あまり笑わない男の子
あまり笑わない男の子
夏美
「お母さん、相談したいことあるんだけど」
しばらくたったある日、わたしは夕食後の片づけが一段落するころを見計らって、母に声をかけた。父親は今日は残業でまだ帰っていない。
「何よ。改まっちゃって、果し合い申し込む武士みたい」
なんだ?その例え。まあ、それはいいとして本題に入る。
「わたし、しょ、奨学金もらって、東京の大学行くからっ!」
ちょっとどもった。タオルで手を拭きながら、こっちへ来た母は、その言葉に凍り付いた。
「は?東京ってあんた何言ってんの?」
「もう決めたから」
学校からもらってきたパンフレットをテーブルに並べた。
「奨学金ってあんたみたいな成績じゃもらえないでしょ?」
「働き始めてから、自分で返す奨学金なら、もらえるかも」
母はパンフレットに目を落とした。
「この利息付の奨学金?」
「そう。最高月六万六千円」
母は一瞬だけしんと静かになった。
「夏美」
その後、母親の顔がきりっとした。やばい。本気モード入った。
「あなたよくわかっていないけど、今、借金しようとしてんのよ。借金ってのはね、一回借りたら社会人なってから何年もかけて返さなきゃいけないのよ。それができんの?」
わたしはぐっとお腹の下のほうに力を入れた。
「……できます」
母はため息をついた。
「お母さん、小さい頃からあなたのこと見ているからよく知ってる。あなた社会に出てばりばり働きたいって夢持ってるわけじゃないよね?勉強が特別好きで打ち込む子でもないよね?それなのに、どうして家から通える学校じゃなくて、東京なの?」
ううっ何も言い返せない。
「清一君が東京へ行っちゃったから?」
思わず顔を伏せた。目をみせちゃだめだ。心が読まれる。
「そんな不純な動機じゃないもん」
「それを不純だなんて、お母さんは言いません。ただ、同じ高校についていきたいっていうのと、借金までして東京についていくのはスケールが違うわよ」
だめだ。このままだとこの話流されちゃう。
「後悔したくないんだよ。今、東京行かなかったらわたし一生後悔すると思う」
「仙台で学校出てから、就職で東京行けばいいじゃない」
「それじゃ間に合わないよ!」
母はその言葉で完全に切れた。
「危なっかしくてみてられない。こんな状況でいいなんて言う親なんかいませんよ」
涙が出そうになったがこらえた。お母さんに泣き落としはきかない。
「あんたまだ子供なの。お母さんだってなっちゃんに本当に必要だって思ったら、大変でも賛成してあげるわよ。でも、本当に奨学金までもらって東京へ行く必要があるの?今、清一君が行っちゃったばっかりだから、そういう気持ちなだけで、しばらくしたら気が変わるんじゃないの?」
「そんな思い付きで言っているんじゃないよ。去年からずっと考えて考えて、今やっとお母さんに言ってるんじゃない!」
びー。結局泣いてしまった。絶対泣くまいと思ってたのに。
「……困ったわねぇ」
母は頬杖をついて、しばらくわたしの様子を眺めていたが、
「わかったわよ。ほら、もう泣かないの」
ティッシュの箱を差し出してきた。ん?お母さんに泣き落としが効いた?ちーん。鼻をかんだ。
「根性見せたら、考えたげてもいいわよ」
まるでタイマン張ってるスケバンのような迫力でわたしをにらんでいる。
「次の期末試験で学年百番内入んなさい」
「はぁ~!?」
わたしがいつもうろうろしているのは、百五十番くらいなんですが…。ちなみにうちの学年は約二百人くらいです。
「そのくらいできないんだったら、もうあきらめなさい」
母はそう宣言すると、有無を言わさず部屋を出てってしまった。
期末試験は夏休み前、約四か月。せいちゃんに一対一で教えてもらってそれでも百五十くらいしか取れないわたしが、一人で一体何ができるんだろう?取りあえず茫然自失。
そのとき、携帯にメッセージが入った。見るとせいちゃんからだった。
『パソコンのメール開ける?』
リビングのパソコンを立ち上げて、自分のメールを開く。添付ファイルを開くと、せいちゃんのメガネをかけていない写真だった。
『もしかして、コンタクトにしたの?』
『正解』
もう一回写真を見る。ちょっと雰囲気違うな。やっぱり。
『こっちのほうがやっぱりかっこいいよ』
『ありがとう』
少し元気が出た。
『今日、お母さんに東京の大学行きたいって言ったら、学期末で百以内に入ったら許したげるって言われた』
メッセージ送ってしばらくすると、携帯が震えた。出ると、せいちゃんの声が聞こえた。
「なつ?……大丈夫?」
せいちゃんはずっとわたしの勉強を手伝ってきているので、今回のミッションがどんだけ難しいのかわかっている。
「わかんないけど、がんばる、しかないし……」
せいちゃんは無言だった。
「今、家?」
「いや、バイトの休憩中」
「バイト始めたんだ」
「うん。ファミレスのキッチン」
彼の後ろのほうで何か声がした。
「ごめん。もう行かなくちゃ。後で俺のメールに前期の試験範囲大体どこまでになるのか送っておけよ。勉強方法考えてやるからさ」
もう一度後ろのほうで声がした。
「ごめん。もう切るね」
数日して、鬼のように長いメールが届いた。それぞれの科目に対する予習、復習、テストで出そうな所とか、とにかくいっぱい。横で見ていた妹の茜が、
「大学生って暇なの?」
と、つぶやいた。
「せいちゃんってほんと、姉ちゃんに甘いよね」
「え?なんで?」
「こんだけいい先生ついても、姉ちゃんの成績あがんないの、それだけさぼってるってことじゃん」
ムカつくけど事実なので言い返せない。
「何よ。あんただってわたしと似たようなもんじゃん」
「あ~、わたしは別に勉強とかできなくてもいいし」
茜は美容師志望だった。昔から。
「あんたね、美容師だって頭皮とか髪の状態とかさ、温度の管理とか、数字使った勉強関係してくるって聞いたことあるよ!」
「え?そうなの?」
でたらめ言っただけだけど、ムカつくから。
取りあえず、いつもだったらこの長いメールを書いてくれたことに感動した後、読みたいとこしか読まないんだけど、今回はちゃんとプリントアウトして、ポイントにマーカーして持ち歩くことにした。今回だけは付け焼刃ではどうにもならない。テレビ見られなくても、漫画読めなくても、このはちゃんとおしゃべりたくさんできなくても、ゲームできなくても、学校帰りに買い食いできなくても、だらだら寝られなくても、せいちゃんにずっと会えなくなるよりましだ。今年会えなくても、来年は会えるかもしれない。いや、会える。同じ空の下に行くんだ。(厳密にいえば今も同じ空の下にいるけど)
せいちゃんのわたしに送ってきたそのやたら長いメールは、彼の一番の美徳と言ってもいい忍耐強さの証明のようなものだった。英語では『動詞の活用が苦手だから、単語覚えるときには合わせて練習するように。それととにかく単語量を増やしてください』と書いてあって、これは今までに何百回と言われていた。数学では、高一のどこでつまづいたせいで関連する問題が弱いから、そこに戻って復習しないとだめだと書いてあった。これはテストが終わったあとに、一緒に復習しようといわれたけど、テストが取りあえずOKだったから言うこときかなかった。
このメールの最後のところが好きだった。
『なつは自分で自分のこと、勉強できないって思っているみたいだけど、俺の見るかぎり理解力に問題はないと思う。ただ時間をかけて覚えることが苦手で何年もきていて、問題を解くために必要な知識が不足しているんだと思う。だから、あきらめないで自分を信じて頑張ってください。なつが東京に来る日を楽しみにしています。 中條清一』
最後にフルネームが入っているところが、何かいつもと違って改まっていてよかった。
わたしはそれからしばらく、今までの自分を捨てて猛烈に勉強し始めた。生まれて初めて予習と呼ばれるものまでした。授業で理解できなかった内容は授業後に先生に質問したりさえした。担任の先生は感動し、クラスメートは驚いていた。度肝を抜かれたように。そしてわたしはクラスの受験勉強のマスコットのように、使われた。(みんなも小野田を見習いなさい。例え今までできていなかったからといってここであきらめることはない。まだ間に合う!)先生はわたしが猛烈に勉強し始めた原因が好きな男の子を追いかけて東京へ行きたいからだって知ったらなんて言うのかな?
せいちゃんは時々電話をくれた。わたしがねだると、東京での写真をメールしてくれた。わたしは毎日家に帰るとまずメールが来ていないか確認するのが日課になった。今日はあたりの日で、わたしは添付ファイルを開いた。友達と映っている写真だった。そして最初どれが彼だか分らなかった。髪を黒から茶色に染めていて、雰囲気が明るくなって、別人のように見えたから。写真は学食で撮られたようだった。テーブルの上にトレイと食器がおいてあって、せいちゃんは椅子に座っていて、隣の男の子が思い切りせいちゃんのほうに体のりだしてピースして笑っていて、彼はその後ろで優しい顔で笑っていた。テーブルの後ろを通りすぎている女の子もトレイを持ったままカメラのほうを見て、やっぱり笑っていた。前にいる男の子は口を大きくあけて歯を見せていて、それに対してせいちゃんは控えめに笑っていた。
せいちゃんは昔、あまり笑わない男の子だった。写真を撮るというと、口を真一文字に結んで、目をぱちっと開いて、真っすぐぴんと立って写るような子供だった。だから、出会ったばっかりのころ、この子はいつ笑うんだろうと不思議だった。そして、他愛もない話だったと思う、何かの話をしていて、せいちゃんがくすりと笑った。男の子なのに女の子みたいに笑った。あのとき、わたしはうれしくてたまらなかった。どうして自分が嬉しいのかよくわからなかったのだけれど。
だからきっと、わたしはあの頃彼を笑わせるためにせっせと通っていたのだと思う。誰かが笑わしてあげなきゃと思うくらい、そのくらい、彼は全然笑わなかった。時がたつにつれて普通に笑うようになったけど、それでもその笑顔は口角が少しあがるくらいで、控えめで、口をあけたとしてもほんの少しであることが多かった。
きっと世の中には一生ピースして、口をがばっと開けて満面の笑みでは笑わないという人たちがいるのかもしれない。だけど、わたしはそんな彼の控えめに遠慮がちに出される笑顔が好きだった。何度見たって飽きることはない。彼が笑うと私はいつも心の奥がじんとして、あたたかくなった。
その夜、せいちゃんから電話が来た。
「写真見たよ。びっくりした。東京の人みたい」
「東京の人って、東京以外の人が使うことばだよね」
二人でしばらくくくくと笑った。
「なんか今まで気づかなかったけど、髪の毛茶色いほうが似合うんじゃない?」
「そうかな?」
「自分でもそう思ったから、変えたんじゃないの?」
「いや、人に勧められて」
ぴんときた。女かな?女だな。男がわざわざ他人のそれも男の髪の色なんて気にするわけないじゃん。
「彼女にでも勧められたの?」
「いや、彼女なんていないし」
周囲の女子かな?気になる。
「なつは、どう?勉強してる?」
「そればっかり」
「しょうがないだろ、受験生なんだから」
そう。色気もくそもない高校三年生だ。わたしは。
「してます」
「……」
「なんか、信じてないよね。この沈黙の感じ」
「今までが今までだからなぁ……」
そのあと他愛もないおしゃべりをちょっとしてから、電話を切った。正直せいちゃんが東京に行ってからこんなに頻繁に連絡をくれるとは思っていなかった。だから、それはすごく嬉しかったんだけど、でも、彼が電話をくれるのは彼が世話好きな人で、そしてわたしができの悪いかわいい妹のような存在だからなんだと思う。それはわたしもわきまえていた。ときに人は勘違いをしてしまう。そしてそれは致命傷になることだってあるんだ。
「わ!」
せいちゃんからもらった茶色い髪の写真をこのはちゃんに見せた。この頃わたしは彼にもらった写真を全部印刷していて、その中の何枚かは持ち歩いていた。
「これ、中條先輩?全然別人じゃん」
「すごい変化だよね」
「東京ってこわいわ~」
地方人がときどき口にすることばである。
「なんかモデルみたい。これはさすがに女の子がほっておかないんじゃない?」
「言わないで。考えないようにしているんだから……」
二人で屋上にいた。昼休み。他にもちらほら人がいる。
「本当に東京行くの?」
「うん。親に許してもらえたらだけど」
「その、もし東京まで行って先輩とうまくいかなかったら……」
わたしはこのはちゃんを見た。
「ごめん。今の言わないほうがよかった?」
彼女はばつの悪そうな顔をした。
「わたし、よく自分でもわかんないし、うまく言えないんだけど……、最近一度ね、わたしは彼にとって必要な人間なのかもしれないって思った瞬間があって、それが友達としてなのか恋人としてなのかはわからないんだけど、それがわかるまではもう逃げないって決めたの」
「なっちゃん……」
「もし、せいちゃんに彼女ができてその人のほうが彼にふさわしくて、彼が幸せだってわかったら、そのときは本当にあきらめられる気がするんだよ」
このはちゃんはわたしの話を聞いて涙ぐんでしまった。
「このはちゃん!?」
「いや、なんか心打たれたよ。なっちゃんはほんとうに一途だね」
「……そうかな?」
自分で自分のことを一途だなんて思ってみたことなかった。
「頑張ってね。応援しているから」
このはちゃんはそういって両手でわたしの手を握ってくれた。
わたしはそれからも今までにないペースで勉強を続けた。今までまじめに守らなかったせいちゃんのおすすめの方法に忠実に従った。最初はゆっくりとだったが次第に明確に驚くべき変化がわたしの頭の中で起こってきた。特に今までちんぷんかんぷんだった英語の長文の意味がつながってきたときには、魔法が起こったのかと思った。そして、中間試験があって、わたしは百二十番を取った。入学してから今まで一度もこんな席次を取ったことはない。
「まじめに頑張ってるって本当だったんだ」
「だからいつも言ってたじゃん」
「なんか俺がそばにいないほうがいいみたいだね」
なんかちょっとすねられてしまった。
「え?いやいやそれはないって。だって今回だってせいちゃんのアドバイスに従った結果だし」
「そうなの?」
「うん。そうだよ」
窓から五月の夜風が入ってくる。わたしはせいちゃんに電話をかけていた。
「折角いい結果取ったあとになんだけど、百五十から百二十にあがるのと、百二十から百にあがるのは難しさが違うよ。だから油断しちゃだめだよ。なつは油断するとすぐさぼるから」
「なんでわかるの?」
当たっている。わたしは確かにそういう人間。
「なつのことなら大体わかるよ」
「ふうん」
この言葉はちょっと嬉しかった。
「そうだ。興味ある大学しぼっておけよ」
「なんで?」
「なんでって、志望校決めないと。学校見学とかしないの?」
「考えてなかった。だって、百位に入らないとそもそも許してもらえないし」
「でも、夏ぐらいまでには決めてないと、ちょっと遅いと思うよ」
「うん」
「夏休みに東京来いよ。大学どんなとこか実際見て決めたいだろ?」
むく。寝っ転がっていた体を起こした。
「行く」
「即決だね」
「やった~!東京行ける~!」
「完全に遊びに来るつもりだな。お前……」
でも、わたしは期末で百番に入れなかった。
「お母さんお願い!」
百六番だった。
「お願いします。この通り」
「約束は約束だよね」
「でも、三年間で一番頑張ったんだよ。こんなに成績あがったの初めて」
「単に今までさぼっていただけでしょ」
うっ、そう来たか……。絶体絶命。どうしよう。
「まあまあ母さん」
そうだ。今日は父さんもいた。忘れてた。
「こんなに頑張っているのにかわいそうじゃないか」
母さんは腕組みをして、閻魔様でもこんなに怖くはないんじゃないかってくらい迫力ある顔している。くそ。負けてたまるか。
「それにこの娘は無理にだめっていっても、親の言うことは聞かないよ。君の娘だもの」
ぎりぎりわたしをにらんでいた母さんは今度は父をじろりと見る。
「どういう意味ですか?」
「どういう意味ってそのままの意味だけど」
しばらく見つめあう二人。
「あのね。この子は無理に仙台で学校に行かせたりしたら、ある日家出して東京行っちゃうよ。水商売でもしながら帰ってこなくなったらどうするの?」
お父さん、いくらなんでも水商売は言いすぎじゃない?そんな絵に描いたような転落人生誰が歩むか……。
「なっちゃん、あんたちょっと二階行ってなさい」
わたしは二階へ行って、階段の一番上から二人の様子をうかがった。時折お母さんのきんきん声が聞こえて、お父さんはそれを終始なだめている。
「なんか、久しぶりだね。こういうの」
いつのまにか茜が隣に来て座ってる。
「お姉ちゃん、本当に東京行くの?」
「お父さんとお母さんが許してくれたらね」
「すごいなぁ」
彼女は感嘆した。
「茜はずっと仙台にいるの?」
「うん。友達も家族もいるし。わたしはここが好きだから。知らない人ばっかりの大きい街ってちょっと怖いかな」
茜には悪いけれど、この子がここにいてくれると安心だ。
「東京に遊びに行ったときは、泊めてね」
「うん。いいよ」
あの下の話し合いがうまくいったらだけどね。
「なつ、久しぶり」
新幹線を降りて、改札を出ると約束通りそこにせいちゃんが迎えに来ていた。
「最初にホテルでいいのかな?荷物それだけ?」
せいちゃんは手を出した。
「いや、自分で持つからいいです。子供じゃないし」
「あのね。東京駅ってすっごい混むんだよ。荷物持って歩くのすごい大変なの。いいから貸しな」
たしかにすごい人だった。人ががつんがつんぶつかってきて、みんなイライラしていて、なんだこれはと思っているうちに前を歩いていたせいちゃんの背中を見失ってしまった。
「なつ、こっち」
よかった。迷子になるところだった。
「手つないでよ。いなくなるたび探すのは無理だよ」
「幼稚園児みたいでなんかいやだ」
「ばかか、お前は。誰もそんなの見てないって」
やだったけど、手をつないだら安心した。やっと乗り換えの電車のホームにたどり着いて、人の群れがきれたので、わたしは手を離した。
「カバン持つよ。自分で」
「このくらい持ってあげるのに」
久しぶりにあった彼はたしかに東京の人みたいだった。学生服とかじゃなくて、髪も明るくなっていて、そして、とてもすてきになっていた。じっと見ていると恥ずかしく思ってしまうくらいに。結局せいちゃんはかばんを返してくれなかったし、わたしもそれ以上言うのをやめた。
「ホテルとらないでも、うちに泊めたのに」
何を言っているんだ。こいつは。
「そんなの、お母さんに言えないよ」
「昔から知っているのに?何もしないよ。俺、信用ないのかな?」
というか、せいちゃんのこと追いかけて東京へ行くことに渋い顔しているお母さんに、その彼の家に泊めてもらうなんて言えるわけない。
ホテルでチェックイン済ました後に、部屋に荷物を置いてからロビーに降りると、せいちゃんの横に女の人がいて、そしてなんか二人でもめてた。
「あの~」
女の人がこっちを見た。黒い長い髪を垂らしていて、水色の高そうなノースリーブのワンピースを着ていて、素敵なヒールをはいていた。とてもきれいな人だった。そして彼女もわたしを頭のてっぺんからつまさきまで見回した。何?この田舎っぽい子。口に出さなくても目がそう言っているみたい。生まれて初めて女の人の剥き出しの敵意を感じた。
「あなた、中條君の後輩の子?」
それでも、彼女は薄く笑って話しかけてきた。
「わたし、鯉口っていうの。今日、中條君からあなたと会うって聞いていて、近くまで来たから寄ってみたの」
彼女からは嗅いだこともないような様々な香りがした。香水とかお化粧とか、大人の女の人のにおい。
「東京だったら、わたし案内するわよ。ずっとこっちだから中條君よりいろいろ詳しいし」
彼女の耳で大きなわっかのピアスがきらきら揺れるのをじっと見ながら、彼女の話を聞いていた。
「ちょっと」
せいちゃんが見たこともないような怖い顔をして、彼女の腕をつかんだ。彼は彼女を引っ張ってわたしから引き離した。ロビーの隅っこで二人で話しているのを一人でぽつんと眺めていた。遠目でも鯉口さんが興奮していて、せいちゃんが静かにすごく怒っているのがわかった。最後に彼女はヒールの音を高く響かせながら、ホテルを出て行った。
「ごめん。なつ。行こう」
「大丈夫なの?あの人、彼女さんでしょ?なんか怒ってたみたいだけど」
「いや、大丈夫」
「わたし、三人でも別によかったよ」
せいちゃんが困った顔でこっちを見た。
「俺がやなんだよ。彼女といると疲れるから。折角なつと久しぶりに会ったのにさ。なつに会わせる気もなかったんだ。場所だって教えてないのに誰かに聞いたみたい」
それは、それだけせいちゃんが好きだからだと思うんだけど。
「女の人って面倒くさい?」
「うーん。正直面倒くさい」
面倒くさいから高校のときは付き合わなかったけど、大学なったら面倒くさくても付き合うんだ。
「行こう」
わたしたちは出発した。今回全部で五校見学する予定だった。せいちゃんはわたしから聞いた候補の場所や行き方を調べて、見学の順番まで決めていてくれていて、わたしはただついていけばよかった。
三校見学し終わったあと、へとへとに疲れた。いつの間にかもう夕方になっていた。
「あとは明日だね」
駅のベンチに座っていると、せいちゃんがペットボトルのお茶をくれた。
「疲れた?もうホテル帰りたい?それとも折角東京来たからちょっと遊んでいく?」
「……遊んでく」
せいちゃんはわたしを東京タワーへ連れて行ってくれた。宵闇に浮かぶ赤い東京タワーはきれいだった。下までたどりついて展望台までの料金をみると、結構なお値段だった。
「いってちょっとしてもどってくるだけなら、登らなくてもいいよ」
「ここまできといて何言ってるんだよ。俺が買うからなつはそういうこと考えないでいいよ」
そういうと、言葉のとおり切符代を受け取らなかった。
「わぁ、きれい」
初めて東京を高いところから見た。どこまでもどこまでも街が切れ目なく広がって、夕方から夜へと空は刻一刻色を変えていく。
「どこへ連れて行こうかいろいろ考えたんだけどさ。時間もそんなにないし、東京を上から見るってのもいいかなと思って」
「ありがとう。久しぶりになんか気分がすっとしたよ」
「ずっと勉強しどうしだったしね。がんばったから、ご褒美」
嬉しい。頑張ってよかったな。
「そういえば、おばさん正式に許してくれたの?」
「うん、なんかお母さんすっごい怒ってたけど、お父さんが味方してくれて」
「おじさんが?」
「うん。いろいろ話してくれたみたい。その代り、年後半もちゃんと勉強しなさいって」
「そうか。よかったね」
それから、しばらく夜景をみた。ライトがきらきらまたたくのを。
「おっきい街だね」
おっきくてよく知らない街。もしせいちゃんが東京にいなかったら、わたしはこの街に出てこようなんて思わなかったと思う。この大きい街に、今わたしが知っている人は彼以外にいない。
「おなかすいた?ごはん食べにいこうか」
エレベーターでおりる。
「こっちだよ」
東京タワーから歩いてすぐのお店。
「マックとかじゃないの?」
「マックとかがいいの?」
とても大人っぽい素敵なお店だった。
「予約していた中條です」
せいちゃんがいうとお店の人が奥に通してくれた。
「わぁ」
お店の席から壁一面の窓ガラスを通してさっきまでいた東京タワーが見えた。ライトアップされた赤い塔は下から覗くと、すごく力強く見える。
「すごーい」
「すごいね」
「こんなお店よく来るの?」
「いや、来るのは初めてだよ。クラスのこういうお店詳しい子に教えてもらったんだ」
それから、オーダーをするとき、ちらっと値段をみてびっくりした。周りを見ても、学生が来るようなお店じゃないと思う。マックとかケンタとか、ファミレスとか、ミスドとか。コンビニで買い食いとかが日常の高校生には、ちょっとびっくりするお値段。
「せいちゃん、ここ高くない?」
せいちゃんは穏やかに笑った。
「なつが、修学旅行とかじゃなくさ、初めて東京に来た日だから、特別にお祝いだよ。バイト代とか貯めてたから心配しないで」
心の中のいろいろな雑音が消えて、しんとした。
ああ、そうか。わたし今日生まれて初めて、男の人とデートしているのかもしれない。そのときやっと気が付いた。ちゃんと準備していてくれたから、急に三人で回るなんてできなかったんだ。お昼に本気で怒ってくれた彼の横顔を思い出した。もっときれいな格好してくればよかったな……。
「どうしたの?」
「ううん。ありがとう」
正直、彼がここまでしてくれるなんて思ってなかった。バレンタインデーに恥ずかしくって竹の子の里渡しちゃうようなわたしを、女の人として扱ってくれてありがとう。でも、わたしは、
「ほんときれいだね。ここ」
せいちゃんは楽しそうに下から東京タワーを覗いている。
でも、わたしはあなたの彼女ではないよね。それなのにどうして、ここまで大切にしてくれるの?
「ねえ、このはちゃん」
東京から帰って次の日、このはちゃんと電話で話した。
「フツー、大学生で付き合ってるって言ったら、その……」
「なに?」
「そういうことするよね」
「?」
「その……」
「ああ……」
このはちゃんが間延びした声を出した。
「まぁ、普通はするよね。一人暮らしとかしてたら、特に」
「……」
「先輩彼女がいたんだっけ?」
「いた。すごい美人だった。実物見ちゃった」
「そうか」
「あんな美人とそういうことしちゃってんのかな。昔から知ってるせいちゃんが。想像できないよ」
「無理に想像しないほうがいいんじゃない?」
「……」
「楽しくなかったの?東京」
「楽しかったよ。無茶苦茶。でも、彼女には会いたくなかったな」
「紹介されたの?」
「いや、なんか呼んでないのに来ちゃったのかな?それで、けんかして帰ってった」
「つまり、先輩はなっちゃんにその人会わせたくなかったってこと?」
「そうだね。なんか珍しくすごく怒ってたし。せいちゃん」
「ふうん。そっか」
「なんか、たった半年なのにすごい大人になっていたなぁ」
高校生と大学生って一年しか違わなくても、なんか全然違うよ。あの大人っぽい美人な彼女も実はわたしと一歳しか違わないんだ。ほんと信じられない。すごく遠く感じた。実際の距離だけじゃなくて。
清一
夏休みが終わって、午前いちばんの授業に顔を出してみると、黒板に大きくチョークで『休講』って書いてあった。
「え~!」
大教室の中にもう一人学生がいて、僕の声で振り返った。
「あ、相澤さん」
同じクラスの女の子だった。
「中條君、久しぶり」
「休講だって、知ってた?知ってたらもうちょっと寝てから来たのに」
「ネットで大学の掲示板、こまめにチェックしてる子は知ってたみたい。あ、でもちょうどよかった」
相澤さんが僕のほうに近づいてきた。
「ちょっと謝りたいことあったんだよね、わたし」
「あれ、相澤さんだったのか」
「ごめん。大丈夫だった?」
夏休みまえになつが来るときのため、おいしいお店とか教えてもらっていた。鯉口があのホテルを知っていたのは、相澤さんから聞き出したからだったらしい。
「思い出したくない。悪夢のようだったよ。すごい剣幕だったし」
「ごめん。なんかあの時あの子どっかからわたしたちが話しているの見てたみたいでさ。ほら、わたしたち同じ高校出身だから、仲悪くもないのよね。で、何話してたの?とかすごい聞かれて、黙ってられなくて」
僕たちは空き時間を学食でつぶしていた。
「なんか、休みの間に君たち別れちゃったらしいって聞いたからさ、なんかまずかったかなぁって思って、気にしてたんだ」
「いや、でもあのことなくても、もう彼女とは無理だったな」
相澤さんはすまなさそうな顔でしばらく僕を見た。
「そういえば、後輩の子、喜んでくれた?」
「ああ、うん。特にお店が喜んでた。きれいって」
相澤さんはしばらく僕をじいっと見ていた。
「ねえ、中條君ってさ、あくまでまり(鯉口)から聞いた話で判断してんだけど、女の子から尽くされるタイプで、自分からつくすタイプじゃないよね、本来」
何か、話が変な方向に転がりだした。
「ええっと、その話からすると、俺ってすごいだめでやな男みたいなんだけど。俺だってつくすときはつくすよ」
「そこなのよ」
相澤さんはびしっと僕を指さした。
「すごい不思議だったわけ。その子のためにいろいろ準備している中條君が、今までと違いすぎて」
彼女はここで、ペットボトルのお茶を一口飲んだ。
「中條君ってほんとはまりみたいなタイプの子、好きじゃないんじゃないの?」
よく考えたことないけど、たしかに好きじゃない。せまられて、断る理由が特になかったからつきあったんだ。
「本当はその、後輩の子が好きなんじゃないの?」
「いや、そういうのじゃないから」
朝の学食はすいていた。テーブルにつっぷして寝てるやつもいる。
「なんか、否定はやいね」
「幼馴染なんだ。妹みたいな存在で、そういうのじゃないから」
「ああ、そうなんだ。それなら別にいいけど」
それでも相澤さんの好奇心はおさまらない。
「でも、彼女のためにいろいろ準備している中條君、すっごい楽しそうだったよ。まりと一緒にいてそんな楽しそうな顔しているの、見たことないし」
「妹が地元から出てくるから喜ばせたくて頑張ってるお兄さんみたいなもんだよ」
「ふうん。あにきねぇ」
相澤さんは肩にかかった髪を指でくるくるしだした。
「わたし、一個上のあにきいるけど、うちの兄貴だったら同じようなことしないよね。学校は案内してくれてもそれ以外はないな。それにこの年で兄貴と夜景はみないな」
「見ないの?」
「夜景は彼氏といくでしょ。兄貴とはまずいかないよ。普通」
何か次、嫌なの来そうな気がする。
「だから、兄弟みたいなものって思いたいだけで、二人の関係って兄弟じゃないんじゃないの?」
「……」
「ごめん、言いすぎちゃったかな?」
へへへと彼女は笑う。
「でもさ、次つきあう時は、そんなふうにつくしたくなる子とつきあいなよ」
「まあ、でも、彼女は無理かな」
「どうして?」
「ずっと」
僕は昔のことを思い出した。
「いいお兄ちゃんできたし、今更変えられないよ」
「それは、中條君は彼女が好きだってこと?やっぱり」
「いや、そんなこと考えたこともないし」
「考えてみてよ。どうなの?」
「う~ん」
「こう、そばにいて押し倒したいって思ったことないの?」
「そんなことしたら嫌われるし。まだ、高校生なんだよ?」
「じゃ、嫌われなかったらする?」
「……相澤さん、今、すっごく楽しんでるでしょ?」
「うん。すっごい、楽しい」
彼女は頬杖をついた姿勢で、満面の笑みで笑った。僕は立ち上がった。
「あ、行っちゃうの?」
彼女は甘えた声を出した。ちょっとかわいかった。
「もうそろそろ二限だよ」
やだ、本当だ。彼女はばたばたと立ち上がった。