかもしれない。


「あのね、せいちゃんがどう考えているかわからないけど、わたしたちもう中学生でも高校生でもないんだよ。わたしの部屋は来たいときに来て泊まれるホテルじゃないの」

「……うん」

「いくら居心地いいからって、ちょくちょく来られても彼氏でもない子の歯ブラシを家に置くことなんてできません」

「はい」

「だから」


ここでもう一回息を吸った。


「だから、わたしのことを友達だって思っているんなら、こんな風に家に泊まりに来るのは今日で最後にして」


言ってしまった。本当は言いたくなかった。例え恋人としてではなくても、彼と二人っきりで一緒にいられる時間がとても好きだったから。せいちゃんは困った顔をした。


「俺、ほかの子とはできてもなつとは無理」


この一言でわたしはかっちーんときてしまった。ワインをたぷたぷと注いで、一気に飲み干した。


「わかった。じゃ、もう帰ってもらってかまいません。まだ終電あるでしょ」

「……」


せいちゃんは動かない。


「わたしにだって電話かければ一晩くらいつきあってくれる知り合いいるもん」

「なつ……、お前酔ってるよ。そんなやついないだろ?」


もちろんそんな知り合いいない。はったり。


「せいちゃんが知らないだけ。わたしにだっているよ。男の子の知り合い」


わたしは携帯を取り出して、連絡先を検索するふりをした。せいちゃんが携帯を取り上げた。


「何するの?」

「ほかの男に電話かけるなよ」

「自分は他の子とつきあうのに?わたしは誰ともつきあわないで、あなたのそばにいないといけないの?」


せいちゃんはとても悲しそうな顔をした。


「なつ、俺本当はなつが思うような人間じゃないと思う。本当の俺見たら、きっとなつは俺のこと好きにならないよ」

「どうして?せいちゃんのことだったら全部知ってる」

「俺は……」


静かな夜だった。静かで穏やかな夜だった。二人で話している話し声が遠くまで響いていきそうなほど。わたしは知らなかった。彼が言い淀んでいる先にある話の内容を。


「俺はね、なつ。一番大好きな人、お母さんに抱きしめられたことがないんだよ。生まれてきてからずっと、ただの一度も」


彼の透明な声が、夜に響いた。


「だから、愛し方も愛され方もよくわからないんだ」

「せいちゃん……」

「俺はすごいいびつな人間なんだよ。隠して見せなかっただけ」


彼は弱弱しく微笑んで見せた。


「子供がね、自分のお母さんに拒絶されるのって、すごく悲しくてつらいことだと思うんだ。でも、俺はそれをはっきり覚えていないんだ。物心ついたときには、もう僕は母には話しかけても近寄らないようになっていたから」


わたしはせいちゃんの真一文字に結んだ口を思い出した。めったに笑わない子供だったせいちゃん。


「おばさんはせいちゃんを嫌ってるわけじゃないよね?」


とても傍目から見ていてそういう風には見えなかった。


「わからない。でも、積極的に愛された記憶はないよ。ある一定の距離を持ってお互いに接している。強く叱られたこともないし。なんというか、無関心なのかな?母さんは僕に対して。きっと関心をもってもらいたくて近づいたんだと思う。僕が思い出せないくらいの昔に。そして、拒絶された。だから……」

「だから?」

「だから、君に近づきたくても、近づこうとするととても怖くなるんだと思う」


ずっと近くにいたけれど、見ていたけれど、好きだったけれど、せいちゃんにそんなことがあって、そんな問題があるなんて、


「ごめん。全然知らなかった」


でも、もし知っていたとしても、何ができたろう?深く傷ついている彼に何がしてあげられただろう?


「言いたくなかったんだよ。気づいてもほしくなかった」

「ごめん」


わたしが言わせてしまった。彼をこじあげてしまった。


「みっともないだろう?だから俺はなつが好きになるような男じゃないんだよ」


彼の顔は、あの隣に引っ越してきたばかりの男の子の顔に戻っていた。暗い悲しい顔に。


「僕は君にふさわしくないと思う。ちゃんとわかってたんだ。でも、愛し方がよくわからなくても君のそばにいたかった。友達としてか、お兄さんとしてか、なんでもよかったんだ。いつまでもそういうのが続かないってのもちゃんと……」


彼の眼から涙が一筋こぼれた。


「わかってたよ」


彼はうつむくと、そっと手のひらでその涙をぬぐった。それから、静かに彼の荷物を拾ってあるいた。そして、玄関で靴をはいた。


「せいちゃん?」

「もう、ここにはこない」


え?一瞬耳を疑った。今、なんて言ったの?


「さようなら。なつ。ありがとう」

「待って!」


彼はぱたんと外に出てしまう。わたしが彼を追って外に出ると、彼は外階段をひとつひとつ降りていくところだった。


「せいちゃん」


そういって歩いて気づいた。わたし靴はいてないし、とても外出られるような服着ていない。急いで上着を引っ張り出して着て、スニーカーに足突っ込んで外に出る、階段をおりて道の左右をみる。せいちゃんの姿はもうそこにいない。駅のほうに向かって走る。角を曲がるとやっぱりいない。


(どこいっちゃったの?)


走っても、走っても、彼はどこにもいなかった。わたしは自分が言った不用意な言葉のせいで何が起きたのかわからず、パニックになっていた。たぶん大丈夫。そんなひどいことになったりしない。だけど、彼はもう来ないと言っていた。そんなのきっと嘘に決まっている。


そういう暗い不安が心の中に頭をもたげ、どの角を曲がっても、同じところを巡っても彼がみつからないたびに不安は重くなっていく。そして、わたしは走るのをやめた。電話をかければいい。きっと明日になれば、彼も今日言ってしまったことを言いすぎだったと思って、わたしたちはきっと元に戻れるはずだ。だって、わたしたち今まで何年一緒にいたのよ。彼がわたしの生活からいなくなるなんてありえない。そして泣きながら家に帰った。でも、それから、彼は彼の言葉通り、うちに来なくなったし、わたしからの電話に出なくなった。


***


わたしはあの日の翌日、狂ったように何度も彼に電話をかけた。すべてに彼は出なかった。その回数を重ねるごとに少しずつ、自分がしてしまったことの愚かさを噛みしめた。わたしは彼にとって唯一の安全地帯みたいなものだったんだ。昔も今も。それなのに、わたしは彼からそれを奪ってしまった。今、彼はどこで何を思っているんだろう?一人で心細くしてはいないだろうか。


彼が最後に見せたあの、子供のころと同じ表情が、わたしの胸をしめつけた。彼の笑顔は長い時間かけて二人で取り戻したものだったのに。それをまた自分の手で砕いてしまって…。わたしは一体何がしたいんだろう?こんなことじゃなかったはずだ。わたしがしたかったのは、ただ、彼と一緒にいたかっただけなのに。


どうして彼氏彼女のような名前とか形にこだわってしまったんだろう?どうして彼の気持ちを無理やりに確かめるような乱暴なことをしてしまったんだろう?友達だろうが恋人だろうが、彼がわたしを必要としていることだけはわたしだって聞かなくてもわかっていたはずなのに。どうしてもっと待てなかったんだろう?それは自分がかわいかったからだ。自分の気持ちしか考えていなかった。自分が安心したかったんだ。自分が満たされたかった。もっと。


ずっとせいちゃんはわたしを大切にしてくれた。自分のことのように勉強を見てくれたのも、すてきな初デートをくれたのも、わたしが好きだったからなのに。毎日のように家に来てぐっすり寝てしまうのも。ただ、受け入れてあげればよかった。何も言わずに。彼がわたしを好きだなんて、そんなことありえないと思っていたから、もしありえるなら、彼の口からどうしてもききたかったんだ。だから、結局、この世で一番傷つけたくない人を傷つけて、そしていま、一人ぼっちにしてしまった。


わたしは毎日彼に一回電話をかけた。いつか出てくれると信じて。それが一週間になり、二週間になった。


人間は深海には住まないけれど、あの頃の、せいちゃんと連絡が取れなくなったころのわたしは、まるで、深い海の中で過ごしているような気がしていた。周りの音が遠く聞こえて、自分はいつもどんなに明るくてきらきらとした場所にいても、光を感じられなかった。ずっとこのまま、暗い中をうごめくように月日を過ごすように思えていた。そのくらい、わたしの生活からせいちゃんが消えてしまうと、何もなかった。自分には輝いていると思えるものが。



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